2008年12月13日土曜日

いったいに…

月に一度来るHさん。地元で長年ご商売をされている。すでにお孫さんがいる年齢だが、今も朝早くから夜遅くまでしっかり働いている。

「もうばあさんだから、あちこち悪くて当たり前だよ」

よくそうおっしゃる。たしかに悪いところもあるが、その体はいつも充ちていて操法をしているとこちらも気持ちがいい。



しっかり体を使って生きているとはこういうことか、と感じます。何しろ
「あの娘なら働き者だから大丈夫」
と紹介されて嫁入りされた、ということですから年季が違います。


「いったいに…」
ある時Hさんが操法中につぶやいた。

しばらくするとまた
「いったいに…
…一体になるからなんだよね」

「むむ!」と思う。


操法後
「たーだ受けてるだけじゃダメなんだよね。やっぱ先生と、こう呼吸を合わせるっていうかさぁ、一体にならないとね。
あたしゃほんとそう思うよ。先生のこれ(操法)はさぁ。一体になるから治っていくんだと思うよ」

「さすが」と思う。

井本先生から教わった整体の基本は

相手とひとつになること、
相手とひとつになれば、
自然と手がそこに行く。

Hさんはもちろん整体を知っているわけではありません。しかし長年しっかり動いてこられ、整体生活が身についているのでしょう。

こちらの方が教わる思いです。

2008年11月30日日曜日

乾燥しております。

毎年この時季になると同じようなことを言うのですが、大切なことなので今年も同じようなことを言います。

乾燥してくると鼻水が出るのですが、これは正常です。肺の乾燥を防ぐために鼻で湿気を出すのです。
異常だと思って止めている人はおりませんか?


逆に乾燥しても鼻に湿気を帯びなかったらどうでしょう?

鼻の粘膜が痛くなってきます。
これは経験があるのではないでしょうか?
「鼻が乾いてしょうがない」「ひりひり痛い」
という感じです。

風呂に入ると湿気でうるおうので楽になります。
鼻水が沢山出る人も、お風呂では出ません。湿気が外から入ってくれるからです。

鼻の中もお肌と同じように、適度な“うるおい”が大切です。
この適度が難しいところです。
生活上の自己都合よりも、体本来の都合が優先されてしまいます。

鼻の湿気が足りていても、肺に“うるおい”が足りなければ、鼻水で補うのです。
体はうまく出来ております。
どこかが足りなければ、どこかが補ってくれるのです。
鼻水という体の“異常”に“正常さ”を観ることも必要なのです。

鼻水がうまく出ない場合は?
外から補いたくなるわけです。
そろそろ加湿器を出し始めた店舗やご家庭も多いのではないでしょうか?
(湯気の出る熱いものが恋しくなる人もいることでしょう)

整体では加湿器よりも、洗濯物の部屋干しをすすめます。
とくに寝ている間に乾燥にやられないよう、夜干しておくといつもよりも深い眠りが得られます。

もちろん乾燥に強い人には関係のない話です。

健康法は人によって違います。
美味しいと思うものが人によって違うのと一緒です。

そして同じ人でも日々変化がありますので、いつもは気にならない乾燥が気になるのなら、気候の変化か、体調の変化といえます。少し気をつかう必要があるでしょう。



そういえばマスクというのも有効です。




なぜでしょうか?




病原菌の関係ではありません。




吐いた息の湿気が、再び肺に入ってくれるからです。

いわばリサイクルですね。

興味を持たれた方は、どうぞお試しください。

2008年9月4日木曜日

棟方志功 全生 整体生活


驚ろいても  オドロキキレナイ
喜こんでも  ヨロコビキレナイ
悲しんでも  カナシミキレナイ
愛しても    アイシキレナイ


    それが板画です


棟方志功


志功はある時期から木版画を板画と称しました。
「全生」という言葉を聞くと、よくこの詩を思い出します。
ここには惜しみなく力を注ぐ姿勢と、そうすることで生まれる自然な要求が見事に表現されていると感ずるのです。


物質ならば使い切れば終わりますが、生き物は違うという感じです。
全力を尽くすことは枯渇を迎えるのではなく、飽き足らぬ要求を生み、次へと向かう生命力を生ずる、と感じます。


生を全うするとは、天寿を全うすることのように聞こえますが、整体ではいつの時も生き切ることを「全生」と呼んでおります。


門下生時代に
「門下生は私と生活を共にすることで、『整体生活』を身につける」

と井本先生はよく仰いました。

「常に動きなさい」
ともよく言われました。


「整体生活」も「全生」も惜しみなく行動することに変わりありません。

生き物は使うことで強くなり、使わないことで弱くなる。
ならば、しっかり使うことが大切です。


そして、裡(うち)なる自然な要求が生まれ
心と体を変えてくれるのです。

2008年8月23日土曜日

快便 整体的に…

「今日も元気だ、うんこが太い」

昔ビートたけしさんがよく言ってたような気がします。
(間違ってたらすみません)

あながち冗談とも言えません。

「かいべん、かいべーん」
なんてセリフをマンガやドラマの中で聞いたことも結構あります。古いタイプの人が言ってることが多いでしょうか。


快便を体調のバロメーターにしている人は結構いらっしゃる気がします。

一般的な解釈を加えれば、

腸の蠕動運動が正常に行われているから。

となるのでしょうが、もっと体の感覚からくるのではないでしょうか?

読んで字の如く、快いから…という気がします。

大便の切れが良い、すなわち肛門の引き締まりがスムーズな状態が快いのではないでしょうか。

整体的に捉えた場合、腸の蠕動運動も大切な要素ですが、括約筋の働きの良さに注目します。

脱肛というものがあるように、引き締まる力がなくなると腸が外に出てきます。肛門という輪を閉じるだけのようにイメージされる方もおりますが、実際の動きは中味が裏返りながら外に出ることで開き、中にすぼんでいくように閉じていきます。

個人的には花が開くときのイメージにも近いものを感じます。

引き締まる力がとてもしっかりしていると、大便をした後に紙で拭いても便がつきません。調子が悪いときほど、何回でも拭き取るようになります。年老いた犬の肛門が汚れ始めるのを、ご存知の方も多いかと思います。

引き締まる力がなくなり、粘膜が外に出て傷つくと「痔」というものになります。


更に整体学的な話になります。

整体では肛門の働きから、括約筋全体の働きに注目していきます。

亡くなった人の鼻に綿が詰めてあるのを見たことがあるでしょうか?
目に光を当て、瞳孔が閉じるか調べるシーンを見たことがあるでしょうか?

人間は亡くなると括約筋の緊張がなくなり、体中の穴から体液が漏れ始めます。
逆に言うと、括約筋の緊張弛緩が適度に保たれているのが、生きている状態と言えるわけです。

緊張と弛緩がスムーズであるほど、前述の「かいべん、かいべーん」の快さに表れるわけです。


次は括約筋と心臓についてです。
整体では心臓を括約筋と捉え、とても重要視します。
(心臓が括約筋というのは、医学的な認識ではありません。これについては下に注釈を設けました)

痔や脱肛、脱腸、膣脱、子宮脱、なども心臓との関連を見ていきます。
痔などは一般的に軽く思われがちですが、整体では結構注意を払う症状です。

あきらかな症状でなくても、「肛門がかゆい」なども一時的な心臓の負担をみます。この時季、暑さによる心臓負担も多いようです。


きれいなお尻にするために筋トレをすることがあるようですが、心臓に負担が掛かってくると肛門の周りはどうしても痩せてきます。こういうところは力を入れようにも、入れられなくなります。無理にトレーニングをすると更に痩せて、苦しくなることがあるので要注意です。

整体体操による正確な角度合わせが必要と思います。


※心臓と括約筋

・通常、括約筋といった場合は肛門括約筋、瞳孔括約筋など、管状、あるいは輪状のものを閉鎖させる筋肉を指します。また、括約筋全体を関連付けて読むのも整体独特の視点です。

・整体で括約筋と関連付けるのは、血管という管状のものを閉鎖させる働き、という点に着目しているからだと思います。

・発生学的に見直せば、心臓といえど血管という脈管系に由来します。閉鎖開放能力が特化した結果、高度に分化し臓器として独立発達した、と捉えるのは大筋異論はないと思います。論理を一歩推し進めれば、括約筋的な働きをするものの中で心臓は最大級と言えるのではないでしょうか。

・名称、あるいは分類上無関係であっても、生物の働きとして観た場合、関連を考えていくのは面白いことだと思います。その関連度合いについては異論反論あるかと思いますが、興味を持っていただけたならうれしい限りです。何かありましたら、どうぞコメントされてください。

2008年8月21日木曜日

寝相 布団から出てしまう 整体的に…

夜中に目が覚めると、布団の上にはみ出している。

そんな経験はないでしょうか?

今の時季なら問題ないのですが、冬になると寒くて目が覚めます。

整体的にはどんな意味があるでしょうか?


体が高潮に入ると、上へ上へと向かいます。

逆に低潮に入ると、下へ下へと向かいます。


それが何の役に立つか?

小さな現象ですが、読みとして使っていくと面白いものです。

例えば風邪を引いたとき。

上へ上へ向かっていれば、問題なく経過しているという指針になります。

下へ下へ向かえば、ぐずぐず長引くかな?

と心構えが出来ます。

自分の体調を推し量ることも出来ますが、家族の体調を見るのにも役立ちます。

子供や赤ん坊の体調など、本人に症状を表現する力が無いときなどもいいと思います。


いじめなど、学校での問題がよく取り上げられます。

学校で何かあったのでは?

そんな心配をすることもあるかと思います。

寝相が下へ下へと潜っていくような時は、ちょっと注意をむける必要があるかもしれません。


一つの事で全てを決めるのは気が早い面はありますが、日々観察をしているとちょっとした変化が大きく感じられる時があります。

勘ともいえます。


興味のある方はお試し下さい。

2008年8月7日木曜日

寝ると明暗がはっきりする

…つづき

前回ちょっと説明不足でした。


眠りに入るときに体がゆるんでくる、というのは大抵の方が納得できるかと思います。

実際そうです。

そして体がゆるんでくると、ゆるまないところが際立ってきます。

そんなわけで流れの悪いところが、かゆくなってくるのです。



咳が出るというのも同様です。

咳で何がゆるむの?
という単純な疑問が残りますが、詳しくはいずれの機会にいたします。


のど、呼吸器、消化器などをゆるめるために咳が出ることがある、とだけご理解ください。

くしゃみをするとすっきりするのは誰もが実感があると思います。

しかし寝ているときにくしゃみはまず出ません。
睡眠中は刺激が強すぎるのかもしれません。


もうひとつ前々回「寝相の悪さ」もあげました。

寝相の悪さは、お行儀の悪さと違い健全な証です。

子供の寝相の悪さは皆さんご存知かと思います。

寝ている間に体の硬直を解消するためにドタバタとやるわけです。

寝た時のまま動かずに朝を迎える人がおります。
こういう人は大抵疲れが解消しておりません。本人も実感されることと思います。

「仰向けに寝ないといけない」
「枕を使って姿勢を保って寝ないといけない」

そんな風に寝ている姿勢を固定して考える必要はありません。寝相は動いて正常です。

うつ伏せ、横寝、バンザイ寝。

その時々にゆるめようとするための姿勢を無意識に取ります。

そんな無意識の動きが正常に出ることが整体の状態と言えます。

一般に健康体とは病気がない状態のようですが、
体が整体であるというのとはちょっと違います。

整体操法や整体体操はそんな体に近づくためにあります。


ちょっと中途半端ですが、「寝るとゆるむ」シリーズはひとまず終了です。



話は変わりますが、磯谷整体のホームページがどんな検索キーワードでアクセスされているのか一応調べております。変わったところでたびたび引っ掛かるのが


「足の小指を角にぶつける」
となっております。


「小指 角 ぶつける」
とか、その手のキーワードで結構訪問者がいるのが面白いです。
どんな目的か分かりませんが、ネット上ではいろいろな検索がされているのを実感します。


試しに
「万歳して寝る」
「手を上げて寝る」
などを検索してみると、これまた調べている人が多いのに驚かされます。

このタイトルで書いてみようかと思ってるのですが、取り合えず先送りしております。



生き物の運動は一見無意味に思えるものにも意味があります。


右手を使うために左半身も動きます。
前に倒れそうになれば、後ろに力が入ります。
上に伸びようとすれば、下に力が入ります。


無意識に動く運動ほど、その意味は大きく、生きていくうえで大切なものです。
そんな運動が上手くいかなくなると、動きはギクシャクしてきます。
体の伸び縮みが感じられず、ひとかたまりのように見えたりします。

疲れというものが無意識に表れることがあります。

腰が疲れれば足を組みたくなり、
肺が疲れれば腕を組みたくなることがあります。

社会生活上、人の迷惑を考えなくてはなりませんが、
体の都合上、我慢できない人もおります。

せめて寝ているときくらい、自由に動かれることをおすすめします。

2008年7月22日火曜日

寝るとかゆくなる

続きです。

寝るとかゆくなるのはナゼでしょう?


寝入りばなにかゆくなってくる。

何となくかゆい程度ならちょっとかけば解消しますが、

虫刺され、湿疹、アトピー、

そういうのは厄介です。

皮膚がやぶけないように弱くかく。

刺激が物足りなくなる。
いや、かえってかゆさが増してくる。


強くかきたい」
「あぁでも、傷になったらいやだ


仕方なく周辺を強くかいてみる。
叩いてみる。

そのうち多少はすっきりとして寝てしまう。

ところが、

努力の甲斐なく、寝ている間にしっかりとかきむしってしまう。

朝になると、寝巻きや布団が血で汚れてたりします。



ここでちょっと寄り道します。

「かゆみ」というのは感覚ですが、この感覚神経はいまだはっきりしていないようです。

「かゆみは痛覚の弱いもの」

という話を昔聞いたことがあるのですが、ネットで調べてみると最近は違ってきているという話も出ておりました。
しかし定説らしきものも見当たらないので、はっきりとはしていないようです。


はっきりさせたい人にとっては気持ちがかゆくなる話です。

皆様は「かゆみ」って何だと思われますか?

整体の答えは単純です。

「流れが悪いところがかゆくなる」
「かくことで流れが出てくる」


思い当たる感じはあるでしょうか?

私は初めてこれを聞いた時、「なるほど」と思いました。

どこか分からないけどかゆい。
皮膚の奥のほう、手の届かないところがかゆい。
しもやけで鈍くなった指、爪を立てながらかゆみを探す。

そんなじれったい感覚の正体は流れの悪さだったのかぁ。
そんな感じです。

子供の頃、お年寄りが「孫の手」を使うのが不思議でした。
手が届かないとはいえ、何回でもかいてる。

流れの悪さが原因なら合点がいきます。

流れが悪いほど、何回でもかく必要があるのです。

「かけばいい?」
「でも傷になると困る」

そんな人は蒸しタオルが効果的です。

虫刺され、湿疹、アトピー、
流れが出てくるとかゆみが緩和していきます。

どうぞお試しください。




寝るとかゆくなるのはナゼでしょう?

流れをよくしてゆるめるため、と言えます。

「寝るとゆるむ」シリーズ
ほとんど答えが出てしまいましたが、次回も続きます。

2008年7月19日土曜日

寝るとゆるむ

   寝るとゆるみます。 


誰でも知っていることです。

整体の智慧でも何でもないかもしれません。

では、こういうのはどうでしょう?


   寝るとかゆくなる。

   寝ると咳が出る。

   寝相が悪い。


「生き物はなぜ寝るか?」

子供相談室のような質問ですが、科学的に答えようとすると意外と厄介です。

 「ゆるめるために寝る」

そんな単純な回答の方がしっくりします。

では、そんなしっくり感のある回答にもとづいて次回以降考えてみます。
続きがなくてがっかりした方すみません。
どうもいつも長くなるので、短くきざんで連載してみます。



2008年7月5日土曜日

名刺以前の存在と整体 病名に寄せて

自分で自分の記事を洒落ました。おバカなことです。
悪乗りすれば、「磯谷整体的・安部公房」といったところでしょうか。



門下生時代、印象に残るものとして井本先生の敬語があります。慇懃と言うより、自然な言葉で門下生にも敬語を使われるのです(常に、ではないです)。

素朴な疑問を敬語で聞かれ、くすぐったい思いをしたものでした。

礼儀といえば分かりやすいですが、それよりも私は、先生の人に対するフラットな接し方を感じておりました。



整体は色々なことを読みの対象とします。沢山のことを読みの対象としながらまぎれのない答えに向かうには、フラットな姿勢を要求されるのだと思います。

これは他の世界でも同様のことが言える気がします。
ことに当たる前に偏見が邪魔をしないようにする方法論を多々見かけます。



「どういう人かな?」

そんな興味が小さい頃からありました。
有名無名を問わず興味が湧くと走り出してしまうのです。人にしつこく付きまとって嫌がられたこともありました(最近はありません・笑)。
振り返るとずい分いろいろな人に興味を持ちました。初めは外に表れた業績のようなものに興味を持っても、最終的には人物像に興味が遷っていくのでした。そういう性格が後押しして、門下生に向かった面があります。それがなければ畏れ多くて井本先生の傍には近づけなかったと思います。

そんな道程で出会ったノンフィクションにも色々な作風がありました。

 ・事実から隠れた事実に迫るもの
 ・事実から世相を見せるもの
 ・事実から事実になる以前の世界、

 主に人物の内面を浮かび上がらせるもの

 事実を追うノンフィクションであっても、見えてくるものに違いがあるのは面白いものです。



医者に対する要求として、よく聞く話があります。

「話を聞いてもらえなかった」
(うちも聞くほうではないです)

「検査結果だけ見て、こちらを見てくれなかった」

「機械に診てもらっただけの気がする」

要するに

「私を見て」
ということだと思います。

医者の責任でしょうか?
極端な医者もいらっしゃるのかもしれませんが、受診者側の問題を思います。

「○○病です。診て下さい」
「○○病を治して下さい」


最初から○○病の名札を首いっぱいにぶら下げていれば、○○病しか相手にされないかもしれません。


一般に、整体もそのように思われることが多いです。


肩書きをもらうと安心するように、病名ももらいたがる人がおります。

「○○病ではないでしょうか?」

検査結果に異常がないと、かえって不信感を持つ人もおります。最もそうやって再検査するうちに正確なところが分かることがありますので、そういう姿勢も必要です。

しかし時に、そうやっているうちに病名獲得が目的になってしまうことがあるようです。

資格を目指して仕事にはビジョンや興味がない、ということもありますので、名前にはそういう楽しみが隠れているのかもしれません。

名刺や肩書きが人間の存在よりも重要になることがあります。
またそれは問題だという見方があります。
人と人との関係上、問題になることもあれば、仕事を引退した後に名刺や肩書きが捨てられないという内面の問題もあります。

肩書に支えられた人から、肩書がはずせないように
病名に支えられた人からは、病名がはずせない場合があるようです。



思春期に

「俺をレッテルで判断するな!」
        (ちょっと古いですか?)
「あたいをそんな目で見ないで!」
        (だいぶ古いですね)

というのがあります。

独立の要求・自分という存在・大人への模索と言えます。例としては極端ですが、多かれ少なかれそうした傾向があります。大人という存在に向かって、生物上の自然な要求があるのは面白いことです。


整体に

「自らの足で立つ」
「自らの足で立たしむるには」

という思想があります。

個の独立は時に揺らぎ、
時に一人では修正が困難ということでしょう。



磯谷整体にも初診票があります。名前は初回票でも初見票でもいいのですが、とにかく初めての時には書いてもらいます。名前・住所・職業・年令・症状……人には色んな名札があるものです。

沢山書く人もいれば、全部書かない人もおります。

 職業○○の人
 肩こりの人腰痛の人
 ○○病の人…

どんな人でも診ます。ひと通り票も拝見しますが、
いざ観るとなれば、

 「この人どんな人かな?」

 「体はどこに向かってるのかな?」

そうやって一から観始めるしかないのです。
それが個人を診ていくこと、と思うのです。

2008年6月24日火曜日

右か?左か?

生き物の成長に模倣は欠かせません。特に鳥や哺乳類など子育てをする動物は、親が手本を見せて覚えさせております。

さて、わたくしも親バカなりに手本を見せて教えております。

例えば飛行機の真似。
ただ単に手を後ろに伸ばして「ゴォォォ」とやるだけです。

かなり喜んで真似をします。ところが首に力が入り過ぎるので、ちょっと形を変えることにしました。それはなかなか真似してもらえません。要工夫です。



真似をさせるつもりはないのに、真似をすることがあります。
例えば食事です。
私の口に食べ物を運んでくれます。親切なときは一度口の中で噛んだものをくれます。これは1歳過ぎに始まりました。


最近は寝かせようとしているのに、私を寝かせて毛布を掛けてくれます(年を取ったら面倒を診てもらうつもりです・笑)。

これらが真似なのか、性質なのか、観察しているところです。私のおせっかいな性質が似てしまったか?と思うことがあるからです。


時々散歩に連れ出します。子供(1歳8ヶ月)ですから度々立ち止まって、何かを観察します。先を急いでるときは困ります。
「さて歩かせよう」
みなさんどちらの手を引くでしょうか?



相手をリードするには右側に位置する。というのが整体にあります。
「左手を引いてむずがる子でも、右手を引くと意外とついて来たりする」
というのを井本先生から教わったこともあります。

だいぶ実験しました。やはり右手を引いた方が勝率は高いです。また手の捉まえ方は整体の基本的な手の使い方が有効です。気の誘導とは面白いものです。
お子さんがいらっしゃる方は試してみられて下さい。百発百中はないと思いますが、面白い発見があると思います。

お子さんがいらっしゃらない方は、街中で観察してみられたらどうでしょう。親子連れはもちろんですが、カップルを観察すると結構面白いものです。男性女性、どちらが右か?左か?


あまり決め付けすぎるのは禁物ですが、ある程度参考になります。人によっては右に立たないと歩けないとか、左に立たないと歩けないとか、流儀のようにしている人もおります。左右の感受性が鋭いのでしょう。


右と左、形はほとんど同じですが、その奥にある感受性には差があるようです。

2008年6月18日水曜日

名辞以前の世界と整体 思い出に寄せて

名辞以前の世界という聴きなれない言葉、これは詩人・中原中也が自身の詩論を語るときに使った言葉です。

解釈は各々あると思います。私なりに意訳すれば「あらゆる事象が言葉になる以前の世界を、言葉を使い表現する」ということだと思います。中也は詩を文学上最高のものと位置付け、名辞以前の世界を表現することに生活を捧げました。捧げると言うと大げさかもしれませんが、実生活は立ち行かず、幼な子を亡くし、発狂するように夭折しました。

昔、中也に興味を持ち彼の故郷である山口県で一週間ほど過ごしたことがあります。彼の詩がものすごく好きだったわけではないのですが、何か人物像に興味を誘うものがありました。取り立てて成果はないのですが、最近「名辞以前の世界」というフレーズを思い出しました。


整体操法という技術は体を変える技術ですが、身体に触れ、その奥にあるものを変えていく技術と思います。ですからいかに用いるか?ということを大切にします。
「教えた技術が活用出来てない」
と井本先生にお叱りを受けます。それが整体の難しさと思います。

門下生(内弟子)生活が終わりに近づいた頃、
「いそやくん、きみもそれなりに取れるようになった。これからは如何にそこに味をつけるかだね。味付けっちゅうやつだね。そうやって自分のスタイルを作っていくんだね」

うれしかったです。そしてあらたな課題をいただいたのでした。技術に奥行きがなければ整体操法とは言えないのだと思います。



奇縁とでも言うのでしょうか、私は門下生として井本先生のいらっしゃる山口県で過ごしました。そして先生のご厚情で湯田温泉に何度か行かせていただきました。そこはかつて訪ねた中也の生家(現在は記念館)があるところです。深夜に宿を出て散歩しました。

中也記念館はそこにありました。私の記憶は頼りなく、甦る闇景もそこにはありませんでしたが、しばしノスタルジーに浸ったのです。



ここが私の古里だ

さやかに風も吹いてゐる



    心置なく泣かれよと

    年増婦(としま)の低い声もする



あゝ おまへはなにをして来たのだと……

吹き来る風が私に云ふ



中原中也「帰郷」の後半




中也にとっては本物の帰郷ですが、私にとっても帰郷の心境があり、門下生としては来郷と言えました。尾羽打ち枯らし帰郷した中也の詩には胸がつまり、自分の修行の先に光を思い、置いてきた妻に責任を感じ、あれやこれやと気持ちが巡るのでした。




秋の夜は、はるかの彼方に、

小石ばかりの、河原があって、

それに陽は、さらさらと、

さらさらと射してゐるのでありました。



≪中略≫



やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、

今迄流れてもゐなかった川床に、水は

さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました……



中原中也「一つのメルヘン」




郷愁に浸る私に「あゝ おまへはなにをして来た」は厳しく突き刺さりましたが、「ひとつのメルヘン」はいろいろな気持ちをただただ、「さらさらと」流してくれました。

話は変わりますが、記念館で中也の恋人・長谷川泰子が太鼓を叩いている映像を昔見ました。既に老人の域でしたが、その伸びやかな叩き方は爽快でした。天衣無縫、身勝手、とも言われる泰子ですが、魅力ある女性ということがよく分かりました。



さて、名辞以前の世界、皆さんは整体に何を期待されるでしょうか?
それ以前に整体と何の関係があるの?
でしょうか?

細かな解説はさておき、私には関係があるように思えるのです。

2008年6月13日金曜日

『不連続統一体』吉阪隆正 と背骨

不連続統一体を』 吉阪 隆正 著


もう十年位前、このタイトルを目にしたとき、大きな衝撃を受けました。
刺激と言いかえる事も出来ます。


「そうか、そういうことか」
著者の見解はさておき、私の中で閃くものがありました。

集めることと弘めること

独立を損なわずに統一を与えること

停滞に陥らない安定性

不安に導かれない可動性


二つの矛盾した力、それをそのまま認めつつ
しかも協調を見出すこと。ここに二〇世紀后半の課題を解く鍵がある。

1959年 吉阪隆正氏がとある建築コンペに提出した計画案の設計趣意書の一文。


建築家・吉阪氏は主に、社会、建築、生命、この世界、といったものに対する鍵とされていたようです。詳しく知りたい方は最後の方に引用を掲載させていただきましたので、そちらをご覧下さい。


今回は「不連続統一体と背骨」ということで書いてみようかと思います。
「強引に整体に持って行ってる」とご批判されそうですが…

 背骨は体の柱などと呼ばれ、何だか動かないもののようにイメージされている方も多いようですが、背骨の一つ一つは非常に複雑な構造であり、その動きの方向は非常に多彩です。10センチも20センチも一つだけが動くことは出来ませんが、動く方向に柔軟性があるので、伝播及び受容方向がそれだけ多彩になります。

 平たく言えば、背骨はいっこずつ柔軟に動けます。 

進化発生の中で最初から背骨が一個一個であった訳ではありません。初めは一本の連なりです。それが少しずつ分かれていったのです。

ここに進化の意味があります。一つ一つが独立した動きを持ち、尚且つ全体として統一された動きを作っているということです。

背骨の独立に積極的な意味を見出すなら、一つ一つの動きが良くなることが、体の各所の働きを引き出すことになります。また全体として統一された動きとなるのなら、体全体の働きが統一されているということです。


操法(施術)の中ではこうした背骨の動きを読んでいきます。一つ一つの背骨に象徴される意味があります。動きは働きであり、言い換えれば能力といえます。


ある背骨の動きが悪くなります。硬直を起こしてきます。すると隣の骨にくっつきます。企業になぞらえて合併みたいなもの、とよく言われます。

何とかかんとか動くには、隣と一緒になってでも動かなくてはなりません。

ひどくなると本当にくっついたようになって、骨と骨の間が無いように見えます。こうなると後戻りはかなり困難になります。

先程ひどくなると、と申しましたが、元気に生きてらっしゃる方の中にも、こういう方は珍しくありません。人間って強いものだと思います。逆に健康体、強くなる可能性も、どこまでもあるものだと感じます。


「子供は柔らかい」
よく耳にします。どこが柔らかいのでしょうか?まずは背骨と言えます。しかし硬い子供が増えているのも事実です。豊かな国を作るなら、子供の体のことは大切な問題です。


話が飛びそうなので、今回はこのあたりにしておきます。
「不連続統一体と背骨」ということでお送りしました。


以下は「不連続統一体を 吉阪隆正 著 勁草書房」からの引用です。


この考えは、作品の創作態度の上に一つの基準というか拠り所を与えてくれると共に、多人数を動員して創作する時に、その人々を動かす手段としても利用できる。もしも社会がこの考えを採用してくれるならば、案外に住みよい世界もつくり得るのではないか、とほのかな光明を覚えるのである。

1958年

吉阪氏の人間性を感じる一文です。

「前々からそう思っていたんだ。今日は大分それがはっきりしてきたような気がする」



理論として抽象的であることを承知しつつ、大ボラをぶっぱなした(本人の言葉)そうです。



「星座」という言葉を利用してもよいのだが、それでは動きがなさずぎる。「空間」に対して「充感」というのがまだあたっているかもしれない。
≪中略≫ 
人類何十万年の歴史が経ったけれども、裸ではたいした変わり方をしていない。進歩しているのかもしれない。進歩どころか退歩しているのかもしれない。しかし人間の生み出した多くのもの、テクノロジーとやらのお蔭で、裸の人間に神に近い力を与えることができる世の中になりつつある。この二つの矛盾の中に生活する場をつくる任務が、私達の課題だと考えてみた。 
≪中略≫ 
黒いと思っていた髪を赤くしたり、低い鼻を高くしたり、あるいはまた男が女に、女が男になったりする世の中なのである。何が起こるかわからない。いわば、われわれ人類は、自然の力に対して「主体性をとりつつある」ともいえるのだ。
≪中略≫
規格品が大量に生産されれば、個人的な好みは無視されて押し流された、これを歴史的必然として、操り人形的存在と解するのには反発を感じているのである。私は生きているのだ。「私」を認めてくれと叫びたくなる。これは現代の人々の痛烈な叫びである。


≪大略≫


かつての建築家は、床も、内と外の壁も、天井も、屋根も、一つの統一体として考えて構想を練っていた。石や、木などを使い、閉鎖された固定した社会ではそれも一つの統合体として必要であった。
≪中略≫
今更「建築家の主体性」などと叫んでみたってナンセンスである。それより人類の各個人の主体性の確保のほうが、もっと、もっと求められているものなのだ。


言葉がつくり出された時、皆は理論が体系立てられたように感じた。だがもともとまだ主観的にそれらしいという直観が働いただけであったから、各人各様の解釈が行われていたに違いない。それでも、その言葉の生まれた当初は、皆意見が一致したような感覚に包まれていた。

≪中略:不連続統一体というテーマが、大学の建築展のテーマに採用されます≫

くすぐったいような気持ちで、しかしまだ理論立っていないことの不安と、だが方向には誤りなさそうだという自信とをこもごも味わっているのだった。そして、社会のあらゆる現象といっても、本人の思いついたものを拾っては、この言葉の内容を試して見ているのだった。うまく説明がつくと、ひとりニコニコして、「おれは誤っていないらしい」とその度に自信をつけている。だが逆にいえば、おそらくその度に硬化現象を起こしているに違いない。

 脳みその皺はその度にふえたかも知れないが、血管の方はコレステインがたまったことだろう。意識はこれを防ごうと努力しているが、生理的なものへの働きかけには、精神方面でも同じように微力であったらしい。

師匠であるル・コルビュジェは扉の向こうの素晴らしい輝きを発見した、と言っているが吉阪氏自身は扉を発見した程度と思いつつも、扉の向こうに

個はそれぞれその独自性を発揮しながら、集団とうまく調和を保っているような、そんな世界が予想されるのだ。

としている。
 スピードの増大と、エネルギーの強大化とによって、かつてとは比較にならぬ広い世界に連帯関係を保ちながら生きてゆかねばならない現代、雄大な物量、能率的な機械が生産されているのに、これがうまく分配されていない現状、それでいて、この技術文明の思想から離れた時は、とたんに大昔と同じ小さな世界に戻り、終には自己だけを頼りにしなければならない現実。こうした世界には、昔ながらの理論で秩序立てることは無理だ。新しい、時代に即応した理論が必要である。

 その理論を「不連続統一体」という名称で呼んでみたまでである。動こうと思えば、誠にダイナミックに飛び廻ることができて、広い世界を我がものとできるのに、やはり自分の殻の中を大切に人に侵されまいとする矛盾した欲望と可能性の中に、調和をもたらすための筋を、こんな言葉で表してみたのである。

 そしてそのことは、人間関係についてもいえるように、物の関係についても造形についても、芸術一般についてもいえそうに思えるし、その筋を通して完成され、洗練された時には、現代の人々の感銘を呼び起こせるのではないかと予想するのである。そうした感激を知ることこそ人生の幸福だといったらいけないだろうか。

≪中略≫

 建築を通じてこの感激を生み出すことが、今の私に課せられた任務であろう。だとすると、この「不連続統一体」の理論は、建築のプランニングにも、造形の上にも利用できるものであらねばならない。例を外にとるならば、自然にある森や樹木を見るがよい。木々は夫々の姿を夫々の法則に従ってとっているのに、全体としての森も又一つの性格を形づくって統一されている。木の葉や花も夫々独立しても美しいが、一本の木となって別な美しさを出現している。建築もまたそうありたいものだと考える。

 鉱物や貝殻を見るがよい。一つ一つの結晶や細胞、それの集まった塊、別々でありながら一つであり、一つでありながら又個々に存在している。この方向に、個性はありながら全体に融合する建築をつくりたい。
長い引用におつき合い頂きありがとうございます。
整体を彷彿する部分も多く、非常に興味深いです。

いや、整体を離れた私個人の興味の方が強いでしょう。それでも整体の仕事や社会的な課題を示唆されている気がしてきます。



2008年4月18日金曜日

鎖骨、のど、腕を使う

鎖骨がつまると、のどがつまったようになります。

もっとも「鎖骨がつまる」という表現は一般的ではありませんので、ちょっと分かりにくいかと思います。

観察上は、明らかに左右の鎖骨の間が狭くなっている、とか
下がっている、とか
可動性が無い、といったことを観ていきますが、これも普通は分からないことです。


例えて言うなら、ちくわの空洞が食道なり、気管なりだとして、外から紐で縛りつけたり、ちくわ自体が硬くなったらどうでしょう?
中の通りが悪くなりますね。

食道も気管も開いたり閉じたりがスムーズであればいいのですが、外が硬くなると何かと難しくなるようです。

ものが飲み込みにくい、のどがいがらっぽい、のど元で咳が出る、タンが詰まる。
人によって症状は様々でしょうが、鎖骨の問題が観られるときは、ここを緩めていきます。
整体操法で緩めることになります。

自分でやる方法としては、体操と蒸しタオルが有効です。


鎖骨がつまる原因としては、汗、腎臓の問題もあれば、腕の負担から来るものもあります。

私はよく美容室を覗くのですが、どんな風に力が掛かっているのか見るのが面白いのです。体の使い方が上手いなあ、と思うこともあれば、苦しそうだなあ、と思うこともあります。

腕の疲労をのどや肺で受け止めてしまうと、咳が出ることがあります。これはわれわれ療術家も気を付けないといけない事です。

夜中に咳が出るようになると、「あ、気をつけなければ」と思います。


ちょっと分かりにくい話になったかもしれません。

腕を使って負担が掛かる瞬間を自覚することがあります。

物を持ち上げようとして、のどがつまる。
呼吸が浅くなるのとは違います。不快な息苦しさを覚える感じです。

軽いと思って引いたドアが、重かった。
思わず「うっ」と苦しくなることがあります。
肺に力が入って硬直しているのを自覚します。
これも呼吸が浅くなるのとは違います。不快な息苦しさを覚える感じです。


とある体操選手数名の、体操中の筋肉の使い方を計測した記録がありました。
一流と言われる選手は動作中に呼吸筋の緊張が少ない、というものでした。

こういうデータを直ぐに鵜呑みにはしませんが、「やっぱりそうか!」と思わせられました。


話は変わりますが、これから薄着の季節になってきます。
いろんな人の鎖骨を見ることが出来ます。

プロのような観察は必要ありませんが、柔らかそうな鎖骨はやはり働きがいいものです。

腕を使う職業の人はもちろん、声を使うような人も、鎖骨が緩んでいる方が仕事がスムーズに運べるようになります。

2008年4月2日水曜日

人間とは?整体操法の成立から

整体操法を作り上げる過程で、沢山の手技療法家が話し合ったようです。

それぞれ名人の方々だったようですが、専門が分かれていたようです。
足だけ、お腹だけ、背中だけ、尾骨だけ…

具体的な話し合いの内容は分かりませんが、面白いエピソードを伺ったことがあります。


足を専門とした治療家は
「木だって根っこから養分を吸収する。人間だって足が一番大切だ」

その反論が面白い
「確かに木は根っこから養分を吸収するが、人間は腸から吸収する。よってお腹が一番大切である」

それぞれ主張しあったようです。
もっと沢山のエピソードを聞いてみたいと思いますが、私はあまり存じ上げません。


私にとって興味深いのは、人間をどう見るか?
という視点で主張があったということです。



現代医学では、脳を最高中枢として考えるのが主流でしょうか?
諸説あるでしょうが医療上は混沌とした印象があります。

よく分からないものを自律神経失調症とくくっている気がしてなりません。

更年期と関連してか、ホルモンバランスも注目されております。

癌との関連と思われますが、免疫系統を治療上の上位に据える方も多いです。

分子生物学が発達して、遺伝情報をより上位に据える方向もあります。

分子生物学の発達により、解剖学や形態学は劣勢を強いられているようですが、健康産業界では「ゆがみ」というフレーズは根強い支持がありますので、一般的には形への興味は尽きないようです。



「整体は運動系統を診る」
と何度も教わりました。
運動系統から中の状態を読んで、運動系統にアプローチすることで中の状態を変えていくということです。

もっとも井本先生はそれ以上のものを診てらっしゃいましたので、「運動系統を…」というのは基本、原則のものと私は理解しております。


整体操法でも形を診ますが、形が表れる理由を観ている、と言ったほうが正確です。
そうしたわけで、形の矯正という考えはほとんどありません。

個人的には人間の個性の巾は、他の動物とは比較にならないくらい多様なものだと思います。

表現された形に個性を感ずれば、何でも鋳型に押し込むような考えは不自然なことに思えてきます。

ほったらかしにしてもいいということではありませんが、その人に必要なものを診ていくというのは、形の矯正ではまかなえないものと思っております。

2008年3月31日月曜日

『太鼓持あらい』を読んで

『太鼓持あらい』、正確には『「間」の極意

タイトルに魅かれて読んでみたら非常に面白かったです。

以下松岡正剛氏の書評を引用させていただきます。


 客がお座敷で遊ぶときに、その酒や料理や話や遊びの「間」を助けるのが太鼓持ちなのである。

 むろん一人で「間」をとってはいけない。まず客と客との「間」があり、客と女将との、客と芸者衆との「間」もあって、それらの「間」をうまく捌いて、出入りする。その絶妙を何によって保証していくかというのが、太鼓持ちの芸と勝負手になっていく。

 芸者と「拳」や「金毘羅ふねふね」「どんたくさん」などの浮いた遊びをしているときは、いい。みんなと交じってはしゃげばよろしい。芸者さんが芸をしているときもいい。これは邪魔をしてはいけない。太鼓持ち本人が「えびす大黒」や「三人ばあさん」をやっているときも、むろんいい。これは芸を見てもらうところだから、「それじゃひとつ」とさっとやってみせるにかぎる。

 難しいのは平場で酒を酌みかわし、料理をつまみながら喋っているときである。ここはひたすら「間」だけが動いている。ここで太鼓持ちはどうするか。むろん法則なんてものはない。ひたすら場に当たって「間」を読んでいくしか修行の方法はない。ようするに太鼓持ちこそ「間の人」なのだ。


※出典 松岡正剛の千夜千冊



何が面白かったかと言いますと、整体操法と似ているのです。

虚と実を行き来しながら、何かを成立させていく考え方は正に整体操法と言えると思います。

手技療法という「実」の技術に間などの「虚」の技術を取り入れて、理論としてはっきり打ち出したのは、おそらく野口晴哉氏が最初と思われます。

そしてこのことが一般的な手技療法との境界線を生んだようです。

「間」というのは日本文化を語る上では欠かせない要素と思われますが、太鼓持の衰退などを見るに、「虚」を生業とすることの難しさを思います。


太鼓持あらい氏はお座敷仕事から、講演など実社会へ活動の場を広げているようです。太鼓持も長い歴史の中で変遷してきたこともあり、あらい氏も現代社会でのあり方を考えられているそうです。

昨今、武術家なども一般社会へのアプローチをしていることもあり、非常に大きな文化の過渡期を感じてしまいます。

整体の仕事も少しずつ変わっていくのかもしれません。


整体操法は高度な技術と思いますが、それを身体操作技術と判断するなら大きな過ちと言えます(もちろん名人クラスの身体操作技術は凄いものがありますが…)。

どんな治療術をするのか?
そんなことをよく聞かれるのですが、私に出来る範囲のことをどれだけ大きなものとして体に覚えてもらえるか、ということをしております。
あっと驚くような身体操作術を使うわけではありません。
時間も短いものです。平均すれば10分程度と思います。

時間制にすれば労働対価として分かりやすいのかもしれませんが、必要なところを診ておりますので、「何分コースで…」ということが出来ません。

日々移ろう季節と人の体があり、生活も平穏無事な毎日ばかりではないと思います。
整体に費やす時間はいずれ短いものです。

そんな中で体の中に深く長く残るものを追いかけております。


虚を生かす。虚から実を生む。
師匠から教わったことですが、はなはだ難しい課題です。
そうとはいえ、この課題に魅了され取り組んでおります。


太鼓持あらい氏の本を読んで、ずい分色々なことを考えさせられました。




2008年3月12日水曜日

骨粗鬆症と運動

先日読んだ本に、中空の丸パイプは剛性が強い、とありました。


作者は建築業界の方で、建築資材の成り立ちと構造を解説し、
自然界の生物の構造を比較しながら、子供向きにわかりやすく解説されております。


同じ量の材料で製造したときに、中空パイプの構造は剛性が高く、バランスがいい、ということでした。
これには力の加わる方向が決まっていない時、という条件がつきます。



自然界では竹がこれにあたり、更に節があることで、補っていると続きます。
動物では鳥の骨が中空なのを例に挙げております。少ない材料で強度を上げる、という意味であります。

ここで、はたと思い出すと、生物学系の本を読むと大概、鳥の骨は重さを軽減するために中身をスカスカにしている、という程度の記述しか見たことがないのに気がつきました。


剛性という見地からのアプローチは見たことがありません。
(探せばいらっしゃるとは思います。ご存知の方は教えてください)

同じものを見ても背景が違うと差がでる、というのは常にあるものです。



ここから整体の話。

井本先生は「本物の骨粗鬆症は、ちょっとのことで骨が折れる」
ということは仰いますが、多々ある事例という扱いはしていない、という印象があります。

私なりに考えると、年をとって若い人と同じ骨量がある方が不自然な気がしております。

必要な骨密度は、その人の運動量と方向性から導き出されるものではないでしょうか。

骨密度を測る簡易な装置もあり、世間では過剰な反応を示している気がしてなりません。

2008年3月9日日曜日

医者通い

先日面白い話を聞きました。



ある患者さんが言うには


「みんなよく医者にいってるよ~
いちいち医者に行くんだよね~」

とまあここまではよく聞く話


「どういう時に医者に行ったらいいか
見分けらんないんだろうね~」



なるほどな
と思いました。

私自身は医者に行くことはないのですが、
特に避けているわけではありません。


必要になれば行くとは思います。
あ、歯医者には行きますね。


患者さんに対しても、そのように思っているのですが、
見分けられない人が多いと感じます。


世の中には毎日医者に行く人たちがおりまして、
病院が寄り合い所のようになってることがあります。


寄り合い仲間ですから、
たまに来ないと心配です。

「○○さん今日来ないけど、調子が悪いのかしら?」

そんな笑い話を聞くことがありますが、
病院勤めしている人からも聞いたことがあるので、
実際あるのでしょう。



整体は調子が良くても悪くても診ていきますが、
それがどうしてなのか見分けてもらえると
うれしくなりますね。

2008年3月6日木曜日

体の成熟と性交渉 ~動物界と比較して~

早い時期の性交渉は体にとって負担になると教わったことがあります。


その昔、遊郭があったころ
若くして身売りされ、
肺を病む人が多かったよのは、そのためだそうです。


骨盤と肺、呼吸器というのは関係が深いのです。



こういう話を聞くと、動物界ではどうかな?
とすぐに私は思ってしまいます。


第二次性徴をもって、子孫繁殖能力が完成したと考えるなら、
それ以上待つ理由は動物的にはおかしいのでは?


と考えてみるとどうだろう?


しかしどうやら
動物界においてもそれほど単純な問題ではないようです。


もちろん動物によって事情は異なりますが、
人間に近い状況を持つ例をあげると、


オスは性的に成熟しても、
初期においては性的魅力になるような特徴が明らかに劣っており、
メスに相手にされない。


闘争能力が一人前になるまでは、メスを奪うことが出来ない。


群れの掟が厳しく、
ボスや上位の者だけ(オスメス問わず)が繁殖を許される。


成熟するにつれ群れを追われてしまう、新しい群れに入る必要がある、
もしくは群れを獲得、形成するまでに時間が掛かる。


オスとメスでは多少事情が異なりますが、
大方の動物でメスは選ぶ側になることが多いようです。


人間にとっては社会事情、生活能力が重くなりますが、
ある程度動物界と同じ事情を感じます。
性成熟と交渉は、その動物の社会事情と切り離せないもののようです。


生き物の自然というのは、想いをはせると面白いものです。



余談ですが、「深夜特急(沢木耕太郎著)」というベストセラーに興味深い記述があります。


どこかの国で幼い頃に身売りされた少女たちの体型に
沢木氏は異様な印象を持ったということです。


骨盤の発育がアンバランスだったようです。


細かな解釈は避けますが、
人の発育と成長は、
必要な時期に必要なものを得ることが大切なことと感じるのです。

2008年2月26日火曜日

運動と働き ~赤ちゃんの成長の過程から~

整体操法も整体体操も動きの無いところを的にしていく
という点で同じ考え方を持っております。


具体的には体の動きや手で触れた感じで、
動き、働きを読んで、誘導していく技術です。


動きがあれば働きがあり、
働きがあれば動きがあるとみます。


「そんな単純なものかなあ?」
と思われる方もいらっしゃると思います。


観察の中では細かいところを見ていくので、
胸椎の何番のどこそこが…
と一般的には分かりにくいことになってきます。


一般的に分かりやすいものは?
と考えてみたのですが、
赤ん坊の成長過程というものが面白いかな、と思いました。


赤ちゃんは生まれた頃には目がほとんど見えません。
少しずつ光を覚え、目でものを追うようになります。


目でものを追うことが脳の働きと言えます。
やがて首がしっかりしてくると、
首がすわり、更に頭の働きが出てきます。


やがて呼吸器の働きがついてくるにつれ、
吸う力も増し、はいはいへと移行します。


はいはいをしながら呼吸器は更に強くなり、
やがて腰に力を掛けて、立ち上がることを覚えていきます。


成長過程が上から少しずつ下へ降りていくのが面白いところです。


下に降りていくにつれ、
母乳以外のものを消化できるようになってくるのも意味深く思えます。



年をとるときに逆の順序をたどる、と教わったこともあります。


誰もがセオリー通りの老化をたどるわけではありませんが、
赤ちゃんの成長は大きくはずれる事が(ほとんど)ないのは、
命の持っている自然さ、だと思います。


これは、ほとんどの人はそう思っているのではないでしょうか。
大きくはずれた場合に専門家に頼ることからも、それが伺えます。


逆に見渡せば、老化は多様な感があります。
色々な人生があるから、ということはあるでしょうが、
それを差し引いても多様な気がします。


成長と老化の働きと動きの自然さを思うと、
自力を発揮することは、
体にとって自然な生活や人生に向かっている、と感じるのです。

2008年2月25日月曜日

産後は刺激を避けて過ごす

妊娠・出産・子育てについては多々思うことがあります。
これは私が整体をやっているから、ということに留まりません。


自然出産という言葉がありますが、
こういう言葉が生まれる不自然さがあるということでしょう。


整体の中にも沢山の教えがありますが、敢えて一般伝承を書いてみます。


産後は刺激を避けて過ごすこと



母親やおばちゃんから教わった、という方もいるかと思われます。
面白いことに世界的にも同じような話が伝わっているようです。


私が聞いたり調べた範囲で書いてみますと、


・産後は水を触ってはいけない。
・産後は針仕事をしてはいけない。
・産後は薄暗い部屋で過ごす。


期間に関しても大体三つくらいに分かれます。


・21日
・7週間
・3ヶ月


同じような話が伝わるということは、
風土や環境に左右されない人間の働きなのだと思います。
(昔話の“山んば”も産後の21日間を村人に家事をさせております)


ところが近頃は、産後すぐにシャワーを浴び、
早々に退院することも多いようです。
中には即日赤ん坊を抱いて退院する人もおります。


昔にこだわるつもりはないですが、
お産は今後ますます不自然になっていくように思います。


産科医不足、助産院の開業の厳しさ、
それでなくても増えそうな計画出産は状況に後押しされて、
増えていくことと思います。



遠い未来に体も変わっていくかもしれませんが、

いずれにしましても、
人間の自然な働きに、
もっと目を向けて欲しいと願っております。

2008年2月19日火曜日

一息四脈 三木成夫と整体

いつも整体、整体、と整体本位のように書いておりますが、医学、生理学、解剖学も好きです。


とりわけ解剖学は好きで、好きな解剖学者が何人もおります。


三木成夫、藤田恒夫、養老孟司、遠藤秀紀…

解剖学というと怜悧な分野のようですが、皆さん血の通った文章を書かれます。


取り分け三木成夫氏は大好きで、氏の論理展開は学問的というより、芸術的であり、常に命を見据えている姿勢に敬服します。


整体の中に一息四脈というのがあるのですが、氏は独自の感性と論理で、そのリズムを予想しておりました。


確か波のリズムと肺呼吸の始まり、心臓との関係、ほにゃらら…で結論付けていた気がしますが、詳細は実のところ忘れました。
(大好きなわりに忘れております…)



生物の上陸とゆふドラマ
寄せる波、返す波、リズム、

どうにか生かんとする、

空気を取り込まんとする肺と、
酸素を運ばんとする心臓、



三木氏の文章を読んでいると、
何ともドラマティックな状況に、思いをはせてしまいます。


肺は徐々に出来ていったと思いますが、発生は消化管から袋が突出したものです(袋状にくびれていった、という印象が個人的にはあります)。
口から空気を取り込もうとした結果だと思います。


鰓(えら)で作れる負圧は小さすぎるので、
口と消化管の負圧を利用したのではないかと個人的には思っております。


もしも鰓に負圧を作り酸素を取り込めたなら、陸上生物の全ては違う形だったのでは?
とまた考えてしまいます。(あくまでも私の空想)



一息四脈の整体上の意味につきましては、
むやみに使われても責任が持てませんので、ここに深くは書けません。


整体を学ばれるか、書籍などを読まれてみてください。


じゃあ書くな!と言われそうですが、
整体に興味がある、整体を受けたい、という人以外にも、


ジャンルの違う方々にも興味を持って欲しいという個人的な願いがあります。

深くは書けませんが、お許し下さい。

2008年2月14日木曜日

たんすの角に足の小指をぶつける

やけに人気のあるこのページ。
素朴な疑問にお答えします。


たんすの角に小指をぶつけ⇒痛い


あなたが噛んだ小指が⇒痛い


どちらも痛いのですが今回取り上げるのは前者の方。



井本邦昭先生は
「力が外に逃げると…」ということをよく仰います。


私たちは目で見て、指で触れ、確認していくのですが、
技術的なことを書いてもややこしくなりますので、


一般的には、
力が外に逃げるとどんなことが起きるかを書いてみます。



「たんすの角に足の小指をぶつけます」


まさにタイトル通り、何にもオチてません。
では何故ぶつけるのでしょうか?

「そこに“たんす”があったから!」
こういう答えをするのは私のようにひねくれた人です。


「不注意だった」
これが素直な回答と思います。


整体的な正解は、
「思ったよりも足が外にあったから」 となります。
これも素直な回答ではないでしょうか。


街中でも電車の中でも、やけに巾を取る人がおります。
体のサイズの問題ではありません。


腕を振る、足を出す、財布を出す、かばんを開く、椅子に座る・・・・
いちいち巾を取ってしまうのです。


体がくたびれてくると、動作の一つ一つが場所を取ります。
大抵の場合、本人にその自覚はないものです。


そうなってくると、たんすの角に小趾をぶつけるようになってきます。
(足の指は解剖学上は趾と書きます)


歩いていてやけに人にぶつかってしまう、というのも同様です。

自分のことは自分でやりましょう、というのがありますが、


自分の体は自分で把握しましょう、というのも大切です。


体をゆるめ、整体にしていくのが大切なのは、
こういう理由もあるのです。

2008年2月12日火曜日

足首

整体から見た、足首のくびれ?
足首を細くしたい女性が多いようです。


一体どうゆう理由かな?と考えたりします。


そんなこと考えるまでもない、と言われそうですが
職業柄か性格上か、考えてしまいます。



整体においても足首は細い方がよい、とされています。
足首がゆるんでいれば、内に締まる力が働きます。
締まる力があれば、ゆるんでおります。


逆に足首が硬直してくると、内に締まる力がなくなり、外に開いてきます。
外に開きっぱなしでは、足首の役目を果たせませんので、
何とか仕事をするために力が入ります。


こういう力は往々にして入りっぱなしで、抜くことが出来ません。
結果疲れやすくなるのです。


足首が外に開くというのは、ちょっと分かりにくいかもしれません。
疲れたからといって
「今日は大分足首が開いてるなあ」
と思う人は整体関係者くらいでしょう。


皆さんが体験することでは、靴擦れがあります。
いつも履いている靴なのに、何故かくるぶしが当たることがあります。


そういう時です。
足首が開くと、くるぶしが下がります。


他にも靴下に締め付けられる気がしたり、
ブーツがきつくなったり、いろいろあるかと思います。


一般的には足首の太さの原因は様々のようですが、
疲労素の問題があるということをご理解下さい。


当然、足首が細い人でも疲労が重なれば、一時的に太くなってきます。


太くなった時、疲労した時、ちょっと外から締めると楽になります。


手首でも同様ですが、
スポーツ選手などが手首足首にテーピングをするのは、
そんな体の要求も手伝っていると思われます。



整体操法(施術)でも、足首を締める方法は沢山ありますが、美容上の観点から用いるわけではありません。


その時の体の状態によって使うこともあれば、
使わないこともあります。


ただ熱望する人が時々おりますので、
そういう方には自分でやる方法をお教えしております。


尚、足首は男性も女性も締まっているほうがいいのは言うまでもありません。

2008年2月8日金曜日

体が重い… ~中心から外に力が逃げる~

「体が重い…」


そんな時
「大分食べたからなあ…」


そう思う人はあまりいないと思います。


「太ったかなあ…」
そう思う人はいるかもしれません。


しかしお伝えしたいのはそういう事ではありません。
体重が変わらないのに重く感じることがある、ということです。


なぜでしょうか?
「疲れたからだろう」


その通りです。
疲れると重く感じるのです。


整体では
「中心から外に力が逃げる」と表現します。


おそらくこの言い方は井本邦昭先生しかしていないと思われます。
大変、奥深い言い方です。


生きているものの大原則として、中心に力が集まっていることが大切です。
中心に力が集まっている時、体を軽く感じます。


体がゆるんでくると、自ずと中心に力が集まってきます。
力を入れることとは違います。


中心に力が集まっていると、全体としてまとまりのある印象になりますが、
中心から力が逃げていくと、だらしなくなってきます。
終電間際によく見受けられます。



不思議なことに中心から力が逃げてくると、持ってみても重く感じます。
他人の腕を持った時に
「重いなあ」
と感じたことはないでしょうか?


整体指導者は見た目で負担を感じ、触れてみて更に確かめます。


そういうと摩訶不思議なことと思われがちですが、
皆さんも他人の腕にそんな印象を持ったことはあると思います。


そんな腕を上手に持つと、ふと相手は呼吸が楽になります。
もちろん相手に受け入れる気がないと無理です。


整体操法の技術の一端と言えます。
そうやって相手に力添えしたものが、相手の力として固定されるように操法をしております。

2008年2月4日月曜日

肘と肺の関係

肘と肺は関係しています。


日常的によく見たり、経験することでは肘掛けが分かりやすいでしょうか。
疲れてくると肘掛けを使いますが、肺が疲れてくると掛けるようになります。


いや、体が疲れているんだろう。
という見方もありますが、的を絞っていけば肺の疲れとなります。


腰が疲れれば足組みをしたり、膝をがばっと開いたり、お尻をずるっとすべらせたりしますので、やはり疲れているところに応じた休息の姿勢があります。


肘を掛けたくなる方も左右で違います。右なら右、左なら左の肺が疲れていると観るべきです。
疲労が蓄積すると肘が黒ずんでくることもあります。


こうなると文字通り疲れが目に見えてきた、ということになります。


歩行時など、平常の動作でも
肺の状態を肘が物語ることがあります。


肘を外に張ったり、内に絞るような姿勢をとったり、いつも曲がっていたり、、、、、


いずれにしましても、その人の体の状態に応じて中心に力が集まる姿勢、
つまりはその人が力を発揮できる姿勢をとります。


その形に定型的なものを押し付けることは出来ません。
力を発揮できる姿勢は人によって少しずつ違うからです。


体の負担による違いもあれば、能力の方向の違いもあります。


もちろんよりニュートラルな緩んだ姿勢を取れることは理想ですが、
鋳型にはめるような考え方はよくありません。


形よりも、中心に力が集まる感覚が大切です。
それが充実感につながっていきます。

2008年1月29日火曜日

末端から中心を変える

整体の考え方のひとつに中心から末端を変える、というのがあります。


世間的に一番知られているのは、足裏マッサージや足湯です。
ちょっとやり方が違いますが、整体の中にも似たものがあります。
(詳しくはいずれの機会に譲ります)


末端の刺激が中心に伝わることで中心が変わる、というのは非常に面白い考え方だと思います。


通常、トレーニングと言われるものは、
腕を鍛えたら腕が変わる、
指を鍛えたら指が変わる、


そう考えます。
それでも足湯などが流行るわけですから、末端の刺激が中心を変える、と何となく受け入れているのだと思います。


それでは、末端に負担が掛かると中心に負担が掛かるでしょうか?
答えはイエスです。


指先の労働が思いのほか疲れるのはそのためです。
やはり体は全部繋がっているのです。


末端に出てきた症状は古い、というのがあります。
中心の負担が末端に及ぶまで時間が掛かる面があります。


指先の小さなシビレには歴史を感じます。
足の親指だけが冷える、ということもあります。


大きな症状に至らなければ、問題はない、というのもひとつの考えですし、
その通りのことは多いのですが、


整体指導者は小さな問題に、時に大きな問題を感じます。
誰もが体を強くしていくことを大切にしてほしいものです。

2008年1月16日水曜日

手のいった処

井本整体を学び始めて最初のほうで言われることに

「手の行ったところが答えです」


というのがあります。
やみくもに手を動かして手の行くところを探すわけではないのですが、
型を通してそうなるように勉強していきます。
技術的には無数の型があります。



井本先生はよく
「どうしてそこに手が行くのかな?
   と思って考えてみたら、こういう理由でした」とか

「考えてみましたけど、分かりませんでした」
「よく分からないけど効く」
というようなことを仰います。


理論的には整体独自の見方もあれば、
医学的な事実を整体的に捉えたものもあります。

非常に分析的で、理論的に相当な重層構造を感じるときもあれば、


「何か罪のようなものではないか?」
という観念的なことを仰ることもあります。


いずれにしましても
井本先生はいつも体が勝手に動くそうです。

わたくしは型を通して、そうなるように進むのみです。

2008年1月8日火曜日

風邪をひけ?熱をだせ?ガンにならないからだをつくる?

野口晴哉氏が「風邪の効用」を著してから数十年が経ちます。


帯評に山口昌男氏のコメントが載っておりました(山口氏の著書からの抜粋)。
確か新しい風邪の捉え方ウンヌンと書いてあった気がします。


山口昌男といえば文化人類学の権威です。

ここでも再三書いておりますが、病気というのは生物・医学的な現象かもしれませんが、病気観は文化と言えます。

今は医療人類学というのがジャンルとしては当てはまるようですので、こういう分野でも風邪について考察してほしいと思うのです。整体はその最前線ではないかと思います。

整体では風邪に対して治る・治す、という言葉はあまり使いません。かわりに“経過する”という言い方をしております。

言葉の使いようと言えばそれまでですが、病気観の転換がますます必要な世の中になってきたと思います。

井本先生が以前に「病気と上手に付き合って生きていく」
というフレーズに現代の病気観を感じられていました。

「最近はそういう言い方をするんだねえ」
と先生独特の響きのあと、何か考えられておりました。

その何か、は分かりませんが、井本邦昭先生の最初の本は


「風邪をひけ!熱をだせ!」です。
サブタイトルは~ガンにならないからだをつくる整体法~

もう12年も前のことです。
この本には井本先生の風邪に対する考えと整体法の基礎が書かれております。


風邪による体の調整作用を止めてしまうために、いずれは大きな破壊をしなければならなくなる。それがガンとなることが多くなってきた。


小さなツケを払わないでいると、ついに大きな負債を払う時が来る。
当時の世の中と絡めてそんなふうに書かれています。


この本は長い間絶版となっていたのですが、2年ほど前に三樹書房から復刊されましたので、興味のある方はご覧になってみてください。








2008年1月5日土曜日

アキレス腱と頭の緊張

アキレス腱は頭の急所になります。

と言うとちょっと訝しく思う人も多いかも知れません。


一番分かりやすい例として、緊張すると爪先立ちになってくるというのがあります。


椅子に座って一所懸命に人の話を聞こうとするあまり、爪先立ちになってしまった経験は誰でもあるかと思います。



こんなとき

椅子に座ってなくても、試験の前、上司の前、大切な人との待ち合わせ、


「今日は言わなきゃ」
「あれとこれを言おう」
「あれ?何だったっけ?」


いろいろと頭が忙しくなってくると爪先立ちになってきます。
駅のホームや待ち合わせポイントで、ぴょこぴょこと何度も何度も爪先立ちになってる人を見ると、頭の中を想像してしまいませんか?

子供の頭の緊張

子どもや幼子にも見られることがよくありますが、
大人同様に頭の緊張を疑います。


慢性的な強い症状の場合に、アキレス腱の一部を切断することもあります。
アキレス腱のストレッチで、ある程度の回復をみることもあるようです。

整体ではどうする?

整体体操にもこうしたところを伸ばす体操があります。
ポイントとして腰とつなげることがあげられます。腰とつなげて伸ばすことで、伸びた分の力が腰に帰っていきます。
形だけまねることは出来るのですが、ポイントを押さえる事は意外と難しいものです。専門家の直接指導が必要になってきます。

こんな時にも

この体操は他にも、妊娠中の逆子直し、梅雨時季に湿気にやられた時などにも有効です。




形はかんたん。でも決めるのは難しい。そんな体操です。

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