2019年7月19日金曜日

【本が好き】流山市 木の図書館へ

毎週図書館に行きます。
十年来通っています。

今回はちょっとヘビーです。
相互(県内取り寄せ)がいっぺんに六冊来まして、ありがたいやらしんどいやら。
ほとんどの本は一週間で返しますが、今回は二日で一冊のペースが増えそう。
ここにある本を全部知ってる人はさすがにいないはずですが、
全ての本が心の琴線に引っかかる人もまれでしょう。いるとしたらかなり変わり者ですね。

どうして借りたのか、あるいは読む前の思い入れ、、、

『私は見た!昭和の超怪物』黒崎健時
とある人が教えてくれました。
“怪力法”を創始した若木竹丸と対談してるとのこと。
ふつうの人から見れば黒崎健時も超怪物なので、読む前からヒリヒリします。
表紙は黒崎健時、、、『必死の力・必死の心』を踏襲したんでしょうか。『必死の力・必死の心』は高校生のときに五回、成人してからも五回は読みました。読むと生理的限界を超えたくなる本。そういう本が減りました。

『東洋の神秘 〜ザ・グレート・カブキ自伝』ザ・グレート・カブキ
名著です。
発売当時、本屋で何度も立ち読みしたけれど、結局買ってません。ちょっと申し訳なく思います。
「プロレスは立ち位置なんだ」という教訓はそのまま人生訓として読めます。
題材がプロレスでなければ、ベストセラーになってもおかしくないほど箴言に満ちた本。
カブキさんは現在居酒屋を営まれています。
お店は飯田橋なので、神楽坂で整体をやってる頃に何度も行こうと思ったのですが、結局行かないまま春日に移ってしまいました。
しかしなんとビックリ、春日に移転されてました。今度行こうと思います。

『魂の錬金術 エリック・ホッファー 〜全アフォリズム集〜』
ちょっと前にエリック・ホッファー全部読もう!と思い立って、これが最後の一冊。
考え抜いた人、鍛えられた思考力、人間の、人間らしい力を感じさせる人です。
日本で、ホッファーが文化人の中でホットな存在になったのはいつなのだろう?
知ったのが数年前なので、そのあたりリアルタイムな感触はないのですが、今読んでも色褪せるものはないですね。
肉体労働者も当たり前に思索するわけですが、老齢まで肉体労働にこだわった点で稀有な人。憧れますね。

『作業歌 労働とリズム』カール・ビュヒャー
この題材で書かれてる本はおそらくないと思います。
何年か前にいろいろ調べたのですが、この本くらいしか見当たりません。
あえて言えば小泉文夫。民族の歌を蒐集して仕事や作業との関係を論じております。
1970年発行。県内に一冊だけありました。借りたのは私で何人目だろう?
除籍されて廃棄になったらどうしよう、、、心配になります。

『リハビリの夜』熊谷晋一郎
「ケアをひらく」シリーズの一冊です。このシリーズは秀作が期待できます。
ラインナップに読みたいものがたくさんあるのですが、まだ数冊しか読んでません。

『なぜシマウマは胃潰瘍にならないか 〜ストレスと上手につきあう方法〜』R・M・サポルスキー
「シュプリンガー・フェアラーク東京」というすごく長い出版社名。
シマウマの生態が書かれていることを期待している。
それはおそらくないとは思っているけれど、シマウマについて少しくらい触れてないだろうか、と期待がある。
ウマについて書かれたものは多いのですが、シマウマはありません。シマウマは気性が荒く、家畜化できなかったウマです。人間との関わり、その歴史など、知りたいと思っています。

『新選組の哲学』福田定良
自分のコトバさがしをするということは、自分の生活体験から離れずに考えられるようなコトバを見つけるということです。
朝日新聞の「折々のことば」にありました。引用元は『堅気の哲学』福田定良、だそうです。どんな人物なのか気になり、ちょっと前に新選組の出てくる本を読んだので、キーワードが都合二つとなり借りた次第。
この本だけは相互ではないので、読めなければ延長するつもり。

以上

2019年7月10日水曜日

樹木希林 オフィーリア 存在感

樹木希林さんの本が売れてるようですね。
死して尚、というよりも、
いなくなったことが存在感を倍増させている、という感があります。

絵画「オフィーリア」をモチーフにしたあの装丁のインパクトはすごいですね。

誰が考えたのだろう、と感嘆せざるをえません。
このモチーフはCDジャケットなど、数え切れないほど利用されているので、どこかで見たことがあると思われた人も多いでしょう。
しかしこれほどインパクトある形で世に出たものはないのでは。

元ネタの絵画「オフィーリア」は、ミレイ作。川に溺れて死にゆくオフィーリア(シェークスピアの「ハムレット」)を描いたものだ。清流に浮かぶ美しく、生きてるような死んでるようなオフィーリアと、周囲に生気あふれる草花、崩れ落ちたかのような樹木から半分枯れたような枝、生と死の狭間を浮かび上がらせている作品。
装丁もほぼ同じですね。
出版された頃の希林さんの存在感を表現されたのでしょう。


死んだ人間の存在感が大きくなるのは、おそらく人間だけと思う。
“存在感”とは概念上のものであり、物理的存在とは別個の抽象概念であるからだ。
こうした抽象概念は人間においてかなり自由に創造されるものになった、と私は思っている。
ゾウなども仲間の死を悼むようだが、死んだ仲間の存在感が増していくことはないように思える。

われわれ人間はそもそも、生きている時でも個々の存在感に敏感であり創造的だ。
存在の大きさ、濃さ、特別さ、存在感が薄いこと自体が存在感として膨れ上がることさえある。
なにゆえにこれほど敏感かというと、人間は個体差が大きいからだと思う。
外見はもとより、内面の個体差も大きい。人間は個性抜きには語れない。

個人が一生かかって確立したものに、他人は憧れを抱いたり、嫌悪を抱いたりする。
死んだ人間への敬意が増すこともあるし、
死んだ人間への嫌悪が増すこともある。
こと人間に限って言えば、死んだら全部お終い、というものでもない。

希林さんが話題になっているのは、役者としての功績もあるが、その人間性によるものが多いようだ。
「こんな人がいた」「こんな人だった」
それぞれがそれぞれに、そうした存在感を自らの中に描こうとする。


魂というものがあるのかどうか分からないが、人間の存在感というものは、亡くなったあとも生きてる人たちの中で生き続ける。生き続け、なにかしら受け継がれる。受け継いだ人の中で発酵してきたり、人を成熟に導いてくれたりする。
人間の“命の重さ”とは、そういうところにあると私はつねに思っているが、いかがだろうか。

ある人が生まれ、生き、亡くなる。
その道程で創られた人間性のようなもの、
その道程で創られた存在感、
その道程で周囲に与えたもの、
そういうものを感じたとき、“命の重さ”を誰しも思わされるのではないでしょうか。


老醜をさらしたり、目一杯生きて「あとは野となれ、山となれ」と潔く散ったり。
生き様、死に様はさまざま。

それがどんな有り様でも、必ず後世に影響を及ぼす。
それなりによいものを遺す努力は必要であろう。
誰かが生きるとは、どこかの誰かA、B、Cという不特定ではない。
誰かが死ぬのも同様だ。
その人という個性があるのなら、それ相応の責任があると思う。

世の中の仕組み上、社会に及ぼす影響は大小ある。
政治家であるとか、成功者であるとか、有名人であれば、多くの人々の中に遺るが、
それがどのくらいの強さ、濃さで遺るかは、名声とは別のところにある。

グローバル社会であり、情報の流通はリアルタイムで世界に伝えることもできる。
名のある人の情報はかつてないほどあふれかえる。
ほとんどの人、一般の人は、これまで以上にその他大勢になっていく。

しかしながら、とるに足らない小さな存在と思う必要はない。
人が生き、その人がいる、そのことが誰かの中で必ず生きている。
生きていないはずはないのです。

その人がその人らしく生きる、
その人という存在感を確かなものに高めていく、
それが誰にとっても大切で、人間という存在だと思うのです。

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