2013年12月9日月曜日

新しい価値

東日本大震災の翌日。神楽坂で整体の日でした。
不安を抱えつつも電車に乗るつもりで駅に向かったのでした。


予想に反して駅はスーツ姿の人たちでごったがえしていました。
日本のサラリーマンは立派だなあ。
そんなことを思ったかどうかも忘れてしまいましたが、
非常事態の中に日常が迷い込んでいるように見えて、印象深い光景でした。

30分、いや小一時間も待ったでしょうか。
ありがたいことに電車がやってきました。しかし、、、

(うへぇ)
まさにラッシュの常磐線。繰り返されるアナウンス。
「次の電車はいつ来るか分かりません」
(乗るしかないのか)
「どこまで行けるか分かりません」
(そりゃそうだ)

駅のアナウンスも非常時であることを告げています。
(途中で止まって帰宅難民はいやだな。6時間歩けば帰れるけど)
カバンの中にしまった塩と水を思うのでした。

少々腹に力を込めて、
待ってる間に増えた人たちとともに電車に乗り込んだ。
車内は最盛期、いや最悪期の常磐線。子供だったら圧死しかねない状況。
一駅ごとに乗ってくる人たちがうらめしくなる。勝手なものです。

一人のサラリーマンが仲間に話しかけました。
「さっきまで乗りたくて乗りたくてしょうがない電車だったのに、今は降りたくて降りたくてしょうがない電車だよ。」

見事にみんなの気持ちを代弁していました。
そして立派だなあ、と思いました。
このサラリーマンは話しかけながら笑っていたのです。

ひとつの出来事に対して、多面的な情感を持つ。
誰もが知るところです。
”愛憎”などという言葉があるように、強い思いは対極の思いを呼ぶことがあります。

こんなふうに矛盾した心を同時に持つとき、普通はどうするでしょうか。
このサラリーマンは自分の矛盾した心を見つめながら、その面白さを笑ったのでしょう。
とても人間らしい知恵だと思うのですがいかがでしょうか?
ヒト以外の動物には出来ない気がします。


ビジネスの世界では新しい価値観を創造することが重要なようですね。ヒトという生物の歴史も、新しい価値観の創造史かもしれません。
いや、きっとそれが大きいんじゃないかと私は思うのです。


だとしたら、
心のうちにあるこもごもに、
新しい価値観を見つける時、
ヒトは自由を感じるのではないでしょうか。

2013年11月13日水曜日

昨日までの子育て

原始社会ではどんな子育てをしていたのだろう?
そんな興味がある。
人間本来の成長には何が必要なのだろうか?という疑問に応えてくれる気がするのです。
さて原始社会における子育てに、そのヒントはあるのでしょうか。


ジャレド・ダイアモンドの『昨日までの世界』を読みながら、原始社会の子育てと文明社会の子育てについていろいろ考えさせられました。


結論から言うと、原始社会も文明社会も子育てに差はないと思いいたりました。
もちろん具体的手法は違いますが、つまるところ社会の要求に沿うよう育てられ、その育てられ方が次世代の社会を作り上げているのです。

ただし大きな違いがあります。
原始社会における社会の変遷が緩やかであるのに対し、文明社会における変遷は加速する一方だという点です。
価値観の多様化も同様に挙げられます。
右肩上がりの経済成長だけを経験してきた世代、バブル世代、バブル後の世代、それぞれ親の価値観には大きな差があります。
豊富な子育て商品に囲まれる現状は”おばあちゃんの知恵”などと言っても通用しない現実があります。

例えば赤ちゃんが鼻水を詰まらせる。親が口で吸えばいいのです。しかし鼻にチューブを入れて吸い出す商品があります。赤ちゃんの身になってほしい、得体の知れない行為ではないか。
とそんなことを思いましても「感染症が、、、」と言われればそれも一理あり、「汚い」と言われればもう二の句がつげなくなります。


どの時代が正当か
という議論が意味を無くすほど、世の中が様変わりしてゆく
現代に乗る人もいれば、乗らない人もいる、
傍観者となり蚊帳の外の世界を築く人もいる、、、

世代間のギャップは子育て中の親子の中にさえ始まっている
親が基準としている現代と
子育て後の将来と
それが同じものだという保証もない

だからといって
これからの時代に沿う方向も見えにくい
誰もがそう思っているのではないでしょうか?


残念ながら解決策は提供できませんが、
そうした現実を脇に置き、よりシンプルな子育てを時には見つめてみるのはどうでしょうか?
本の中から面白かったところを抜粋いたします。


パプアニューギニアのニューブリテン島。カウロン族の子どもたちの遊び。
子どもたちの前に一房のバナナが置かれる。十分な数がある。
それぞれが一本を取り、半分を食べ、半分を誰かにあげる。
相手も半分を食べ、半分を返す。
もらった半分を更に半分に分け、互いに同じことを繰り返す。
このやりとりを分けられなくなるまで繰り返します。

狩猟採集民の社会では、平等が尊ばれます。
これは人間性とか品性といった内面の問題よりも、生活実態を知る必要があります。
余剰食料のない社会では富を集約できません。余ってないのですから現実問題として不可能なのです。誰かが余分に手にすれば誰かが足りなくなるため、社会の安定が保てないのです。
つまりカウロン族の子どもたちは、遊びの中で社会の均衡を保つための規範を学んでいるのです。

異年齢集団における遊び
人数的に小規模の社会では、必然的に広い年齢層の子供が一緒になって遊びます。上の子は下の子の面倒を見るため、結果として子供が子育てを学んでいることになります。

これは日本にも当てはまる話ですね。田舎と都会、近代から現代、遊びにおける異年齢集団と同年齢集団は教育上どのような効果があるか、様々な意見が聞かれます。異年齢集団ではの原理が発達しにくいのですが、同年齢集団では”競争と勝ち負け”の原理を身につけていきます。
教育上どちらが優れているかを問うよりも、教育後の世界がどうであるか?を問う必要があります。

本書では、幼少の頃から子育てを学んでいた少女が、14歳にして立派な母親足り得ている事実と結び付けられて論じられております。
文明社会において、母親の自覚が芽生えない女性が増えているとするなら、異年齢集団を見つめ直す価値があると思います。

ごっこ遊び
これはそのままです。
狩猟採集民は狩猟を模した遊びを行います。

『昨日までの世界(上)』より


最後に平等社会について今一度。
狩猟採集民が平等を学ぶのは、それが社会に沿う能力だからです。
つまり個人が生き抜くための能力です。
そしてもう一つ、それが社会の安定を保つ力のある大人へと続いているからなのです。
つまり公を生かす能力なのです。

翻って私達はどうでしょうか?
子供に生きてゆく力を教育するときに、それが公の力となり得るのか、考えたことがあるでしょうか?


大規模社会は平等のみでは成立しません。
公益となるように労働が集約する必要があり、そのためには富も権利も集約するところが必要になります。
社会の不平等、不均衡を不条理なものと感じることもありますが、これも環境が求めたものであり、人間の生み出した知恵なのです。同時に悪用もできる厄介なものです。

地球史上例のない大規模社会と言える現代、競争原理と不平等は社会の不安定も沢山生み出すのですから困ったものです。

だいぶ話がそれましたね。
ついでにもう一つ、ブッシュマンのエピソードを添えて終わりにします。
獲物をしとめたハンターは控えめな態度をとるのがふつうである。キャンプに戻っても、たずねられるまで答えない。翌日みんなで獲物を取りに(運びに:磯谷注)いっても、まったく称賛の声は聞かれない。それどころか、みんなで獲物が小さすぎるとか、遠くまで歩かされたとか、口々に苦情を述べるのである。ハンター自身も自分の獲物が取るに足らないものであることを認め、申し訳なさそうな態度をとったりする。これはむろんジョークである。ブッシュマンたちは肉を平等に分配し、その幸福を存分に味わうわけであるから、ハンターの仲間に対する貢献は高く評価している。しかし、そこで獲物をしとめたハンターが威信を集めないように、節度ある振る舞いを要求するのである。
(『暴力はどこからきたか』 p211:山極寿一)

2013年8月22日木曜日

終戦のエンペラー

久し振りに映画を観に行きました。
「終戦のエンペラー」に和可菜が登場してたんです。
料亭という設定で、路地から玄関までがロケに使われておりました。旅館の中はハリウッドのセットだそうです。
普段自分が仕事をしているところが写ってたというだけですが、上映シーンでは感慨深くなるのですから、不思議なものですね、、、、

2013年7月1日月曜日

ヒゲおじさん

もう1,2年前になりますが、
いい加減なことをするとヒゲおじさんがやって来る、ということにしました。
いつものようにヒゲおじさんの絵は私が描きました。


靴を脱ぎ散らかしたり、後片付けをしないでいるとヒゲおじさんがやってきて
「ムムムウ」っと眼光鋭く睨みつけます。

その瞳には大変な厳しさが備わっている、ということになってます。

とまあ、そういうことにして娘に教育的指導を試みました。

躾にたいして過度な緊張を呼ばずに、適度なゆるさを演出しようという試みです。

しかしいつものように娘の遊び道具に変わっただけでした。

きちんと揃えた靴を前に、娘が企んでいる気配。
そしてそーっと靴を乱し始めます。
「今か今か」という娘の盛り上がりが聞こえるようです。
ヒゲおじさんが登場しなくてはなりません。演じるのはもちろん私です、、、

「ムムムウ」っとありもしないヒゲをいじりながら靴を睨みます。
娘は「してやったり」とばかりに靴を直します。
素に戻った私を確認して、再び靴を乱します。
また私が「ムムムウ」っとやらねばなりません。

これがおよそ五回繰り返されます。
最後は
「いい加減にしろ!」
と私が怒って終わります。

自分で蒔いた種ですが、怒らないと終わりになりません。だから怒ってもいいんです。娘は満足気にしてますので、、、

しばらくやってなかったのですが、最近また登場しました。要するに躾が成功しなかったんですね。困ったものです。

ちなみにヒゲおじさんはこんな人

2013年6月15日土曜日

今年も湿気がやって来た

もうれつな湿度ですね。
何となくだるいとかそういうレベルじゃありません。
「すごい湿気!」
とそのまんま感じます。



暑い夏を感じたり、肌寒い春を感じたり、じめっと梅雨を感じたり、体も心も忙しい毎日です。調子のいい人は珍しいことでしょう。
時々調子がいい人を診ると、仕事がのってるとか、生活が充実してるとか、何か強い要因があるようです。

じゃあ対策として、充実するものをみつけましょう!
なんて、言うは易し行うは難しですね。

手軽な方法はエアコンです。
ドライをしばらくかけていると大分落ち着いてきます。
落ち着いたら切ってしまえばよいのです。
気分がすっきりしたところで行動を起こしましょう。
行動を起こすのが肝になります。

ある程度勢いがつけば、湿気も気づかずに過ぎていきます。
もし気づいてしまったら?

もう一度エアコンを使ったらどうですか。

2013年5月20日月曜日

しつこい子供

子供のしつこさに大人は度々閉口させられます。
はなから相手にしない態度を決めこむ人も多いことでしょう。

子供のほうも知恵がつき、相手にしてもらえそうな大人を狙ってくるのですから面白いものです。
子供のしつこさって一体何なのでしょうか。


私のように整体をやっていると、さぞかし上手いことさばいているように思われるかもしれませんが、そうでもありません。
普通に「まいったなあ」となることも多いのです。
そんな時、いつも思います。

『しつこいのは悪いことかな?』と。

まだ物事に染まっていない時期、
まだ知識も知恵も不十分な時期、
物事を捉えるすべが未熟な時期、
発見や好奇心でいっぱいになれる時期、
新しい運動に夢中になれる時期、、、

身につける余力も気力もある時期に、しつこいのは当たり前かな、と思うわけです。
また、しつこさは集中力を養う機会にも見えます。

無用に止めて度を越えた執着心を芽生えさせたり、
要求を溜めすぎて、いらぬところで爆発させたりするよりは、
素直な型を示した時に行動させたほうが、澱みのない経験を身につけられるように思えます。

そんなわけで、
いつもしつこさを許容しているわけではありませんが、なるべくそのまま受け止めるようにしております。
ただ何か度を越えたものを感じた時は、すこし対応を変えております。
(その対応についてはいずれの時に、、、)


さて、大人はどうでしょう?
大人のしつこさ、執着心。
これは子供の比ではありません。
私はそのように思っております。

子供の執着心は、成長において必須に見えますが、
大人にはどれほど必要な物でしょうか?
私見に過ぎませんが、
執着心を脱ぎ捨てていく時に、成熟が始まるように思えます。
ですから大人の執着心には、未成熟な影がちらつくように見えるのです。

整体の根幹思想には「自由自在」というものがあります。

囚われのない自由な心、
変化をおそれない自在な心、

心の自由さは、カラダの自由さというわけです。


我が身を省みれば、子供のしつこさの方が学べるものがあり、
自分の執着心を解いていく機会にもなります。


でもそうそう聖人君子のようには過ごせませんけどね、、、


しつこい子どもと大人の絵本をどうぞ。
うちの娘は図書館で三回も借りました。
面白いようです。

2013年4月19日金曜日

手を上げて寝る

夜中に目が覚めて
手を上げていることに気づく
シビレて手の感覚が無くなっていることもある


どうして手を上げて寝るのでしょうか。
整体的には、頭や呼吸器の疲労と関係するとみます。

試しに横になって手を上げてみて下さい。
頭がフと楽になったり、
呼吸がフと楽になります。

こうしたフと楽になる感覚がなければ、
そこに疲労はないと言えます。

上げ方を変えると楽にった、というのであれば、
その力の線が、その人の疲労と言えます。
個性と言い換えることもできます。
その人の運動の“クセ”ですね。


言うまでもなく、
寝相は無意識の“運動”です。
体を休める“運動”です。
ですから、そこに表れる運動は、
その人の疲労を表現していると言えるのです。


手を上げて寝る姿勢をもう少し具体的に見ます。

手を上げると胸郭が上がります。
すると呼吸に携わる筋肉の助けになります。

あるいは、上肢から首から頭につながる筋肉が緩みます。
すると頭が楽になります。

上げ方には少々違いがありまして、
呼吸器を助けるときには肘が曲がりますが、
頭を楽にする時は肘は伸びます。


呼吸器の硬直が過度になった場合、
うつ伏せ寝になることがあります。
胸郭を押さえることで、緊張を緩めるのです。

難問に頭を悩ませて、
眉間を押さえている人がおります。
寝ている時に、
手を重ねて甲の部分を眉間に当てている人がおります。
頭の負担にもいろいろな寝相があるのです。

もしも眠りが浅く感じるならば、
寝相を分析してみるといいですね。
寝る前に体操でそこを緩めてみて下さい。

2013年3月24日日曜日

孤愁 サウダーデ


「孤愁 サウダーデ」新田次郎、藤原正彦共著。

長いこと整体に来ている徳島の方に薦められて読んでみました。
新田次郎の絶筆作品を32年の時を経て実子、藤原正彦が書き継いだという珍しい作品です。
以下、あらすじと読書感想文でございます。

タイトルにもなっている「弧愁(サウダーデ)」。
なじみのない言葉ですが、本書によるとポルトガル人を象徴するような意味があるようです。

平たく言うと「思い出に生きる」それもちょっと「悲しみや痛みを感ずる思い出に生きる」ということのようです。
日本人なら何となく分かるその感覚。モラエスも日本人の中にそれを見いだしたようです。

モラエス(1854~1929)はポルトガル海軍士官として来日し、後に領事を務めた人物ですが、同時に作家であり、詩人であり、生物学にも通じていた、という特異な人物です。

作品の前半(新田次郎による筆)は日清戦争前夜から日露開戦。史実の中のモラエスと彼が日本に魅せられていく様子が描かれています。そして前半最後の方ではおよねさんという日本女性を娶ります。

後半は愛するおよねさんと死に別れ、公職を捨てるように退き、およねさんの故郷徳島へ旅立ちます。

起承転結でいえば「転結」の部分を藤原氏は引き継いだわけです。大変な引き継ぎであったことが忍ばれます。

徳島でサウダーデに生きるモラエスが描かれ、その死とともに結びとなります。新田氏ならどう描いたのかは定かでありませんが、公職を離れ日々を生きるモラエスに共感を覚える人は多いことと思います。

ポルトガルからの年金を拒絶し、貯金を切り崩しながら徳島の生活に埋もれていくモラエス。
昨今はやりのスローライフと言えなくもありません。日本への憧れとおよねさんへのサウダーデは彼独自のものですが、モラエスが捨て去りたかった生活は、誰しも一度は思うようなものではないでしょうか。
必ずしも捨てる必要のない過去だと思うのですが、捨て去ることでそれもまたサウダーデへと昇華していったのだと思います。

さて日本に、徳島に染まろうとしたモラエスですが、その風体は異邦人に変わりありません。小説の中では子供らが家に集い、尼と語らい、日本に染まりゆくモラエスが描かれていますが、「西洋乞食」と揶揄されてもいたようですから、常に平穏ではなかったことでしょう。

そして、だからこそ、尚更サウダーデに生きることを求められたのでしょう。
消え去ろうとする情感をわずかに灯しながら、日々の生活を受けとめて生きる。

そんな異邦人の物語です。


余談となってしまいますが、前半で若い頃に切腹し損ねた元侍の老人が登場します。
小説に必要な史実ではないのですが、サウダーデを語る上で重要な人物となっています。
私にはそれが非常に印象深く残りました。
人が時代をどう受け止めて、どう生きるのか、尽きることのない興味を喚起させられるのです。


ヴェンセスラウ・デ・モラエス - Wikipedia
サウダージ - Wikipedia
日清戦争 - Wikipedia
日露戦争 - Wikipedia

2013年2月21日木曜日

今更紅白の話

今更ですが、昨年末の紅白の話。
今回はひとつ楽しみがありました。
美輪明宏さんです。
紅白に出るのも驚きですが、70も後半となり、歌えるのだろうか?
と気にかかったのです。
昔、ジャンジャンで観た感動を覚えていたものですから、、、


ジャンジャンは昔渋谷にあった小劇場で、
美輪明宏をはじめ、淡谷のり子、イッセー尾形、永六輔、絶叫短歌の福島泰樹さんなど、コアなファンが多い方たちが出演されていました。今調べてみると、三味線の高橋竹山も出ていたんですね。
恐るべし、ジャンジャン。
しかし惜しまれながらも2000年に閉鎖されました。


一度は生で聞かないと、、
そんなことを思い、15年くらい前に観に行きました。
想像以上の迫力に圧倒され、美輪さんの数々のエピソードを納得したのでした。

銀巴里時代、客を呼ぶために地下鉄ホームから歌いながら銀巴里に通ったというのです。
道すがら魅せられた人たちは銀巴里に到着するわけです。
誰がそんなことを出来るでしょう。力強いエピソードです。


そんな思い出があるものですから、衰えた歌を聞くのが怖かったんですね。
しかし結果は予想以上。またしてもいい方に裏切られました。
30そこそこで歌えなくなる歌手が多い中、
スポットライト一本で魅せてしまうのですから、いまだに本物の歌い手ですね。

体を使って仕事をしている人間としても、大変な励みであり、手本とさせてもらいました。

ネットで調べてみると、同様に感動した人が多いようです。
うれしいですね。

2013年1月25日金曜日

布団の干し方

冬の夜に暖かな布団。
一日の疲れを癒してくれます。

昼間、陽射しを吸い込んだ布団の快適さは誰もが知るところです。
しかし乾きすぎた布団が負担に感じることもあります。
今日はそんなお話。


冬の乾燥に疲れを感じたことはあるでしょうか?

・乾いた空気がのどに苦しく感じる。
・肺に吸い込むと気管がむせるように感じる。
・手足はもとより、体から水分が逃げていくようで、肌が心地よくない。

いろいろあると思います。

雪や雨が降った後などはそうでもないのですが、
晴天が続いて空気が乾燥しきっている時などは、
干した布団が乾きすぎて今ひとつ心地よくないことがあります。

綿の布団はそこまで乾くことが少ないのですが、
羽毛や毛、化繊などは極端に乾くことがあります。
そんな時は布団を干しても早めにしまうほうが無難です。
あるいはもう一度押入れにしまって戸をしめるのも手です。

同様の理由で、フリースなども苦しいことがあります。
フリース素材のパジャマを使っている人は多いと思いますが、体調の悪い時は体に受ける感じを見なおしてみましょう。
風邪など引いた時はなおさら、敏感に感じるはずです。


乾燥がつらく感じない人。
それは元気な人です。
あるいは体調がよい時期です。

そんな時は少々のことを気にする必要はありません。
あくまでも不調な時の対策の一つとして記しました。

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