自分で自分の記事を洒落ました。おバカなことです。
悪乗りすれば、「磯谷整体的・安部公房」といったところでしょうか。門下生時代、印象に残るものとして井本先生の敬語があります。慇懃と言うより、自然な言葉で門下生にも敬語を使われるのです(常に、ではないです)。
素朴な疑問を敬語で聞かれ、くすぐったい思いをしたものでした。
礼儀といえば分かりやすいですが、それよりも私は、先生の人に対するフラットな接し方を感じておりました。
整体は色々なことを読みの対象とします。沢山のことを読みの対象としながらまぎれのない答えに向かうには、フラットな姿勢を要求されるのだと思います。
これは他の世界でも同様のことが言える気がします。
ことに当たる前に偏見が邪魔をしないようにする方法論を多々見かけます。
「どういう人かな?」
そんな興味が小さい頃からありました。
有名無名を問わず興味が湧くと走り出してしまうのです。人にしつこく付きまとって嫌がられたこともありました(最近はありません・笑)。
振り返るとずい分いろいろな人に興味を持ちました。初めは外に表れた業績のようなものに興味を持っても、最終的には人物像に興味が遷っていくのでした。そういう性格が後押しして、門下生に向かった面があります。それがなければ畏れ多くて井本先生の傍には近づけなかったと思います。
そんな道程で出会ったノンフィクションにも色々な作風がありました。
・事実から隠れた事実に迫るもの
・事実から世相を見せるもの
・事実から事実になる以前の世界、
主に人物の内面を浮かび上がらせるもの
事実を追うノンフィクションであっても、見えてくるものに違いがあるのは面白いものです。
医者に対する要求として、よく聞く話があります。
「話を聞いてもらえなかった」
(うちも聞くほうではないです)
「検査結果だけ見て、こちらを見てくれなかった」
「機械に診てもらっただけの気がする」
要するに
「私を見て」
ということだと思います。
医者の責任でしょうか?
極端な医者もいらっしゃるのかもしれませんが、受診者側の問題を思います。
「○○病です。診て下さい」
「○○病を治して下さい」
最初から○○病の名札を首いっぱいにぶら下げていれば、○○病しか相手にされないかもしれません。
一般に、整体もそのように思われることが多いです。
肩書きをもらうと安心するように、病名ももらいたがる人がおります。
「○○病ではないでしょうか?」
検査結果に異常がないと、かえって不信感を持つ人もおります。最もそうやって再検査するうちに正確なところが分かることがありますので、そういう姿勢も必要です。
しかし時に、そうやっているうちに病名獲得が目的になってしまうことがあるようです。
資格を目指して仕事にはビジョンや興味がない、ということもありますので、名前にはそういう楽しみが隠れているのかもしれません。
名刺や肩書きが人間の存在よりも重要になることがあります。
またそれは問題だという見方があります。
人と人との関係上、問題になることもあれば、仕事を引退した後に名刺や肩書きが捨てられないという内面の問題もあります。
肩書に支えられた人から、肩書がはずせないように、
病名に支えられた人からは、病名がはずせない場合があるようです。
思春期に
「俺をレッテルで判断するな!」
(ちょっと古いですか?)
「あたいをそんな目で見ないで!」
(だいぶ古いですね)
というのがあります。
独立の要求・自分という存在・大人への模索と言えます。例としては極端ですが、多かれ少なかれそうした傾向があります。大人という存在に向かって、生物上の自然な要求があるのは面白いことです。
整体に
「自らの足で立つ」
「自らの足で立たしむるには」
という思想があります。
個の独立は時に揺らぎ、
時に一人では修正が困難ということでしょう。
磯谷整体にも初診票があります。名前は初回票でも初見票でもいいのですが、とにかく初めての時には書いてもらいます。名前・住所・職業・年令・症状……人には色んな名札があるものです。
沢山書く人もいれば、全部書かない人もおります。
職業○○の人、
肩こりの人、腰痛の人、
○○病の人…
どんな人でも診ます。ひと通り票も拝見しますが、
いざ観るとなれば、
「この人どんな人かな?」
礼儀といえば分かりやすいですが、それよりも私は、先生の人に対するフラットな接し方を感じておりました。
整体は色々なことを読みの対象とします。沢山のことを読みの対象としながらまぎれのない答えに向かうには、フラットな姿勢を要求されるのだと思います。
これは他の世界でも同様のことが言える気がします。
ことに当たる前に偏見が邪魔をしないようにする方法論を多々見かけます。
「どういう人かな?」
そんな興味が小さい頃からありました。
有名無名を問わず興味が湧くと走り出してしまうのです。人にしつこく付きまとって嫌がられたこともありました(最近はありません・笑)。
振り返るとずい分いろいろな人に興味を持ちました。初めは外に表れた業績のようなものに興味を持っても、最終的には人物像に興味が遷っていくのでした。そういう性格が後押しして、門下生に向かった面があります。それがなければ畏れ多くて井本先生の傍には近づけなかったと思います。
そんな道程で出会ったノンフィクションにも色々な作風がありました。
・事実から隠れた事実に迫るもの
・事実から世相を見せるもの
・事実から事実になる以前の世界、
主に人物の内面を浮かび上がらせるもの
事実を追うノンフィクションであっても、見えてくるものに違いがあるのは面白いものです。
医者に対する要求として、よく聞く話があります。
「話を聞いてもらえなかった」
(うちも聞くほうではないです)
「検査結果だけ見て、こちらを見てくれなかった」
「機械に診てもらっただけの気がする」
要するに
「私を見て」
ということだと思います。
医者の責任でしょうか?
極端な医者もいらっしゃるのかもしれませんが、受診者側の問題を思います。
「○○病です。診て下さい」
「○○病を治して下さい」
最初から○○病の名札を首いっぱいにぶら下げていれば、○○病しか相手にされないかもしれません。
一般に、整体もそのように思われることが多いです。
肩書きをもらうと安心するように、病名ももらいたがる人がおります。
「○○病ではないでしょうか?」
検査結果に異常がないと、かえって不信感を持つ人もおります。最もそうやって再検査するうちに正確なところが分かることがありますので、そういう姿勢も必要です。
しかし時に、そうやっているうちに病名獲得が目的になってしまうことがあるようです。
資格を目指して仕事にはビジョンや興味がない、ということもありますので、名前にはそういう楽しみが隠れているのかもしれません。
名刺や肩書きが人間の存在よりも重要になることがあります。
またそれは問題だという見方があります。
人と人との関係上、問題になることもあれば、仕事を引退した後に名刺や肩書きが捨てられないという内面の問題もあります。
肩書に支えられた人から、肩書がはずせないように、
病名に支えられた人からは、病名がはずせない場合があるようです。
思春期に
「俺をレッテルで判断するな!」
(ちょっと古いですか?)
「あたいをそんな目で見ないで!」
(だいぶ古いですね)
というのがあります。
独立の要求・自分という存在・大人への模索と言えます。例としては極端ですが、多かれ少なかれそうした傾向があります。大人という存在に向かって、生物上の自然な要求があるのは面白いことです。
整体に
「自らの足で立つ」
「自らの足で立たしむるには」
という思想があります。
個の独立は時に揺らぎ、
時に一人では修正が困難ということでしょう。
磯谷整体にも初診票があります。名前は初回票でも初見票でもいいのですが、とにかく初めての時には書いてもらいます。名前・住所・職業・年令・症状……人には色んな名札があるものです。
沢山書く人もいれば、全部書かない人もおります。
職業○○の人、
肩こりの人、腰痛の人、
○○病の人…
どんな人でも診ます。ひと通り票も拝見しますが、
いざ観るとなれば、
「この人どんな人かな?」
「体はどこに向かってるのかな?」
そうやって一から観始めるしかないのです。
それが個人を診ていくこと、と思うのです。
そうやって一から観始めるしかないのです。
それが個人を診ていくこと、と思うのです。
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