2009年3月28日土曜日

かくれんぼ

娘が1歳の頃の話

なんか気配が…

と思うと、娘が隠れ始めます。


隠れると言いましても狭い家ですので、隠れるところなどいくらもありません。

  隣の部屋のすみっこ
  冷蔵庫のかげ
  風呂場の近く
  とにかく何かのかどっこ

物理的にはほとんど隠れておりません。
それでもかくれんぼが好きで隠れます。
ふとしたタイミングで始まります。

娘は興奮した様子で、

しかし黙って、

そそくさと隣の部屋へ…

あれあれ!!

「あれあれ!!」

「どこ行った?」

娘が隣の部屋でどきどきしているのが伝わってきます。

「どこかな、どこかなぁ」

「ここかなぁ」

とりあえずすぐには見つけません。

「こっちかなぁ?こっちかなぁ?」

耐え切れなくなって少々暴れ始めます。

「いたぁぁぁ!!!」

「わー!ー!ー!」(娘)

いつもどおり

「わー」

とやりながら駆け寄ってきます。

いつもお約束の展開。

水戸黄門と同じです。

呼吸で遊ぶ


呼吸で遊ぶ

そんな感じがします。

大人が考えるかくれんぼのルールは、物理的に隠れなければなりません。しかし子供にとってはスリルを味わうための道具です。だから本当に見つからないところではなく、見つかりそうなところが楽しい。しかも娘の場合、隠れてるつもりでしかない。


結局、呼吸で駆け引きをしながら遊んでる気がします。
また、その方が展開が早くて面白いです。

姪っ子も隠れます。

姪っ子もかくれんぼが好きです。

「あたし隠れるねぇ」と宣言をしてくれます。

ある日、二人の姪(三・五歳のころ)がカーテンの陰に隠れました。

よほど興奮しているのでしょう。

隠れながら二人でカーテンをくるくる巻きつけています。

  くるくる具合≒こうふん度合い の法則(イミなし)

「どこかなぁ」
(私はいつも同じです。水戸黄門と…)


「ここかな?」
「それともこっちかなぁ?」


「わー!-!-!」

クライマックスを待たずに小さい姪が駆け出してきました。

緊張感に耐えられなくなったのです。


隠れていられないほどの興奮!

大人になってからこんな感じのことはあっただろうか?

そんなことを思います。

遊びとコミュニケーション能力

大きい姪は隠れてます。

かくれんぼのルールを理解できているからですが、
もうひとつ大事な点として、

成長にともなって呼吸器が丈夫になり、
呼吸を耐えることが出来るようになった、のだと思います。

子供の遊びには耐えたり、開放したり、そんなプロセスが必要です。

前回取り上げた言葉を使えば、集中と分散となります。

「だるまさんが転んだ」など如実にあらわしている気がします。


遊ぶ道具は何でもいいと思いますが、
呼吸器が丈夫になっていくには、
遊びの中にこんな要素が入っていることが大切ではないでしょうか?

本当は大人でも必要なことだと思います。
生活の中でそういうことを遊べれば、
集中と分散があり、呼吸の駆け引きを楽しめれば、

コミュニケーション能力の問題は、少し解決するような気がしています。

2009年3月19日木曜日

痛いの痛いの飛んでけ~

集中分散が…」


なんて言うとかえって分かりずらい時もありますが、
整体の基本です。


熟語は堅苦しくも重みを感じます。


が…」


とやるとさらに重く感じます。



前置きが長くなりました。

集中と分散についてちょっとライトなところで考えてみます。

ぃたぃのぃたいぉおおおおお


痛いの痛いの飛んでけー
という誰もが経験する(だろう?)このせりふ

痛いところに気持ちを集中させるいい方法です。

「いたいのいたいのぉお
とやると思わず、そこに集中します。

次の瞬間
とんでけーーー
とされると
ふと、飛んでった気になります。

「とんでけーー」
で緊張がゆるむんですね。

打ったところは緊張があります。
瞬間の防御などによる緊張が残っています。

それを
「いたいのいたいの
    とんでけーー」

で緩めるのですから、それなりの間合いや度合い、言葉の抑揚が求められます。

「イタイノイタイノトンデケ」なんて
棒読みされたら、何のことか分かりません。
体が反応出来ないのです。

相手の呼吸に合う速度や強弱という感覚的なものが大切になるのです。
これも整体の技術に通じるものだと思います。


打撲についてはもう少し細かく言うと、
その響いたところの方が重要なのですが、
その話はいずれの機会に譲ります。


いま少し


似たような例を考えてみます。


歩いてる時、転んだ時、膝やすねをぶつけて思わずそこを握り締めたことはないでしょうか?
中には叩く人もいます。

本来ぶつけて痛い所ですから、強く刺激をする方が痛いのでは?
と思えますが、大抵の場合強く刺激をします。

本人がやる分には度合いが分かりますから有効になるのです。

これも緊張に更なる緊張を加えることで、余分な緊張を緩めようとする体の自然な働きなのだと思います。


以上

   「集中と分散」
ということを考えてみました。




2009年3月13日金曜日

花粉症

花粉症の季節になりました。
街中でマスクをした人をよく見かけます。

親子連れがそろってマスクをしていることもあります。
思わず整体体操を教えてみたくなったりします。

もちろんつかまえて教えることはありませんが、

体操したらどうかな?
とか
この人の体型だと、すぐには変わらないだろうな?

とか
この人は本当に花粉症なのかな?
ちょっとくしゃみが出たから、花粉症と思い込んでるのかな?

などと思いをめぐらせます。

めんえきしっかん


一般的に花粉症は免疫系統の過剰反応とか、過敏反応とされます。
自己免疫疾患というものものしい疾患名と合わせて語られることも多く、年を追うごとに病気扱いされるようになってきた気がするのは私だけでしょうか?

研究もすすみ、治療法も今では沢山あるようです。

天気予報では花粉情報が伝えられ、花粉はずい分悪者になりました。
過去の植林事業の反省まで聞かれると、「大問題だな」
などと思えてきます。

本当に花粉が原因なのでしょうか?
花粉がそんなに悪者ならば、都市部よりも田舎のほうが被害は重大です。
農家はやっていけなくなってしまいます。

花粉が飛んでいても平気な人もいるわけですから、
いま一度、自分の体に向き合って花粉症が出る体を考えてみてはどうでしょうか?

春の体


整体における花粉症の捉え方はちょっと変わっています。

春という新しい季節への適応です。

変化への適応は生きている証であり、若さともいえます。

体の自然な反応と思えば、打ち消しに躍起になることもなくなってきます。

新しい季節を迎えるには、新しい体が必要なのです。


春を迎えるために緩み始めた体は、硬直したところを緩めるための反応を起こします。硬直した肋骨を緩めるためにくしゃみを出すのです。

固まった塩のビンを叩くイメージはどうでしょうか?

くしゃみをした後のちょっと爽快な感じは誰もが知っていることだと思います。

花粉症にもならない

「花粉症にもならない」

そんな言い方をすることもあります。
体の硬直が進み、反応を起こすこともなくなってくると季節の変化にもついて行かなくなります。

年をとると季節の変化になかなかついて行かなくなるため、花粉症もなくなってきます。それはそれで正常ですが、若い人がそれでは問題です。

花粉症が始まったら、
「お!働いてるな、体!
くらいの余裕をもたれてみてはどうでしょうか?

「いや、もう少し何とかしたい」
そんな人は操法や体操を活用されてみて下さい。

完全な治療法とは言いません。
止めることよりも出し切るほうが大切と思っております。

ですから誰にでもおすすめするわけではありません。

しかし中には一度体操をしただけで治まった人もおりましたので、体の硬直、つかえた所というのは面白いものです。

2009年3月9日月曜日

釘の音


心地よい音というのがあります。
なにも楽器ばかりが音を奏でるわけではありません。

うるさい

その昔、釘を打つ仕事をアルバイト程度にしていたことがあります。

その頃、現場の監督に言われたことで忘れられない一言があります。

「お前らの釘の音はうるさい」

というものです。


確かに自分でもそう思いましたが、どうすることも出来ません。
あれやこれや工夫してみるのですが、どうにもうるさい。

アルバイト程度とはいえ口惜しさがあり、
その監督や上手な先輩の釘音を、よくよく観察(聞察?)してみました。

それは
釘の音というより、木の音でした。

釘が木に吸い込まれるような心地よい音です。
体にきれいに響くのです。
音と音の間隔も心地よいものでした。

かたや私の釘音は、釘の頭が打たれる音でした。
それはそれは汚い音でした。
当然、間も悪いのでした。

(面白いもので、誰の釘音か?というのも結構分かるものです。人それぞれ体の使い方が現れるのですね)

暗闇二寸


「暗闇二寸」

なる言葉があるそうです。

確かなことは分かりませんが、歌舞伎の大道具の世界で使われるようです。
歌舞伎の舞台転換の時に、暗闇の中でより速やかに転換作業をするには、出来るだけ釘音を減らすそうです。

舞台装置を留める二寸釘。
暗闇の中で一発で打ち込む技量。

とっても色気のある言葉と感じます。


余談ですが、建設現場の騒音。

エアコンプレッサーで釘を打つ音に聞き覚えがあるでしょうか?
釘だけではありません。数々の機械で作業が行われております。

今更、昔の技術のみで…
などと言うほど懐古趣味は持ちませんし、現実的とも思いません。

しかし
失ったものの大きさを時に感じます。

騒音を数値換算して、何デシベルと測ることで基準が作られるようですが、釘音に技量を感じさせる手作業の時代には、どんなふうに対処していたのでしょう?

釘音は
建築現場の作業をリードする拍子になっていたのでは?

と個人的には想像します。


浸透

話は戻って、今度は整体の話。

井本整体を学び始めてすぐに、

「浸透」
  を教わりました。

手のひらや指から伝える力が、相手の中に浸透することです。

教わってすぐに出来るわけでもなく、
少し出来るようになっても、
何度も現れる課題です。

浸透しない技術に心地よさはなく、
押さえた表面だけが痛く感じたりします。

沢山の人と練習しているうちに、
そんな違いが分かるようになってきます。

もっとも鋭い人は最初からある程度出来ますし、
受け手として違いも分かるようで、
生きていく中で育まれる感受性に大きな差があることを実感します。

さて、釘音をうるさいと言われた私はやはり、
浸透という課題に人一倍取り組むことになったのでした。

時を経て、
今だったらどんな釘音になるだろう?
そう考えることがあります。

まるで変わってなかったらショックですね…  ヾ(・・;)

2009年3月7日土曜日

ここだ!

人後に落ちない親ばかですが、常識はわきまえてると思ってます…
いや、そう信じたい。

お片づけ始まる

娘、2歳5ヶ月。
お片づけが始まる。

藤製のかごにタオルを何枚も仕舞っている。

何度でもやり直している。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

いつまでも止まらない。

「あった!ここだ!」


覗いてみる。
何もない。

「ここだ、ここだ」
ひとり合点がいってる。

覗いてみる。
やはり何もない。

藤の編み目が並んでいるだけの底を指している。

ささくれがあるわけでもなく、
色合いが違っているわけでもない。

しかし娘のお片づけは止まらない。

いつからだったか?

いつ頃からか記憶にないのですが、

わりと早い時期から
片づけに執着することがあります。


大人の視点から見れば片付いてないのですが、
本人なりの合点がいくところをいつまでも探っています。

(ホームページのレイアウトで試行錯誤が止まらない私には、笑うに笑えないです)

おさまりがいい感じ

本屋に行くと、

片付け本
整理術

この手の本がごまんとあります。

情報整理の社会だから、というのもあるでしょうが、

大人になっても
こういうことには試行錯誤が止まらない
証拠のように思えます。

整然としたほうがいい人もいれば
ちょっと雑然としたほうがいい人もいます。

ただただ乱雑なのも困りものですが、
人それぞれ自分の感受性に合ったスタイルを見つけたいのではないでしょうか?


一言で言えば、
「おさまりがいい感じがする」

というのを大切にしたいのだと思います。

一応教えます。

娘には一応、
それなりに片付けることは教えておりますが

熱を入れて片付けているときは
何もしないことにしております。

自分の感受性を表現すること、

納得がいくまで続けることを


一応、教えているつもりのばか親なのでした。

2009年3月5日木曜日

馬の蹄

【有蹄類】
動物の分類に有蹄類というのがありまして、現在は正式な分類名称ではないようですが、適切な単語も知りませんのでこれでいきます。



一般に草食動物と言ったときには、牛や馬を思い浮かべると思います。それらの動物は皆、蹄を持っております。

蹄とは爪の進化した形です。
もっとも平爪とか鉤爪などの分類もあり、蹄だけが進化形というわけではありませんが、人間から見ると非常に特殊な印象を受けます。

奇蹄目

有蹄類がさらに分かれ、中に奇蹄目があります。

馬、サイ、バクの3種類です。

奇蹄目の名称は趾(ゆび)が奇数本であることに由来します。
正確に数えるとちょっと事情が変わるのですが、おおむねそうご理解ください。

馬はその奇蹄目の中では最も特化し、趾が一本しかありません。

中趾です。

進化途上で趾が減少したのです。今でも3本趾の痕跡を残す馬が時々生まれるようです。



人間も四つ足で歩くことは出来ますが、四本の指、しかも中指だけで歩くことは至難の業です。
たとえ指の力が強くても、形が追いつきません。
馬の進化というのはそれほど人間と開きがあります。

それがどうした?
という感もあるかと思います。

形態の違いを結果と捉えた時、先んじて起こった運動のロジックを考えるにはそれなりの想像が必要になります。
そこがなかなか困難なことなのです。

学問の中でしばしば陥るハードルと感じます。

簡単に言うと

「形に応じて用途が生まれる」なのか?
「用途に応じて形が作られる」のか?

「運動と形」が「卵とニワトリ」の論理に陥るわけです。

これ以上はまたいずれの機会にして、話を戻します。

四つ足と三脚、一脚

足が多いほうが安定しそうですが、三脚などがあるように三本足のほうが安定している面もあります。

四つ足の椅子は一本が微妙に磨り減るだけでガタつきます。

三脚は少々の違いは柔軟に吸収しますが、ひどく違うと倒れます。

一脚は自立できませんが、方向性は柔軟です。


馬の一本趾の自由度をちょっと想像されてみて下さい。
どうでしょうか?

接地面積と平行四辺形

四つ足で斜めに推進するのは、接地した四点が長方形から平行四辺形に推移していくような感じです。

四つ足の椅子が壊れ、よじれ、斜めに倒れていくようなものです。

より早く運動が推移するには、接地面が少ない方が有利となります。

蹄は非常に有利であり、一本指はさらに有利と言えます。

どれが先か?


一本趾、斜め走行、不等間隔のピッチ、

走る速さ、方向転換の妙、


いったいどれが先に始まったのでしょうか?

正確なところは私には分かりません。

が、何らかの運動方向が生まれ、相乗効果を持って馬となったのではないでしょうか。

生き物の運動って本当に面白いですね。



※本文中で椅子や三脚のたとえを用いましたが、それだけで馬の運動を直接表現しているわけはありません。

イメージのひも解きとして楽しんでもらえましたら幸いです。

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