2019年11月28日木曜日

磯谷整体 東京室物語 〜和可菜のころ〜 その4

和可菜初日。
二人診ておしまい。
赤字ではないが黒字とは言えない。
そんなことより…、
自分はいま和可菜にいる。
心の中でなんどでもかみしめる。

すっかり陶酔してるところへ、
興味をもったお手伝いの方が整体を受けに来た。
整体が終わって帳場の奥に戻られた。
どんな感想を持たれたのかはわからない。
話を聞いた別の方がまた整体を受けに…
その話を聞いた方、たまたま女将さんを訪ねて来られた方が整体に…

こうして和可菜初日は、わたしの不安を忘れさせてくれるものとなったのでした。
しかし女将さんに会ってない。
女将さんに会えなければ、"和可菜に来た"のマイヒストリーは始まりません。


和可菜二日目。
女将さんが整体を受けに来られました。
「この間はうちのものがお世話になりました。」
最初に丁寧なご挨拶をいただき操法しました。

すでに八十も後半でしたが、呼吸に力がありました。幼少期は弱かったとのことですが、ていねいに体を使ってこられた跡がありました。
はっきりとした物言い、打てば響くような返事の早さ、なんとも爽快な方でした。
これ以降、和可菜閉館まで診させていただきました。
途中股関節を壊したときは時間がかかりましたが、しっかり回復されました。

「危ない」ということもありました。
わたしがそう感じただけですが、極端に力が衰えたことがあり、
「危ないです」と伝えたことがありました。
二日くらいは元気がなくなったようですが、その後また元気になりました。
「危ない」と言われたことで、いろいろ思い直しふっ切れたと仰ってました。
人の「生きる力」とは不思議なものです。


Oさんは和可菜で整体を始めて間もない頃にいらっしゃいました。
紹介なしでやってきた初めての患者さんです。
ホームページを読んで興味を持たれたとのこと。あまり話さないご婦人でしたが、よくホームページを読んで下さっているのがわかり、こちらもうれしくなりました。
きれいな背骨をしていて弾力もありましたが、少し過敏なものがありました。
上胸部の抜けたところに古い問題が感じられ、解消するのに数年かかりました。

Oさんがいらした次の和可菜の日、神楽坂に住むというOさんの妹さん夫婦が来室されました
妹さんの姓はFさん。そう、福岡講座のFさんと一緒。名が妻と一緒。ついでに言えば年がわたしと一緒でした。
和可菜への道筋をつけてくれた福岡のFさんと同姓。このことがわたしを勇気づけました。
名前が符合したからといって特別意味を感じない方ですが、不安を抱えて始めた東京室だったので、この始まりの時期にFさんの名前は特別な力を与えてくれるのでした。

引き続きOさんのお母さん、息子さんが来室され、和可菜で整体を始めたことに迷いが消えていきました。
えらく優秀な体の若者だな、と思ったら息子さんは東京大学で物理を学んでいる学生でした。大学で鳥人間コンテストの活動をしているとかで、その後設計を担当されたりしておりました。これは唯蔵さんのご縁かな、とあとで思ったものです。
(菱田唯蔵:東京帝国大学教授 航空工学博士 菱田春草の弟 妻の曽祖父菱田為吉の弟)


その後Oさんのお宅に何度か往診に伺いました。
驚いたことに、そこは目白の永青文庫のすぐ近くでした。
音羽で永青文庫を想った日々が思い返されます。往診の道々のぞいてみると、雑木林のなかに古びた建物がありました。その風情になおさら郷愁を掻き乱されます。大家さんが磯谷(いそや)さんだというOさんのマンションの前に立つと、ここでも懐かしさが湧いてきます。東京に住んでいる頃はバイクで移動していたこともあり、このあたりは数え切れないほど通りました。
何度目かの往診のとき、それにしてもなにか…………と、わたしはOさんのマンションの前で考え込みました。

「あ!」
思わず声が上がりそうになりました。いえ、声が上がりそうというか、全身がパッと爆ぜるような衝撃でした。通りの反対側にあるマンションは、かつてわたしが何度も訪ねた場所だったのです。二十代前半、公私にわたってお世話になった社長がおりました。そこはその社長のかつてのお住いだったのです。思い出して驚いたというか、あれほどの日々を忘れていた自分に驚きました。15年ほど経っているとはいえ、そこは何度も、いろいろな思いを抱えて訪ねた場所なのでした。
整体を学び、門下生生活という濃密な時間を過ごし、整体にかけた人生に入ったわたしには、その前の出来事の多くがはるか昔のことのようになっていました。そしてそのことが時に人生の齟齬のごとくわたしに迫っていた時期でした。自分の中で不協和音が鳴り止まない。昔の知人に会っても、わたし自身が変わってしまったせいか、昔のように噛み合わない。そんな時期です。

    目白通りの向こうで青春の残像が息を吹き返す。
    目白通りのこちらで整体指導者として背負ったものが脈打つ。

過去と現在の断絶を感じていたこの時期に、通りの向こうとこちらにそれを象徴する二つの建物が対峙しておりました。

    さらに背後には永青文庫。
    向かいのマンションを向こうに降りたところは、
    妻と出会った井本整体音羽道場があったところ。
    過去も現在も、今この場所で当たり前のように渦巻いておりました。

それがひとつの啓示となりました。
変わらない自分と、変わってきた自分と、今ひとしくあるという当たり前の事実です。
不確かになっていた自分に気づき、再び確かになっていく自分を得られた瞬間。それは救いでもありました。
こんな経験ある方、結構いらっしゃると思います。
Oさんが呼んでくださったのか、春草が呼んでくださったのか、いずれにせよ、得がたい瞬間に感謝するのでした。

(その5につづく)

2019年11月25日月曜日

磯谷整体 東京室物語 〜和可菜のころ〜 その3

三年後、門下生修了。
門下生の生活を書いてるともう終わらなくなるので、ここではしょります。すいません。
井本先生より「開業しなさい」のお言葉をいただき、晴れて郷里に帰りました。


開業する喜びはもちろんありましたが、やっと妻と暮らせる喜びと安堵ははかり知れないものがありました。離れていた期間のせいか、今でも妻と生活しているだけで幸せがあります。
さて、一応結婚式をすることになりました。
このときの妻のお父さんのスピーチが忘れられません。

「若い頃は『春草がなんだ、俺は俺だ』と思ってましたが、最近はそこまでは思わなくなりました………。」
そう言って春草の画集をプレゼントしてくださいました。
(春草は義父の祖父の弟)

菱田春草は兄の為吉、弟の唯蔵の支援と愛情を受けながら大成した方です。より正確に言うならば、大成しかけたときに夭逝しました。
東京美術学校(現在の東京芸術大学)校長を追われた岡倉天心は、「日本画に革新を」という思想のもと、共鳴する者たちと日本美術院を組織します。日本美術院は院展を開いているところ、というのが一般的にはわかりやすいでしょうか。
東京美術学校ですでに講師をつとめていた菱田春草、横山大観、下村観山らも職を辞し、日本画の革新に挑みます。
輪郭線を省いた日本画。それは当時ではありえない思想だったようです。輪郭線がないために境界部分がどうしてもぼやけてしまう「朦朧体」と呼ばれるこの技法。「朦朧としているから」という侮蔑が当時込められていたようです。


ここでちょっと脱線いたします。
「解体新書」をご存知でしょうか?
日本史の授業に出てくる杉田玄白の訳書ですね。日本に西洋医学が入ってきたという歴史の1ページです。
原著の図版には輪郭線がありませんが、訳書では輪郭線を用いて描かれております。江戸期における絵画の考え方として、輪郭線の存在は確固とした地位を持つものだったようなのです。
もう少し補足すれば、絵画表現と人々の感性は相互作用しながら、認識と表現の歴史を潜在意識下に刻みます。
未開の部族に絵を見せたときにどのように理解するか?
といった実験が人類学上あるように、われわれは気づかないうちに二次元表現の技法から認識方法を方向づけられ、感性を育てられております。
ちょっと古いですが、漫画「アキラ」が出たときにその表現の斬新さが話題となりました。今まで見たことのない技法から、新しい感性が想起されることは、文化・芸術ではよくあることです。というよりも、そういうことに挑戦しているのが、文化・芸術です。自然科学もかつては感性を育てたのでしょうが、現代はもう発明に偏り過ぎでしょうね。科学に実利しか見えなくなってしまったので、「人文社会学部はいらない」といった発言が出てくるのでしょう。一番わかりやすい文学の意義でさえ、多くの人々に分からなくなってきたのが現代だと思います。


戻ります。
思想家であり、画家ではない岡倉天心がどのような思考の軌跡を辿ったのかは浅学のため知らないのですが、江戸期日本画の技術継承から一部脱却をはかったことは確かです。このハードルの高さがどの程度のものであったかは、当時の文化史・風俗史とともに理解しないといけないため分かりかねますが、職を辞してまでという点から、かなりのハードルであったことがうかがえます。

個人的には春草はもともと思想的跳躍に挑む人であったように思えます。
21歳の東京美術学校卒業制作『寡婦と孤児』では、乳飲み子を抱きながら途方に暮れた寡婦のそばに、主をなくした鎧と刀を描いて寡婦となった今とこれからを暗示させます。『水鏡』は美しい天女を描きながらも、いずれ老いゆく姿を空想させます。

『落葉』では地面に散らばる落ち葉であると同時に、舞い降りる落ち葉にも見えるという視覚効果を使っています。同時には存在し得ない二つの様態。これはロジックとしてはエッシャーのだまし絵と同じものです。観る人の認識を揺さぶり、現実感を奪うのです。ただの雑木林を描いているにもかかわらず、幻想の世界へ引き込まれてしまうのはこのためです。「朦朧体」という技法だからこそ成し得た究極的な絵だと思います。

能書き書いてますが、絵のことは詳しくありません。しかし読み解ことしたときに、春草ほど意味を見せてくれる画家も稀だと思います。こうした思想上、認識上の挑戦が、わたしをいたく刺激するところでもあります。
また凡人は技術を磨いているうちに、技術を行使することしか考えなくなるものですが、春草は技術を磨いてなお技術に溺れることなく、それを使ってなにを生み出せるか、という可能性と課題を十分に抱いていた非凡な人と言えます。こうした生き様に、整体をやっているわたしは憧れと戒めを感じたりします。

また日本美術院を創設した方々に僭越ながら共鳴しています。
余談ですが、横山大観が整体創始者・野口晴哉氏の整体を受けていたことは有名な話です。横山大観が整体のどこに共鳴したのかはわかりませんが、「朦朧体」の確立に挑み、『無我』といった挑戦的な作品を打ち出した大観が、整体の思想的挑戦に共鳴していたなら、うれしいことです。


日本美術院は朦朧体の作品を次々と生み出し、海外での展覧会に打って出ます。おおむね好評を得られたようで、日本でも次第にその地位を確立してゆくこととなります。春草の死は、そんな矢先のことでした。
明治天皇や流山の富商・秋元酒汀が春草の作品を買い取るようになり、春草の生活も少し楽になり始めた頃から、眼病を患い目が見えなくなっていきます。『黒き猫』は亡くなる前年の調子のいいときに、一週間足らずで描かれた作品です。『黒き猫』は秋元洒汀に引き取られ、『落葉』とともに収蔵されることとなりました。


夭逝した春草。兄弟の悲しみはどれほどのものか、伝え聞くものはなにもありません。
自身も絵がうまかったけれど、弟の画力を見るにつけ、為吉さんは弟を支援することに決め、自身は学業をおさめます。大正天皇の教育係をつとめ、東京物理学校(現在の東京理科大学)の講師となります。春草の弟唯蔵さんも学業をおさめ、航空工学博士となり、東京帝国大学(現在の東京大学)教授となりました。
為吉さんは子、孫世代へも芸術への喚起・奨励をされていたようで、そのことがどうやら菱田家に暗い影を落としたようです。義父は為吉さんの直系にあたりますが、苦い思いがあるのか、そのあたりのことを家族に話さなかったようです。

義父が亡くなった後に、義父の妹さんが
「春草の描いた仏壇の扉があったはずだけど…」
と教えてくださいました。それは為吉さんが作った扉に春草が絵を描いたという兄弟の合作でした。妻も妻のお姉さんも記憶になく、いつどのように手放されたのか今となっては分かりません。後に代々木で春草展があったときに展示されているのを見つけました。それは扉だけとなっておりました。扉はなにも語ってはくれませんが、お世辞にも保存状態が良いとは言えず、傷みの目立つその様に来し方を想うのでした。丁寧に保管されてきた文化財のなかであれば一層のこと、それは目立つのでした。義父が最後にこれを手にしたのはいつのことだろう、それはどんな状況だったのだろう。それを思うと、なにか苦いものが口の中に広がるのでした。

そんな義父が結婚式のときに前述のスピーチと春草の画集をくださったことは、わたしにとって意味深いものとして響きました。門下生になる前に入籍だけすることを許してくださった義父です。おそらく整体でやっていく道のりを慮ってくださったのだと思います。一族に絵の道を支援された春草と、その一族の残滓に翻弄させられ、もろもろの精算を負った義父には、なにかに人生を掛けることの価値と危険が骨身に沁みていたのだと思います。
美術史の上では、春草は芸術のためにしか絵を描かなかったとされていますが、義父によれば生活のための絵も実は描いていたとのことです。ことの真相はわかりませんが、義父としてはわたしへの箴言の意もふくめていたのだと思います。

『黒き猫』は春草の孤高さのイメージとよく重なる作品です。
わたしは春草そのものだと感じていますし、そう感ずる人は多いと思います。
睨むでもなく、微笑むでもなく、ただただ意思をたたえる黒猫の目。
無口で頑固であったという春草の静溢さと心のブレなさそのままが描かれていると感じています。
この絵に魅入るようになったのは、開業してからですが、この佇まいが自分にもほしくて、操法室の玄関にカラーコピーを額に入れて飾っておりました。


話は戻りまして和可菜の玄関にある黒猫と和服美人の絵。
こちらは伊藤深水作ですが、同じ黒猫が玄関にいることはわたしにとって気の高まるものでした。
ちなみに和可菜ではメメちゃんという黒猫が飼われていたこともあるそうです。暗闇で目が二つ光っているからメメちゃんだそうです。

和可菜は女将(和田敏子)さんの姉・木暮実千代(和田つま)さんが買った建物でした。
未亡人となり、木暮さんのつき人をつとめていた敏子さんの将来を思い、実母登喜さんが木暮さんに買わせたというのが真相だそうです。女一人で生きていくために旅館を、ということです。

敏子さんは生まれる前からの約束で、和田家の本家に養女に出されました。実子に見せる演出を経ていたので、兄弟同志でさえその事実を知るのは成人して後だったそうです。本家は牛乳屋で財を成していたけれど跡継ぎがない、ということで敏子さんを迎えたわけですが、戦争もあり、大人になる頃には廃業しておりました。
じつは敏子さんの実父は本家の長男でした。本来なら跡を継いでいたはずですが、放蕩が過ぎて追い出され、下関に流れて居をかまえました。そんな父親のもとで育った木暮さんは東京に出て女優となり、生まれてすぐ東京に出されていた実妹と人生を重ねるようになるのですから、不思議なものです。相性もよかったようで、亡くなるまで密な交流が続いたようです。

和可菜は木暮さんの女優としての全盛期の収入、育てられなかった実母の思い、本家が衰退し、さらに未亡人となった敏子さんの寄る辺なき身の上から生まれました。
数奇な人生を歩まれた女将さんはどんな人なのだろう?
基本的に人物や人生に興味があるわたしなので、女将さんに会うのを楽しみにしておりました。

2019年11月21日木曜日

磯谷整体 東京室物語 〜和可菜のころ〜 その2

さて……、
悩ましい日々となりました…………。
やっぱり和可菜で整体やってみたい………………。
どのくらい悩んだか……、ひと月だったか半年だったか、今となっては思い出せませんが、妻に相談し、ある日決意して一人和可菜を訪ねました。

「ここで整体をしたいのですが……。」
出てこられたのはお手伝いの方でした。普通は仲居さんと言うのでしょうが、和可菜では「お手伝い」という言い方をされておりました。
「ちょっと待ってくださいね。女将さんに聞いてきます。」

(断られたらどうしよう)
(女将さん出てきてくれないかな)
(断られたら直談判だ)
ほんの数分でしたが、もりもりと闘志が湧いてきます。

「いいですよ。」
あっけなく承諾していただけました。

思い煩っていた時間の重さが春の雪解けのように流れ出す。
胸の奥で湧き上がる高まりに耐えられず脚が震え出す。
そして新たな緊張と不安がうずまくのでした。
そりゃあそうです。なにしろ採算が見込めないのですから……。

帰り道で妻にメールを出し、帰ってからFさんにメール。
さて準備しなくては……、
といっても整体は操法布団以外にはほとんど必要なものもありません。主な準備は自分の心を整えることでした。


先だっての朝食のときに見つけたのか、この交渉のときに見つけたのか、すでに記憶が曖昧ですが、玄関の黒猫が気になっておりました。
和可菜の玄関には黒猫を抱く和服美人の絵が飾ってあります。
ずっと女将さんだと思ってたのですが、往年の大女優木暮実千代さんでした。
木暮実千代さんは女将さんの実姉で、和可菜を購入された方です。
絵を描いたのは伊東深水という日本画の大家。その娘さんは女優の朝丘雪路さんです。

この黒猫がわたしにはとても気になる存在でした。
というのも黒猫はわたしにとって、ひとつの象徴になっていたからです。
それを説明するには、妻との出会いと結婚をお話しなければなりません。


妻の旧姓は菱田。出会ったのは東京都文京区音羽の"井本整体"です。今は千駄ヶ谷に大きな自社ビルをかまえておりますが、当時はマンションの集会スペースを改装した小さな私塾でした。地下鉄有楽町線「護国寺駅」のホームから長い階段を登り、外に出てから急な坂道をまた登り、都会の真ん中で山寺を訪ねるかのごときロケーションでした。
そこで「東京セミナー」の実行委員をお互い二年ほどつとめたのが、距離が縮まるきっかけでした。
セミナー活動を認められたわたしは、ある日井本先生から「門下生(内弟子)になりなさい」となかば既成事実のようにお声をかけていただきました。周囲からも磯谷は門下生になるのだろうと見られてましたし、わたしにもその自覚はありましたが、東京セミナーを控えた一週間前でもあり、ついにこのときが来たかという充実感よりも、このタイミングで来てしまったというあせりが先にありました。

「磯谷くんともう一人連れて行く。もう一人はセミナースタッフの中から磯谷くんが選びなさい。」
さて困りました。しかし迷っている間もありません。その日のうちにスタッフ五人に集まってもらい、その旨伝えました。「門下生になりたい人」と問うと、妻以外みな希望しました。選びなさいと言われたわたしですが、それぞれ先生に意思を伝えて下さい、と告げました。ずるいといえばずるいのですが、そうすればもう二人行けるかもしれない、いや三人かもしれないという期待がありました。最終的には全員東京門下生として修行し、そのうち二人はのちに山口でも門下生として修行されました。結果的には正解だったと思っております。

さてセミナー本番一週間前という忙しいときに門下生に決まり、わたしはほかにも大きな決断を迫られていました。
つきあっている妻のことはどうしよう……。
若ければ帰ってくるまで待ってて下さい、というところですが、年齢的にそれは許されず、修行は何年かかるかもわからず、別れるか籍を入れるかの二択しかありませんでした。悩むほどの時間もないまま、その日のうちに結婚することに決め、セミナー当日を迎えることとなりました。


恋人同士という時間があまりなかったので、じつに互いのことをあまり知りませんでした。セミナー活動を通じて人となりを知っているのがお互いの信頼関係のすべてでした。
しかし結婚するとなるとそれでは物足りなくなってきます。おごそかな私塾内の公的な顔でなく、私的な妻の顔を知りたい、門下生となるまでに、はなればなれの生活になる前に、もう少し彼女を知りたい。そんな歯がゆさがありました。
互いのことを話す中に、
「ひいおじいさんの弟が画家で、その絵が目白の椿山荘の近くにあるのよね。」
というのがありました。
椿山荘は護国寺から目と鼻の先、歩いて行けるところです。時間を合わせれば行けるだろう。
所蔵しているのは永青文庫。その絵は『黒き猫』。画家の名前は菱田春草。

しかし通常は展示されていないとのこと。
「『子孫です』って言って見せてもらえないかな」
わたしが無茶なことを言うと妻は「無理でしょ」という顔でした。
あとでわかりましたが『黒き猫』は国の重要文化財。『子孫です』で見せてもらえるはずもない代物でした。

門下生として旅立つまでの短い時間で出来ることは限られており、黒猫はこれ以上深追いしませんでした。なにしろいつ門下生として山口へ旅立つのか、その期日も分かりません。当時の井本先生の勢いは、ある日山口に連れて行くことくらい当たり前の風情でした。実際その一年ほど前、ある日突然「今から山口行くか」の一言で山口に連れて行かれたことがありました。
そんな事情もあり、やるべきことは早めに、という毎日。たがいの親に挨拶をすませ、籍を入れ、わたしの荷物を妻のアパートに移し、二週間ほど一緒に暮らし、ついに期日を告げられ、わたしは門下生となりました。
門下生生活に自分のことを入れるスキはなく、やがて菱田春草の名前もすっかり忘れ去ってしまうのでした。

(その3につづく)

2019年11月18日月曜日

磯谷整体 東京室物語 〜和可菜のころ〜 その1

東京でも整体をするようになって、早10年となります。
あるときふと思い、なんとなく調べ始めただけなのですが、いつの間にか本当になっておりました。

はじめに"和可菜"という味わい深い旅館へ憧憬を抱き、
人に話したところ、そのまま導かれるようにはじまり、
そして様々な縁に囲まれていたと気づかされた次第。
思い返せばまことに不思議な縁に恵まれていて、
ときどき人に話してはみたものの、
他人の縁の話というのは周辺事情の説明も必要であり、
全部説明すると冗長になりすぎるのでわかりにくい。
仕方なく途中をはしょって話してきましたが、はしょると縁の妙が伝わらない。

そうしたわけで冗長になりますが、個人的な東京室の物語です。よろしければおつきあいください。


千葉県は柏市で整体を開業し三年が経ったころ、ふと東京でも整体をするならば……、という空想をするようになりました。
山手線の西側からいらっしゃる方が数名おり、中にはつき添いとともに来室される方がいらっしゃったからです。

(一日くらいこちらが東京に行く日があってもいいかもしれない……)

当然ながら採算がとれる見込みがないため、あくまでも空想でした。
"東京 旅館 和室"といったキーワードで検索して、引っかかった情報に対してあれこれ想う楽しみにとどまっておりました。普通は貸しスペースのようなところを調べるのでしょうけれども、整体は基本的に床でないとできません。ホテルの中にある和室も検討しましたが、オートロックで閉まるような重い扉は女性を緊張させてしまうので、廊下と部屋がゆるく仕切られている状況が望ましいのです。
そうしたわけで検索キーワードは"旅館 和室"となりました。

和可菜は最初の方にヒットしました。もともと"東京 旅館 和室"は該当物件が少ないこともありますが、"ホン書き旅館"という称号で有名な旅館だったので記事が沢山ヒットしたのです。女将さんへのインタビューや"ホン書き旅館"に惹かれて泊まった方のブログなど、結構ありました。そしてこの"ホン書き旅館"なるワードが私をいたく刺激しました。私は昔から本が好きなのです。

作家がカンヅメになる旅館に違いない。
編集者に連れられてやってきて、
部屋の中とか、となりの部屋で見張られながら、
作品が仕上がるまで出してもらえない……。

御茶ノ水の「山の上ホテル」や「まんが道」にあった手塚治虫が頭をよぎります。もうなんか十代のころに夢想したモノ書きの姿を自分に重ねて陶酔しておりました。

もっと知りたい、、、
どうやら和可菜を描いたエッセイがあるらしい。
「神楽坂ホン書き旅館」
さっそく購入。

読んでみると、わたしの空想とはちょっと違ってました。"ホン書き"の"ホン"とは脚本のことだそうです。映画の脚本家がおもに利用していたことで、和可菜はその名を広め、のちに小説家も利用するようになり、なかでも野坂昭如さんはわたしの夢想したカンヅメ作家を体現していました。

連載を複数抱え、
別の部屋に各社の編集者がピリピリしながら控え、
作家はスキを見てこそっと抜け出す。

そういうあり方ですね。
ほかに感慨深かったのは、色川武大さんも利用されていたことでした。十代から二十代にかけて、別名の阿佐田哲也とともにほとんどの作品を読んでいたのです。のちにわたしが整体をするようになった部屋を利用されていました。

この文章を書くにあたって、和可菜についてあらためて本を読み直しました。目に止まったのが本田靖春「不当逮捕」、和可菜で書かれたようですね。最近、金子文子「何が私をこうさせたか」、ブレイディみかこ「おんなたちのテロル」などが面白かったので、今になってまた和可菜に感慨を覚えた次第です。

さて「東京で整体をしたい」という願望は、いつのまにかかつて憧れていた"モノ書き"願望へと昇華され、想いはかなり混沌となっておりました。

和可菜で整体をする自分は、
和可菜で仕事をする人であり、
和可菜で仕事をする人はつまり"モノ書き"である。

そんな三段論法にいつの間にか絡め取られて喜んでいる自分と知りながらも、和可菜で整体をすることと、モノ書き幻想が切り離せません。和可菜へのときめきが止まらない、そんな状態です。
(思い煩っているのも体に悪い。採算の見込みがなくてもとりあえず現地までは行ってみよう。)
ある日思い切って和可菜を訪ねました。

JR飯田橋駅を降り、大きなタマネギで有名な日本武道館とは反対方向の神楽坂方面へ、お堀を渡り、大食いチャレンジで昔から有名な神楽坂飯店を右に見ながら急な坂道へ、これまた有名な老舗の甘味処・紀の善を通り過ぎ、神楽坂のてっぺんへ、毘沙門天の向かいのビルとビルの間の路地、ひと一人分の巾しかないビルの間を抜ける、少しだけ広くなり、風情ある石畳の階段をくねりながら降りたら目に入ってくる格子戸、そこが和可菜でした。


ほんとに訪ねただけ。
見に行っただけ。
黒い塀、「和可菜」の文字、
なにもはまってない格子戸、
格子戸の先に窓が見える、部屋だろうか。
だれかいるのだろうか。
耳をそばだてる自分がいる。
知ってる作家さんがいたらどうしよう。
勝手にときめいてしまうが、もちろんどうもできません。

格子戸の左の方に玄関が見える。
予約しているわけでもない。
整体で借りたい、と交渉する段でもない。
ただもう思い入れしか持っていない。
和可菜にアプローチするなにものをも持たず、
ただ見るしかない。なんとももどかしい。
心を踊らせながらも、しばし立ち尽くして帰りました。


借りるようになってからわかりましたが、このあたりはガイドつきで散策している方がたくさんおられます。和可菜ももちろん観光スポットであり、門前で講釈を受けている人たちの姿をよく見ました。通りすがりの人でも和可菜の前で「ここは、、、、」とよくやっていました。
あの日の自分のように憧憬を懐く人、入ってみたくて佇んでいる人、そんなふうに見受けられる人もよく見かけました。

さて和可菜を訪ねて数週間。和可菜への思いは募ります。
そんなある日、Fさんに
「実は、これこれこんな旅館があって……。」
あふれる思いのまま話しておりました。

Fさんは井本整体福岡講座の生徒。わたしが彼の地で講師をしていた時の最後の年の生徒でした。たった一年しか指導できませんでしたが、Fさん姉妹はわたしが辞めてからもわたしを慕ってくださり、そのことがわたしをいつも勇気づけました。「辞めてからもそんなに慕われて幸せですね」と言われたことも一度ならずあったので、端からもそのように見えたのでしょう。
そうしたわけで、Fさんが井本整体東京本部に勉強に来られたときは、いつも会食しておりました。
和可菜への思いを話したのもそんな折です。どこに食べに行きましょうか、と話しているときにふと和可菜のことを話したのです。

「実は、和可菜という旅館があって……、整体をやってみたいんですよね。まあ、現状無理なんですけど……。」
するとFさんは、
「今から行きましょう。」
「!?」

なんと行動的な方でしょう。朝から一日中整体を学び、もう日も暮れてるというのに、これから電車に乗ってもうひとつ動きましょう、というのです。その心の自在さに魅了され、その行動力に圧倒され、当然ですよといった風情に絆(ほだ)され、神楽坂へと向かいました。

JR飯田橋駅を降り、大きなタマネギで有名な日本武道館とは反対方向の神楽坂方面へ………、
前に来たときと同じですね。
そしてまたしても、旅館の前で佇みました。今度は二人です。
「いいですねぇ」
「いいでしょう」
「いいですよねぇ」
月並みな会話を繰り返し、そのまま旅館を後にしました。
不思議なものです。他人と共有したことで、一人で夢想していたときよりも"和可菜"はリアルに迫ってくるのでした。

数日後。
Fさんからメールが届きました。
「次の特別講座(東京本部で年三回行われる集中講座のこと)のときに和可菜に泊まります。もう予約しました。妹も一緒です。」

またしてもFさんの行動力にやられました。そして、
「朝食が美味しいらしいので、先生も朝食だけ来られませんか?お願いしてみます。」

いつの間にか和可菜についてはFさんがリードする形になっていました。
「うかがいます。」
こうして朝食だけ和可菜体験することとあいなりました。

さて当日。
自宅を五時過ぎに出て、和可菜に六時半くらいだったでしょうか。わたしはおまけみたいなものですが、今度は晴れてお客さんです。
格子戸の向こうの部屋の窓が開いて、Fさんの妹さんが見えます。
覗き込むしかなかった格子戸を開け、石畳を数歩踏みしめ玄関へ。お二人が迎えに出てくれました。

薄暗い玄関はなんとも言えぬ懐かしさにあふれ、わたしを異空間へ誘うのでした。
朝食は玄関横の部屋。飾り気のない質素な雰囲気で、何色にでも染まりそうな空間でした。
そして朝食をいただいたわけですが、じつにほとんど覚えておりません。おいしかった、くらいは覚えておりますが、わたしはこのとき和可菜の空間に浸るばかりとなっておりました。

ぜひに会いたかった女将さんに会えなかったことが心残りとなりましたが、Fさんのおかげで和可菜はますますわたしの中で熟成されていくのでした。

(その2につづく)

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