2021年10月14日木曜日

ゴーギャン『ノアノア』 木村伊量『私たちはどこから来たのか 私たちは何者か 私たちはどこへ行くのか 〜三酔人文明究極問答』

『ノアノア』ゴーギャン

私は蘇った。或いは私の裡に純な力強い人間が生まれて来たと云う方が好いかもしれない。この力強い打撃は、文明並びに悪への最上の訣別の辞としてふさわしいものだった。

ゴーギャン『ノアノア』岩波文庫


木村伊量『私たちはどこから来たのか 私たちは何者か 私たちはどこへ行くのか 〜三酔人文明究極問答』ミネルヴァ書房 2021

伊豆の山荘に集まった知性あふれる酔人が文明に対する“問い”を立てて鼎談する。
丁々発止のやり取りというものではなく、いくつもの角度を提示されるというかたち。
司会は山荘の主人「散木庵亭主ハヤブサ」。モデルは著者自身であろう。
著者は朝日新聞社元社長。東日本大震災当時就任していたとのこと。

文明に影響を与えた数多の人物・事件・概念が足早に過ぎ去る。
その早さは同ジャンルの本にはあり得ないほどのスピードだ。
全編に渡ってついていける人はほとんどいないだろう。
目次をさらって、興味のあるところを読むのがいいと思う。

尚、鼎談は架空である。
発行はミネルヴァ書房。著者はもちろんのこと、編集者の力量に驚嘆する。


ちょっと前にたまたまゴーギャン(1848〜1903)の『ノアノア』を読んでいたので、ゴーギャンの「文明からの離脱要求」が私の中に強くのこっていた。
『ノアノア』はゴーギャンがタヒチに滞在していた時の紀行文であり、内的探求の記録だ。芸術家による内的世界の探求は興味深いところだが、あえて一冊の本にするほどの熱量を持っている人はあまりいない。それだけゴーギャンは文明生活に浸かりながら葛藤し、文明離脱の要求が圧縮されていた証だと思う。

いくつか引いてみる。


文明は、次第に私から消えて行った。私は物事を単純に考え始めた。近隣の人々に対しても、なるべく嫌悪を感じないよう、ーーそれよりももっとよく愛しかけて行こうと考え始めた。私は動物的な、同時に人間的な自由な生活から来るあらゆる喜びを亨(原文ママ)んだ。そして、不自然から遠ざかって、自然に入り込んで行ったーー今日の日が、自由で美しいように、明日も亦こんなであろうと思う確信をもって。平和は、私に落ちかかって来た。私は、順調に啓発されて行った。そして、もう徒らな心配はしなくなった。


文明化というのは、見た目上は物があふれて便利になるとか、通貨が流通して有象無象のやり取りが簡略化されるといった分かりやすいものだ。
しかしながら文明化による精神性への侵略は、気をはらう者には存在するが、気づかない者には存在しない。そういった厄介なものと言える。

文明化されていない精神の者が使う文明の利器と、文明化された精神の者が使う文明の利器。
表在するものは同じであるが、内在するものはまるで違う。
戦の終わった江戸時代に刀の扱いを追求した武士と、扱える刀を追求した刀鍛冶。
茶を飲むだけのことを追求した千利休。

文明の中でも精神が失われないようにする流れが日本にはあった。
とくに江戸時代はそういった意味で世界的にも稀有な時代とする声が多い。

皮肉なことに、江戸時代を捨てた日本が文明化に猛然と突き進んでいる頃、ゴーギャンは文明を脱ぎ捨てることに挑戦していた。
こういった流れがいつからヨーロッパに出来ていったのか分からないのだが、18世紀にはルソーが「自然に還れ」と唱えているので、もっとずっと以前から文明に危機感を覚える流れがあったのだろう。

ヨーロッパ型の文明化は、まずはヨーロッパで疑問視され、アメリカに場所を移して再構築されてまた疑問視され、少し時をずらして日本でも疑問視されている。
文明化の全てを失敗とは言わないが、無くした精神を取り戻すには、学んで行くしかない。無くした精神に気づいてる人なら道は他にもあるが、気づけないなら学ぶほかない。


 私の心は平静に帰った。そして、小川の冷たい水の中へ飛び込んだ時には、精神的にも、肉体的にも、限りない喜びを感じた。
「冷たいだろう」と彼は云った。
「いいや、ちっとも!」私は答えた。
 この叫び声は、今私が、私自身の裡に、あらゆる腐敗した文明と戦って、断然勝利を占めた争いの終結を告げるように思われた。それは、山々の向うへ、響きの好い木精となって反響した。「自然」は私をよく理解してくれたのだ。


文明の力、それは強大であり、人間の精神の中でほとんど常に勝利をおさめる。
便利な物を使ってはならない。そういう単純な問題ではない。
便利な物の中に人間の精神を削るものがあるということだ。
ゴーギャンにその自覚がいつ目覚めたのか分からないが、これまで断然勝利をおさめ、タヒチの地で戦いの終結に至ったようだ。


この私の呼吸している清純な空気と、廃頽的な魂の中にひそんでいる堕落した本能とが、その対照と驚異とから、私の今すでに修得した聖なる単純な生命に不思議な魅力を与えた。この内部的経験は、換言すれば征服を経験したことであった。私はもう他の人間になって了ったのだ。

(ちょっと翻訳がギクシャクしているが・・・)


精神の克服は、一般的に苦しみに耐えることのみが強調されてしまうが、それだけでは人間は苦しいことだらけになってしまう。内部的な経験が掘り下げられ、新たな輝きにいたらなければ、誰でも浮世の苦しみに溺れ死んでしまう。
心がどうしようもなく行き詰まっている人は、苦しみに耐えることしか考えられなくなっていないか、あらためて心に聞いてみるといい。
「断然勝利をおさめてきた」というゴーギャンでもタヒチが必要だった。
あなたが行き詰まっているのなら、文明に侵された精神をどこで克服できるのか、求めてほしい。


『私たちはどこから来たのか 私たちは何者か 私たちはどこへ行くのか』


話はもどって『私たちはどこから来たのか・・・』
このタイトルはゴーギャンの一番有名な作品からとったそうです。
作品のことは知りませんでしたが、私の中に『ノアノア』がのこっていたので、ゴーギャンの“問い”がやけにしみてきます。

私たちはまったく、どこへ向かっているのでしょう?
コロナ騒動の中、なおさらその思いが強くなります。
私たちは何者なのでしょう?
ウィルスを前に、考えるべきでしょう。
命の有る無しは重要ですが、命の有り様はもっと重要です。

コロナ騒動は文明転換期の始まりに過ぎません。
ここをやり過ごしてもすぐに次がやってくると思っておいたほうがいいでしょう。
なにも考えずにいるうちに世界が様変わりしていたら、口惜しいことです。

人間の精神はこの程度の疫病で侵されるものではありません。
われわれは今、疫病に侵されているのではなく、コロナ禍という共同幻想に侵されているのです。
医療的解決よりも、思考力による解決の方が今は優先であり、試されているのです。

ゴーギャンが脱ぎ捨てようとした文明は、文明の利器などの物質ではありません。
文明によって、自分という命が見えなくなっていることに危機感を覚えたのです。
これはコロナ禍にあるわれわれにも当てはまることです。

『私たちはどこから来たのか 私たちは何者か・・・』はコロナも取り上げてますがそれは少しで、ほか次々と考える材料を提供してくれる力作です。
しかし突っ込みが浅くスピードが早すぎて物足りなくなるかもしれません。その時はあらためて自分で勉強してみるといいでしょう。
たぶんそれこそが本書の狙い。よろこんで罠にはまりましょう。

【参考】

我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか - Wikipedia

D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ? at DuckDuckGo画像検索

【追記】

実は似たような本が同時期に発行されております。
福岡伸一、伊藤亜紗、藤原辰史『ポストコロナの生命哲学』集英社新書

コロナ後の生命哲学を構築する必要を、これもまた三人で鼎談しております。
新書なのでライトですが、誰にでも読める本となっております。

2021年10月3日日曜日

新型コロナ、現状の把握2

含みを持たせると分かりにくくなるので、今回も断定調。
様々な意見があってしかるべきだが、多くの人が危険な方へ向かっている気がしている。
言いにくいことだらけだが、書くことにした。
分断を煽るのは本意ではない。


「コロナはおそらくただの風邪」

現在はこの認識。著しい重症化率、致死率ではない。しかし新しいのでどうしても高齢者は弱い。
「ただの風邪」の上下どのくらいの振れ幅なのかは気にしている。
2020年初頭から気にしてきたが、新型コロナが際立って毒性が高いとは思えない。

「風邪は万病の元」なので、通常の風邪でも重症化する人は一定数いる。また普通の風邪であっても、経過のさせ方が悪い人は予後も様々な体調不良が続く。これは今までの医療では捕捉されていない問題。なので比較が出来ないのだ。私は風邪を観察してきたので「コロナ後遺症」は「風邪後遺症」に過ぎないと見る。

インフルエンザとの比較では、若年層はインフルエンザのほうが重症化しやすい。

コロナ以外が原因で亡くなっても、コロナに感染していると、死因がコロナになっているのはおかしい。

総合的に判断すると、「ただの風邪ではない、コロナは怖い病気」とする積極的な根拠が見当たらない。

以下はいずれも厚労省HPからダウンロード出来るPDF。

 新型コロナウイルス感染症 の“いま”についての 10 の知識
  https://www.mhlw.go.jp/content/000788485.pdf

 (修正)【資料3-1】鈴木先生提出資料
  https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000662183.pdf


「ワクチンは打たないほうが良い」

基礎疾患のある人は個々人の判断でいい。
すでに打った人でも、3回目を打つ必要はない。
何度も打っていたら、いつか死ぬ。

コロナワクチン 副反応データベース検索
 https://covid-vaccine.jp/
 定かではないが、集団接種のデータは入ってない模様。

大阪 コロナ感染の10代男性死亡 “10代の死亡例は報告ない” | 新型コロナウイルス | NHKニュース
 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210908/k10013249831000.html
 2021.9.8 コロナウィルスによる日本で初めての10代の死亡が大きく報道された。

 しかしその前にワクチン接種で16歳の男性が亡くなっていたことは報道されていない。こうしたことがあると、ワクチンの怖さをマスコミも含めてみんなで隠しているんじゃないかと疑ってしまう。仮りに隠していないにしても、自分で調べるしかないと思わされる。

厚労省 000838210.pdf
 https://www.mhlw.go.jp/content/10601000/000838210.pdf#page=846
 2021.8.16 オリンピックの最中、ワクチン接種後に16歳男性が死亡。
 (接種後6日、心停止)


「みんながワクチンを打っても集団免疫は獲得されない」

諸外国の先例からして、集団免疫が確立しないことは明白。


「ワクチンパスポートで感染拡大」

ワクチン接種者も相当数が感染すると分かってきたので、パスポート施策は感染拡大を助長するだけ。


「超過死亡とワクチン」

ワクチン死の因果関係は判定が難しいと思う。一般に薬はみなそうだ。
補償問題になるからということもある。
しかしこれは大事な問題なので、推計でもいいから把握しておきたい。
超過死亡から推計しているサイトは他にもあったが、以下のサイトはとても丁寧な計算をされている。非常にありがたい。

異常な超過死亡とその原因 ~人口動態統計の分析~
 https://note.com/info_shinkoro/n/nc9b6eed433de


「起こりうる危険は学ぶべき」

ワクチン打たない⇒非常識⇒ダメ
といった図式は一旦置いといて、打つ人は打たない人よりも学んでおく必要がある。
往々にして打つ人は副反応について調べていない。
(打つならリスクを見据えてからにしてほしいと願う)

数々の副反応がなぜ起こっているのか、気にはならないだろうか?
以下のサイトは非常に丁寧に説明されている。

荒川央 (あらかわ ひろし)|note
 https://note.com/hiroshi_arakawa


「パンデミックもコロナ禍も来てない」

自分の周囲で多くの人々が亡くなるならパンデミック、もしくはコロナ禍と言える。
そんな事態は起こっていない。
世界中の人が風邪を引いたからといって、それをパンデミックとは言わない。

しかしながら、仕事がなくなった人、売上が下がった人、家族の最期に会えなかった人、こうした人はいくらでもいる。こうなってくると「コロナ禍」は虚言妄言の扇動用語に過ぎず、政府・分科会・御用学者がオオカミ少年に見えてくる。


「人々の認識が変わらないかぎり終わらない」

コロナの終息は来ない。コロナウィルスがいなくなることもない。
自分が自然界の生き物であることを見つめ直すべき。


「なにがどうなれば終息なのか」

諸外国には、日本の感染状況に危機感を覚えない人も多い。
立ち位置を変えれば、危機感を覚えない。自らの立ち位置を動かして、より正しい場所に立たなければならない。


「スーパー耐性菌同様、スーパーコロナウィルスが出現する」

抗生剤の乱用でスーパー耐性菌が出現した。あらゆる抗生物質が効かないのだ。
コロナワクチンは短期間のうちに大量接種されている。前代未聞の事態だ。スーパーコロナウィルスが出現する可能性が増えるばかり。
集団免疫が確立されないことが分かった以上、ワクチンは必要な人に絞るべきだ。


「新たな遺伝子ワクチンも受け入れてしまう」

今後多くの遺伝子ワクチンが開発されることが予想される。
HIVの遺伝子ワクチンも開発が進められている。
いずれ“問い”を立てることも忘れてしまうだろう。


「遺伝子書き換えワクチンも受け入れてしまう」

遺伝子組み換え大豆は食べないが、遺伝子ワクチンは受け入れてしまうのはどうしてか。
遺伝子ワクチンは人間のDNAを書き換えないとされている。
もしも書き換えてくれたなら、ワクチンを何度も打たなくて済む。
遺伝子書き換えワクチンが開発されれば、打つのが正しいと思うようになるだろう。
そしてワクチンである必要もなく、全ての病気、未病のものも含め、「遺伝子書き換え薬」が開発され、投与されるようになるだろう。


「デザイナーベビーは反対だが・・・」

世界的に禁止の空気はあるが、遺伝子操作された赤ちゃんが生まれたことは周知の通り。
後天的に操作することは、今後どうなるのだろうか。現在進行形で人々の認識が変わってきている。


「歯止めは自分で用意する」

人間にとってなにが正しいのか、判断するのは政府ではないし、製薬会社でもない。個々人にかかっている。
私は遺伝子ワクチンは、人間にとって極めて危険な一歩と思っている。
なので私は使いたくない。新型コロナの病原性ならそもそも不要と判断する。
そしてどういった事態になったなら使うべきなのか、自問自答している。


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