2019年12月5日木曜日

磯谷整体 東京室物語 〜和可菜のころ〜 その6 最終回

和可菜の玄関には黒猫がいる。
神楽坂には理科大があり、そこに妻の曽祖父菱田為吉さんの木彫細工がある。
・・・・・

和可菜での整体は、井本整体福岡講座のFさんに始まり、Oさんによって立処をただされ、妻との縁まで知らされるような様相を呈しておりました。
人生の正解というのはわかりませんが、知らず知らずに縁に囲まれているこの状況を正解と感じ、感謝の念がわいてきます。

Fさんはその後も東京に来たときに和可菜を利用されておりました。
そんなある時、
「そういえば主人の実家が買った家は、昔大女優が住んでた家だって言ってた気がします…」
その家は下関。まさかそんなことが…。
「今度よく聞いておいてもらえますか?」
「帰ったら聞いておきます。」

それはそのまさかでした。
その家は和可菜の女将さんの生家であり、実姉の木暮実千代さんが育った家。女将さんは生まれる前からの約束で生まれてすぐに本家に引き取られて上京し、木暮さんは長じて上京し、妹と人生を重ねることとなりました。
思えばFさんの行動力にリードされてはじまった和可菜でした。そのFさんは実はわたしよりも先に和可菜との縁をもっていたのです。もう少しつけくわえますと、Fさんのお住いは山口県で、女将さんの生家の近く(下関市)と小野田で、親の代から整体をされております。もしかするともっともっと沢山の縁で結ばれているのかもしれません。

それにしても……、そんな偶然があるのだろうかと、不思議でなりませんでした。


そして数年…………。


2015年。和可菜での日々に終わりを告げるときがきました。
女将さんも九十を遠に過ぎ、年内閉館を知らされます。
ご年齢からすればお元気でしたが、整体を受けるために階段を昇り降りする姿に不安を覚えはじめて久しい頃でした。

さて、どうしたらよいか。
もう東京室は無理かもしれない…。
和可菜と同じモチベーションを保てるだろうか…。
和可菜への頼り根性に気づかされます。
それでも行動しないわけにはいきません。
和可菜から自立するためにも、
次をしっかり見据えなくてはなりません。

和可菜を探した頃のように、いくつかの旅館に問い合わせました。
そして交渉成立したのが、今の鳳明館です。
今度は東京大学の近く。
和可菜は理科大のそば、今度は東大のそば……。
再び菱田家に守られている気がしてきました。
(菱田唯蔵:妻の曽祖父菱田為吉の弟、東京帝国大学教授)


和可菜閉館予定を知らされてすぐのころ、日本画家さんが整体に訪れ、後々春草の話でひとしきり盛り上がることとなりました。
最後の月には小説を書く学生が訪れました。ここが和可菜だから、というのが理由のひとつだったようです。旧知の友のごとく感じられる学生で、その後よく飲みに行くことになります。
最後の二ヶ月に和可菜で整体をした、という証を二人からいただき、わたしは"おしまい"を噛み締めていました。


いよいよ本当に和可菜の時間が終わりの日。
女将さんと最後の挨拶を交わしました。
おそらくわたしが最後の常客だったと思います。最後の一、二年は訪れるたびに帰りは居間に通され、お茶をしながらしばし歓談させていただきました。
女将さんにはいくつか定番のお話があり、いつも楽しそうに話されておりました。戦争中、落ちてきた爆弾のとある場所を押さえて爆発を止めた、というお話もそのひとつでした。そんなことが本当に出来るのかどうかは知りません。不発弾が転がってきたのでしょうか。どちらでもいいのですが、女将さんの大胆さと自由さがよく表れているエピソードです。何度聞いても楽しいもので、わたしはよく誘い水を出しました。この日もそんな定番のお話のいくつかを話されておりました。

そして別れのとき、女将さんが涙を流されました。
たいへん身勝手で不謹慎ですが、わたしはそれをうれしく思ったのでした。
わたしは確かにここにいた。和可菜にいた。
女将さんもそう思って下っていたのがうれしかったのです。
なにしろここは"ホン書き旅館"。
作家先生こそが認められる場所。
そんな場所で、わたしの存在も女将さんの中に残されていることは光栄のいたりでした。
涙を流す女将さんを見つめながら、厳かな緊張に包まれている自分を知るのでした。


ーーーーーー後記ーーーーーー
九月頃から、この原稿を書いては捨て、書いては捨てを繰り返しておりました。
いろいろな縁が絡み合っているので、人に分かるように説明するのが大変だったのです。
自分の筆力では限界だな、と半ばあきらめて、一応分かるかな、というところでUPしました。
繰り返しが多かったり、無駄な話が多いですがご容赦下さい。
菱田家の話が多くて、和可菜の話や患者さんの話が意外と少なくなってしまいました。他人のことをたくさん書くのがためらわれたのと、菱田家の話は美術史上で周知の事実が多いので、書きやすかったのです。

とにかく書き上げよう、と思った理由はもう一つあります。
九月に女将(和田敏子)さんが亡くなりました。96歳でした。
昨年七月にお見舞いに伺ったのが最後となってしまいました。
伝え聞いたところによると、最後まで大きな病気もせず、まわりに大きな迷惑をかけることもなく亡くなられたそうです。

    謹んでお悔やみ申し上げます。
    和可菜で整体をさせていただき、本当にありがとうございました。

現在、磯谷整体 東京室は、文京区本郷の「旅館 鳳明館」となりました。
奇遇なことに、女将さんのお墓はここから歩いていけるところでした。
また女将さんが近くにいらっしゃる、心強く感ずる次第です。

鳳明館でも、もちろん柏室でも、沢山の方々の人生を感じられるよう、尽力してまいります。

2019年12月2日月曜日

磯谷整体 東京室物語 〜和可菜のころ〜 その5

神楽坂に通い始めて数ヶ月たったころ、近くに東京理科大があることを知りました。
そこに近代科学資料館なる建物があり、菱田為吉さん製作の多面体木彫細工が常設されていることを合わせて知ります。
妻の曽祖父の為吉さんは手先が器用だったようで、20センチ角くらいの木材から多面体を沢山彫り出されたのです。知る人は知っている代物のようで、ネット上で取り上げている方が少なからずおります。

ある日妻と娘と三人で訪ねました。お参りのような心境です。
小さな資料館にもかかわらず、多面体細工をはじめ、為吉さんの資料がたくさん展示されていることに驚かされます。
この近代科学資料館は理科大の前身である東京物理学校の外観を復元した建物であり、為吉さんが通い、講師をつとめた時代のものであったので、その時代の象徴として為吉さんを取り上げているのかもしれません。

妻によれば、菱田家は親戚はもちろん兄弟さえ付き合いが途絶えていたようですが、ひとつだけ父親が懇意にしていた親戚があり、妻もそこだけは訪ねたことがあったようです。
展示資料の中に縁側で多面体を彫り出している為吉さんの写真がありました。それは妻がわずかに記憶する親戚の家だったようです。じっと見入る妻の胸に去来するものはわかりませんが、記憶をたぐりながら思いを馳せているようでした。

菱田家は優秀な一族であったようですが、残念ながら妻には受け継がれなかったようです。本人が言ってますので書いても怒られないと思います(笑)。子供の頃に妻の成績を見たお母さんは、ちょっとびっくりしてたようです。お母さんの家系も優秀だったらしく、勉強しなくてもできるのが当然と思っていたのでしょう。

義父の死後、伯母(義父の妹)さんらと食事をしたときのことも印象的でした。
二歳にして器用に箸を使うわが娘を見て、伯母さんは本気で心配し始めました。なにがそんなに心配なのか?と妻を驚かせたその理由は、『菱田家は器用貧乏だ。この子もそうなってしまうのじゃないか。』というものでした。
そういえば義父は文系ですが、遺品に自作スピーカーがあったり、若い頃は真空管とブラウン管を買ってきてテレビを作ったと話しておりました。
そしてわが娘、箸と自転車は早くからこなしてましたが、それ以外に器用さを発揮することなく中学生になりました。一安心です(笑)。


妻の縁に導かれたような話をもうひとつ。
わたしは千葉県松戸市で育ち、門下生修了とともに実家の最寄り駅「南柏」の近くに戻りました。
このあたりは松戸市・柏市・流山市が入り組んでいるところで、一日の中でその三市を行き来する人も珍しくありません。ローカルな話をすれば、国道6号もしくは旧水戸街道を北小金あたりから南柏まで通れば三市にまたがります。総称して東葛飾と呼ばれる地域です。
戻って最初に住んだのが流山市、操法室を借りたのが柏市、その後実家が松戸市から流山市に引っ越しました。
実家が引っ越して後、流山と菱田春草の縁を知ることとなります。

流山市は東葛地域で一番ローカルな印象を持たれておりますが、じつはかつては栄えたところ。なんと最初の県庁所在地です。正確には葛飾県・印旛県の県庁。明治維新とともに下総国舟戸藩主の本多家屋敷が県役所として使用されました。
江戸時代から利根川と江戸川の舟運を活かして遠くは東北からの年貢米が揚げられ、流山周辺で作った醤油やみりんを江戸に運んで栄えておりました。その流れで、明治期のこの地域にはいくつかの富商がありました。しかしやがて舟運の時代は終わり、この地域は斜陽をむかえます。

流山電鉄という鉄道マニアに支持される単線のローカル鉄道がありました。いえ失礼、現在もあります。乗ってみればわかりますが、東京からほどない距離にもかかわらず、ちょっとした時間旅行気分を味わえます。終点で降りると「近藤勇終焉の地」とありますが、それを盛り上げる雰囲気が皆無なため、ローカル感を後押しします。

東京ー千葉ー茨城を結ぶ常磐線。これは流山に敷かれるはずでしたが、舟運業者たちの猛反対にあったようです。なんと愚かな(笑)。もしも流山に常磐線が通っていたなら、東葛地域のバランスは今とは全く違ったものになっていたでしょう。つくばエクスプレスは存在しない、あるいは松戸側を通っていたかもしれません。日本最初の団地「光ケ丘団地」も、柏市でなく流山に建設されていたかもしれません。しかし常磐線が通らなかったからこそ、流山には昔の面影が残されました。

秋元家は江戸時代に酒造業を興し、のちにみりん業でさらなる財を成しました。江戸期には小林一茶と親交を深めた秋元双樹がおり、文化・芸術へ支援を重ねてきた家系です。
隆盛期の最後をつとめた秋元洒汀も同様に文学をたしなみ、文化・芸術への支援をされておりました。その一人が菱田春草です。代表作となった『黒き猫』も『落葉』も完成と同時に洒汀が買い取ったため、どちらもはじめは流山市にあったのです。その後細川護立のもとへ引き取られ、管理団体の永青文庫に収蔵され、どちらも国の重要文化財となります。

和可菜で整体を始めて翌年あたり、秋元家で春草の手紙を公開しておりました。秋元家は現在秋元由美子(画家)さんに継がれ、建物の一部は市に寄贈されました。その寄贈された建物内で、ある年手紙が公開されており、家族三人で観に行きました。
秋元さんはわたしたち(正確には妻と娘でしょうね)の訪問を大変喜んでくださいました。そして妻と娘を見つめながら、そこに春草の面影を見出そうとされているようでした。人というのは、亡くなってからも誰かの中にありありと生き続けるものですね。妻とその一族は、わたしの中でますます存在感を増すのでした。
手紙の中に弟唯蔵さんのお礼状がありました。春草への支援を感謝する手紙です。ふつう弟が兄のことでお礼状を書かないだろうと思いますので、兄弟の愛情と信頼を感じさせるものとして、わたしの中にのこりました。

そういえば妻のお母さんが亡くなる数日前、病床から無理して起き上がるようにしながら、
「みんな仲良くね」と再三仰ってました。
その場にいたのは妻のお父さんと妻のお姉さん、妻、私。いろいろあったのだろうと思わされたのでした。

(その6につづく)

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