2013年11月13日水曜日

昨日までの子育て

原始社会ではどんな子育てをしていたのだろう?
そんな興味がある。
人間本来の成長には何が必要なのだろうか?という疑問に応えてくれる気がするのです。
さて原始社会における子育てに、そのヒントはあるのでしょうか。


ジャレド・ダイアモンドの『昨日までの世界』を読みながら、原始社会の子育てと文明社会の子育てについていろいろ考えさせられました。


結論から言うと、原始社会も文明社会も子育てに差はないと思いいたりました。
もちろん具体的手法は違いますが、つまるところ社会の要求に沿うよう育てられ、その育てられ方が次世代の社会を作り上げているのです。

ただし大きな違いがあります。
原始社会における社会の変遷が緩やかであるのに対し、文明社会における変遷は加速する一方だという点です。
価値観の多様化も同様に挙げられます。
右肩上がりの経済成長だけを経験してきた世代、バブル世代、バブル後の世代、それぞれ親の価値観には大きな差があります。
豊富な子育て商品に囲まれる現状は”おばあちゃんの知恵”などと言っても通用しない現実があります。

例えば赤ちゃんが鼻水を詰まらせる。親が口で吸えばいいのです。しかし鼻にチューブを入れて吸い出す商品があります。赤ちゃんの身になってほしい、得体の知れない行為ではないか。
とそんなことを思いましても「感染症が、、、」と言われればそれも一理あり、「汚い」と言われればもう二の句がつげなくなります。


どの時代が正当か
という議論が意味を無くすほど、世の中が様変わりしてゆく
現代に乗る人もいれば、乗らない人もいる、
傍観者となり蚊帳の外の世界を築く人もいる、、、

世代間のギャップは子育て中の親子の中にさえ始まっている
親が基準としている現代と
子育て後の将来と
それが同じものだという保証もない

だからといって
これからの時代に沿う方向も見えにくい
誰もがそう思っているのではないでしょうか?


残念ながら解決策は提供できませんが、
そうした現実を脇に置き、よりシンプルな子育てを時には見つめてみるのはどうでしょうか?
本の中から面白かったところを抜粋いたします。


パプアニューギニアのニューブリテン島。カウロン族の子どもたちの遊び。
子どもたちの前に一房のバナナが置かれる。十分な数がある。
それぞれが一本を取り、半分を食べ、半分を誰かにあげる。
相手も半分を食べ、半分を返す。
もらった半分を更に半分に分け、互いに同じことを繰り返す。
このやりとりを分けられなくなるまで繰り返します。

狩猟採集民の社会では、平等が尊ばれます。
これは人間性とか品性といった内面の問題よりも、生活実態を知る必要があります。
余剰食料のない社会では富を集約できません。余ってないのですから現実問題として不可能なのです。誰かが余分に手にすれば誰かが足りなくなるため、社会の安定が保てないのです。
つまりカウロン族の子どもたちは、遊びの中で社会の均衡を保つための規範を学んでいるのです。

異年齢集団における遊び
人数的に小規模の社会では、必然的に広い年齢層の子供が一緒になって遊びます。上の子は下の子の面倒を見るため、結果として子供が子育てを学んでいることになります。

これは日本にも当てはまる話ですね。田舎と都会、近代から現代、遊びにおける異年齢集団と同年齢集団は教育上どのような効果があるか、様々な意見が聞かれます。異年齢集団ではの原理が発達しにくいのですが、同年齢集団では”競争と勝ち負け”の原理を身につけていきます。
教育上どちらが優れているかを問うよりも、教育後の世界がどうであるか?を問う必要があります。

本書では、幼少の頃から子育てを学んでいた少女が、14歳にして立派な母親足り得ている事実と結び付けられて論じられております。
文明社会において、母親の自覚が芽生えない女性が増えているとするなら、異年齢集団を見つめ直す価値があると思います。

ごっこ遊び
これはそのままです。
狩猟採集民は狩猟を模した遊びを行います。

『昨日までの世界(上)』より


最後に平等社会について今一度。
狩猟採集民が平等を学ぶのは、それが社会に沿う能力だからです。
つまり個人が生き抜くための能力です。
そしてもう一つ、それが社会の安定を保つ力のある大人へと続いているからなのです。
つまり公を生かす能力なのです。

翻って私達はどうでしょうか?
子供に生きてゆく力を教育するときに、それが公の力となり得るのか、考えたことがあるでしょうか?


大規模社会は平等のみでは成立しません。
公益となるように労働が集約する必要があり、そのためには富も権利も集約するところが必要になります。
社会の不平等、不均衡を不条理なものと感じることもありますが、これも環境が求めたものであり、人間の生み出した知恵なのです。同時に悪用もできる厄介なものです。

地球史上例のない大規模社会と言える現代、競争原理と不平等は社会の不安定も沢山生み出すのですから困ったものです。

だいぶ話がそれましたね。
ついでにもう一つ、ブッシュマンのエピソードを添えて終わりにします。
獲物をしとめたハンターは控えめな態度をとるのがふつうである。キャンプに戻っても、たずねられるまで答えない。翌日みんなで獲物を取りに(運びに:磯谷注)いっても、まったく称賛の声は聞かれない。それどころか、みんなで獲物が小さすぎるとか、遠くまで歩かされたとか、口々に苦情を述べるのである。ハンター自身も自分の獲物が取るに足らないものであることを認め、申し訳なさそうな態度をとったりする。これはむろんジョークである。ブッシュマンたちは肉を平等に分配し、その幸福を存分に味わうわけであるから、ハンターの仲間に対する貢献は高く評価している。しかし、そこで獲物をしとめたハンターが威信を集めないように、節度ある振る舞いを要求するのである。
(『暴力はどこからきたか』 p211:山極寿一)

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