2019年12月5日木曜日

磯谷整体 東京室物語 〜和可菜のころ〜 その6 最終回

和可菜の玄関には黒猫がいる。
神楽坂には理科大があり、そこに妻の曽祖父菱田為吉さんの木彫細工がある。
・・・・・

和可菜での整体は、井本整体福岡講座のFさんに始まり、Oさんによって立処をただされ、妻との縁まで知らされるような様相を呈しておりました。
人生の正解というのはわかりませんが、知らず知らずに縁に囲まれているこの状況を正解と感じ、感謝の念がわいてきます。

Fさんはその後も東京に来たときに和可菜を利用されておりました。
そんなある時、
「そういえば主人の実家が買った家は、昔大女優が住んでた家だって言ってた気がします…」
その家は下関。まさかそんなことが…。
「今度よく聞いておいてもらえますか?」
「帰ったら聞いておきます。」

それはそのまさかでした。
その家は和可菜の女将さんの生家であり、実姉の木暮実千代さんが育った家。女将さんは生まれる前からの約束で生まれてすぐに本家に引き取られて上京し、木暮さんは長じて上京し、妹と人生を重ねることとなりました。
思えばFさんの行動力にリードされてはじまった和可菜でした。そのFさんは実はわたしよりも先に和可菜との縁をもっていたのです。もう少しつけくわえますと、Fさんのお住いは山口県で、女将さんの生家の近く(下関市)と小野田で、親の代から整体をされております。もしかするともっともっと沢山の縁で結ばれているのかもしれません。

それにしても……、そんな偶然があるのだろうかと、不思議でなりませんでした。


そして数年…………。


2015年。和可菜での日々に終わりを告げるときがきました。
女将さんも九十を遠に過ぎ、年内閉館を知らされます。
ご年齢からすればお元気でしたが、整体を受けるために階段を昇り降りする姿に不安を覚えはじめて久しい頃でした。

さて、どうしたらよいか。
もう東京室は無理かもしれない…。
和可菜と同じモチベーションを保てるだろうか…。
和可菜への頼り根性に気づかされます。
それでも行動しないわけにはいきません。
和可菜から自立するためにも、
次をしっかり見据えなくてはなりません。

和可菜を探した頃のように、いくつかの旅館に問い合わせました。
そして交渉成立したのが、今の鳳明館です。
今度は東京大学の近く。
和可菜は理科大のそば、今度は東大のそば……。
再び菱田家に守られている気がしてきました。
(菱田唯蔵:妻の曽祖父菱田為吉の弟、東京帝国大学教授)


和可菜閉館予定を知らされてすぐのころ、日本画家さんが整体に訪れ、後々春草の話でひとしきり盛り上がることとなりました。
最後の月には小説を書く学生が訪れました。ここが和可菜だから、というのが理由のひとつだったようです。旧知の友のごとく感じられる学生で、その後よく飲みに行くことになります。
最後の二ヶ月に和可菜で整体をした、という証を二人からいただき、わたしは"おしまい"を噛み締めていました。


いよいよ本当に和可菜の時間が終わりの日。
女将さんと最後の挨拶を交わしました。
おそらくわたしが最後の常客だったと思います。最後の一、二年は訪れるたびに帰りは居間に通され、お茶をしながらしばし歓談させていただきました。
女将さんにはいくつか定番のお話があり、いつも楽しそうに話されておりました。戦争中、落ちてきた爆弾のとある場所を押さえて爆発を止めた、というお話もそのひとつでした。そんなことが本当に出来るのかどうかは知りません。不発弾が転がってきたのでしょうか。どちらでもいいのですが、女将さんの大胆さと自由さがよく表れているエピソードです。何度聞いても楽しいもので、わたしはよく誘い水を出しました。この日もそんな定番のお話のいくつかを話されておりました。

そして別れのとき、女将さんが涙を流されました。
たいへん身勝手で不謹慎ですが、わたしはそれをうれしく思ったのでした。
わたしは確かにここにいた。和可菜にいた。
女将さんもそう思って下っていたのがうれしかったのです。
なにしろここは"ホン書き旅館"。
作家先生こそが認められる場所。
そんな場所で、わたしの存在も女将さんの中に残されていることは光栄のいたりでした。
涙を流す女将さんを見つめながら、厳かな緊張に包まれている自分を知るのでした。


ーーーーーー後記ーーーーーー
九月頃から、この原稿を書いては捨て、書いては捨てを繰り返しておりました。
いろいろな縁が絡み合っているので、人に分かるように説明するのが大変だったのです。
自分の筆力では限界だな、と半ばあきらめて、一応分かるかな、というところでUPしました。
繰り返しが多かったり、無駄な話が多いですがご容赦下さい。
菱田家の話が多くて、和可菜の話や患者さんの話が意外と少なくなってしまいました。他人のことをたくさん書くのがためらわれたのと、菱田家の話は美術史上で周知の事実が多いので、書きやすかったのです。

とにかく書き上げよう、と思った理由はもう一つあります。
九月に女将(和田敏子)さんが亡くなりました。96歳でした。
昨年七月にお見舞いに伺ったのが最後となってしまいました。
伝え聞いたところによると、最後まで大きな病気もせず、まわりに大きな迷惑をかけることもなく亡くなられたそうです。

    謹んでお悔やみ申し上げます。
    和可菜で整体をさせていただき、本当にありがとうございました。

現在、磯谷整体 東京室は、文京区本郷の「旅館 鳳明館」となりました。
奇遇なことに、女将さんのお墓はここから歩いていけるところでした。
また女将さんが近くにいらっしゃる、心強く感ずる次第です。

鳳明館でも、もちろん柏室でも、沢山の方々の人生を感じられるよう、尽力してまいります。

2019年12月2日月曜日

磯谷整体 東京室物語 〜和可菜のころ〜 その5

神楽坂に通い始めて数ヶ月たったころ、近くに東京理科大があることを知りました。
そこに近代科学資料館なる建物があり、菱田為吉さん製作の多面体木彫細工が常設されていることを合わせて知ります。
妻の曽祖父の為吉さんは手先が器用だったようで、20センチ角くらいの木材から多面体を沢山彫り出されたのです。知る人は知っている代物のようで、ネット上で取り上げている方が少なからずおります。

ある日妻と娘と三人で訪ねました。お参りのような心境です。
小さな資料館にもかかわらず、多面体細工をはじめ、為吉さんの資料がたくさん展示されていることに驚かされます。
この近代科学資料館は理科大の前身である東京物理学校の外観を復元した建物であり、為吉さんが通い、講師をつとめた時代のものであったので、その時代の象徴として為吉さんを取り上げているのかもしれません。

妻によれば、菱田家は親戚はもちろん兄弟さえ付き合いが途絶えていたようですが、ひとつだけ父親が懇意にしていた親戚があり、妻もそこだけは訪ねたことがあったようです。
展示資料の中に縁側で多面体を彫り出している為吉さんの写真がありました。それは妻がわずかに記憶する親戚の家だったようです。じっと見入る妻の胸に去来するものはわかりませんが、記憶をたぐりながら思いを馳せているようでした。

菱田家は優秀な一族であったようですが、残念ながら妻には受け継がれなかったようです。本人が言ってますので書いても怒られないと思います(笑)。子供の頃に妻の成績を見たお母さんは、ちょっとびっくりしてたようです。お母さんの家系も優秀だったらしく、勉強しなくてもできるのが当然と思っていたのでしょう。

義父の死後、伯母(義父の妹)さんらと食事をしたときのことも印象的でした。
二歳にして器用に箸を使うわが娘を見て、伯母さんは本気で心配し始めました。なにがそんなに心配なのか?と妻を驚かせたその理由は、『菱田家は器用貧乏だ。この子もそうなってしまうのじゃないか。』というものでした。
そういえば義父は文系ですが、遺品に自作スピーカーがあったり、若い頃は真空管とブラウン管を買ってきてテレビを作ったと話しておりました。
そしてわが娘、箸と自転車は早くからこなしてましたが、それ以外に器用さを発揮することなく中学生になりました。一安心です(笑)。


妻の縁に導かれたような話をもうひとつ。
わたしは千葉県松戸市で育ち、門下生修了とともに実家の最寄り駅「南柏」の近くに戻りました。
このあたりは松戸市・柏市・流山市が入り組んでいるところで、一日の中でその三市を行き来する人も珍しくありません。ローカルな話をすれば、国道6号もしくは旧水戸街道を北小金あたりから南柏まで通れば三市にまたがります。総称して東葛飾と呼ばれる地域です。
戻って最初に住んだのが流山市、操法室を借りたのが柏市、その後実家が松戸市から流山市に引っ越しました。
実家が引っ越して後、流山と菱田春草の縁を知ることとなります。

流山市は東葛地域で一番ローカルな印象を持たれておりますが、じつはかつては栄えたところ。なんと最初の県庁所在地です。正確には葛飾県・印旛県の県庁。明治維新とともに下総国舟戸藩主の本多家屋敷が県役所として使用されました。
江戸時代から利根川と江戸川の舟運を活かして遠くは東北からの年貢米が揚げられ、流山周辺で作った醤油やみりんを江戸に運んで栄えておりました。その流れで、明治期のこの地域にはいくつかの富商がありました。しかしやがて舟運の時代は終わり、この地域は斜陽をむかえます。

流山電鉄という鉄道マニアに支持される単線のローカル鉄道がありました。いえ失礼、現在もあります。乗ってみればわかりますが、東京からほどない距離にもかかわらず、ちょっとした時間旅行気分を味わえます。終点で降りると「近藤勇終焉の地」とありますが、それを盛り上げる雰囲気が皆無なため、ローカル感を後押しします。

東京ー千葉ー茨城を結ぶ常磐線。これは流山に敷かれるはずでしたが、舟運業者たちの猛反対にあったようです。なんと愚かな(笑)。もしも流山に常磐線が通っていたなら、東葛地域のバランスは今とは全く違ったものになっていたでしょう。つくばエクスプレスは存在しない、あるいは松戸側を通っていたかもしれません。日本最初の団地「光ケ丘団地」も、柏市でなく流山に建設されていたかもしれません。しかし常磐線が通らなかったからこそ、流山には昔の面影が残されました。

秋元家は江戸時代に酒造業を興し、のちにみりん業でさらなる財を成しました。江戸期には小林一茶と親交を深めた秋元双樹がおり、文化・芸術へ支援を重ねてきた家系です。
隆盛期の最後をつとめた秋元洒汀も同様に文学をたしなみ、文化・芸術への支援をされておりました。その一人が菱田春草です。代表作となった『黒き猫』も『落葉』も完成と同時に洒汀が買い取ったため、どちらもはじめは流山市にあったのです。その後細川護立のもとへ引き取られ、管理団体の永青文庫に収蔵され、どちらも国の重要文化財となります。

和可菜で整体を始めて翌年あたり、秋元家で春草の手紙を公開しておりました。秋元家は現在秋元由美子(画家)さんに継がれ、建物の一部は市に寄贈されました。その寄贈された建物内で、ある年手紙が公開されており、家族三人で観に行きました。
秋元さんはわたしたち(正確には妻と娘でしょうね)の訪問を大変喜んでくださいました。そして妻と娘を見つめながら、そこに春草の面影を見出そうとされているようでした。人というのは、亡くなってからも誰かの中にありありと生き続けるものですね。妻とその一族は、わたしの中でますます存在感を増すのでした。
手紙の中に弟唯蔵さんのお礼状がありました。春草への支援を感謝する手紙です。ふつう弟が兄のことでお礼状を書かないだろうと思いますので、兄弟の愛情と信頼を感じさせるものとして、わたしの中にのこりました。

そういえば妻のお母さんが亡くなる数日前、病床から無理して起き上がるようにしながら、
「みんな仲良くね」と再三仰ってました。
その場にいたのは妻のお父さんと妻のお姉さん、妻、私。いろいろあったのだろうと思わされたのでした。

(その6につづく)

2019年11月28日木曜日

磯谷整体 東京室物語 〜和可菜のころ〜 その4

和可菜初日。
二人診ておしまい。
赤字ではないが黒字とは言えない。
そんなことより…、
自分はいま和可菜にいる。
心の中でなんどでもかみしめる。

すっかり陶酔してるところへ、
興味をもったお手伝いの方が整体を受けに来た。
整体が終わって帳場の奥に戻られた。
どんな感想を持たれたのかはわからない。
話を聞いた別の方がまた整体を受けに…
その話を聞いた方、たまたま女将さんを訪ねて来られた方が整体に…

こうして和可菜初日は、わたしの不安を忘れさせてくれるものとなったのでした。
しかし女将さんに会ってない。
女将さんに会えなければ、"和可菜に来た"のマイヒストリーは始まりません。


和可菜二日目。
女将さんが整体を受けに来られました。
「この間はうちのものがお世話になりました。」
最初に丁寧なご挨拶をいただき操法しました。

すでに八十も後半でしたが、呼吸に力がありました。幼少期は弱かったとのことですが、ていねいに体を使ってこられた跡がありました。
はっきりとした物言い、打てば響くような返事の早さ、なんとも爽快な方でした。
これ以降、和可菜閉館まで診させていただきました。
途中股関節を壊したときは時間がかかりましたが、しっかり回復されました。

「危ない」ということもありました。
わたしがそう感じただけですが、極端に力が衰えたことがあり、
「危ないです」と伝えたことがありました。
二日くらいは元気がなくなったようですが、その後また元気になりました。
「危ない」と言われたことで、いろいろ思い直しふっ切れたと仰ってました。
人の「生きる力」とは不思議なものです。


Oさんは和可菜で整体を始めて間もない頃にいらっしゃいました。
紹介なしでやってきた初めての患者さんです。
ホームページを読んで興味を持たれたとのこと。あまり話さないご婦人でしたが、よくホームページを読んで下さっているのがわかり、こちらもうれしくなりました。
きれいな背骨をしていて弾力もありましたが、少し過敏なものがありました。
上胸部の抜けたところに古い問題が感じられ、解消するのに数年かかりました。

Oさんがいらした次の和可菜の日、神楽坂に住むというOさんの妹さん夫婦が来室されました
妹さんの姓はFさん。そう、福岡講座のFさんと一緒。名が妻と一緒。ついでに言えば年がわたしと一緒でした。
和可菜への道筋をつけてくれた福岡のFさんと同姓。このことがわたしを勇気づけました。
名前が符合したからといって特別意味を感じない方ですが、不安を抱えて始めた東京室だったので、この始まりの時期にFさんの名前は特別な力を与えてくれるのでした。

引き続きOさんのお母さん、息子さんが来室され、和可菜で整体を始めたことに迷いが消えていきました。
えらく優秀な体の若者だな、と思ったら息子さんは東京大学で物理を学んでいる学生でした。大学で鳥人間コンテストの活動をしているとかで、その後設計を担当されたりしておりました。これは唯蔵さんのご縁かな、とあとで思ったものです。
(菱田唯蔵:東京帝国大学教授 航空工学博士 菱田春草の弟 妻の曽祖父菱田為吉の弟)


その後Oさんのお宅に何度か往診に伺いました。
驚いたことに、そこは目白の永青文庫のすぐ近くでした。
音羽で永青文庫を想った日々が思い返されます。往診の道々のぞいてみると、雑木林のなかに古びた建物がありました。その風情になおさら郷愁を掻き乱されます。大家さんが磯谷(いそや)さんだというOさんのマンションの前に立つと、ここでも懐かしさが湧いてきます。東京に住んでいる頃はバイクで移動していたこともあり、このあたりは数え切れないほど通りました。
何度目かの往診のとき、それにしてもなにか…………と、わたしはOさんのマンションの前で考え込みました。

「あ!」
思わず声が上がりそうになりました。いえ、声が上がりそうというか、全身がパッと爆ぜるような衝撃でした。通りの反対側にあるマンションは、かつてわたしが何度も訪ねた場所だったのです。二十代前半、公私にわたってお世話になった社長がおりました。そこはその社長のかつてのお住いだったのです。思い出して驚いたというか、あれほどの日々を忘れていた自分に驚きました。15年ほど経っているとはいえ、そこは何度も、いろいろな思いを抱えて訪ねた場所なのでした。
整体を学び、門下生生活という濃密な時間を過ごし、整体にかけた人生に入ったわたしには、その前の出来事の多くがはるか昔のことのようになっていました。そしてそのことが時に人生の齟齬のごとくわたしに迫っていた時期でした。自分の中で不協和音が鳴り止まない。昔の知人に会っても、わたし自身が変わってしまったせいか、昔のように噛み合わない。そんな時期です。

    目白通りの向こうで青春の残像が息を吹き返す。
    目白通りのこちらで整体指導者として背負ったものが脈打つ。

過去と現在の断絶を感じていたこの時期に、通りの向こうとこちらにそれを象徴する二つの建物が対峙しておりました。

    さらに背後には永青文庫。
    向かいのマンションを向こうに降りたところは、
    妻と出会った井本整体音羽道場があったところ。
    過去も現在も、今この場所で当たり前のように渦巻いておりました。

それがひとつの啓示となりました。
変わらない自分と、変わってきた自分と、今ひとしくあるという当たり前の事実です。
不確かになっていた自分に気づき、再び確かになっていく自分を得られた瞬間。それは救いでもありました。
こんな経験ある方、結構いらっしゃると思います。
Oさんが呼んでくださったのか、春草が呼んでくださったのか、いずれにせよ、得がたい瞬間に感謝するのでした。

(その5につづく)

2019年11月25日月曜日

磯谷整体 東京室物語 〜和可菜のころ〜 その3

三年後、門下生修了。
門下生の生活を書いてるともう終わらなくなるので、ここではしょります。すいません。
井本先生より「開業しなさい」のお言葉をいただき、晴れて郷里に帰りました。


開業する喜びはもちろんありましたが、やっと妻と暮らせる喜びと安堵ははかり知れないものがありました。離れていた期間のせいか、今でも妻と生活しているだけで幸せがあります。
さて、一応結婚式をすることになりました。
このときの妻のお父さんのスピーチが忘れられません。

「若い頃は『春草がなんだ、俺は俺だ』と思ってましたが、最近はそこまでは思わなくなりました………。」
そう言って春草の画集をプレゼントしてくださいました。
(春草は義父の祖父の弟)

菱田春草は兄の為吉、弟の唯蔵の支援と愛情を受けながら大成した方です。より正確に言うならば、大成しかけたときに夭逝しました。
東京美術学校(現在の東京芸術大学)校長を追われた岡倉天心は、「日本画に革新を」という思想のもと、共鳴する者たちと日本美術院を組織します。日本美術院は院展を開いているところ、というのが一般的にはわかりやすいでしょうか。
東京美術学校ですでに講師をつとめていた菱田春草、横山大観、下村観山らも職を辞し、日本画の革新に挑みます。
輪郭線を省いた日本画。それは当時ではありえない思想だったようです。輪郭線がないために境界部分がどうしてもぼやけてしまう「朦朧体」と呼ばれるこの技法。「朦朧としているから」という侮蔑が当時込められていたようです。


ここでちょっと脱線いたします。
「解体新書」をご存知でしょうか?
日本史の授業に出てくる杉田玄白の訳書ですね。日本に西洋医学が入ってきたという歴史の1ページです。
原著の図版には輪郭線がありませんが、訳書では輪郭線を用いて描かれております。江戸期における絵画の考え方として、輪郭線の存在は確固とした地位を持つものだったようなのです。
もう少し補足すれば、絵画表現と人々の感性は相互作用しながら、認識と表現の歴史を潜在意識下に刻みます。
未開の部族に絵を見せたときにどのように理解するか?
といった実験が人類学上あるように、われわれは気づかないうちに二次元表現の技法から認識方法を方向づけられ、感性を育てられております。
ちょっと古いですが、漫画「アキラ」が出たときにその表現の斬新さが話題となりました。今まで見たことのない技法から、新しい感性が想起されることは、文化・芸術ではよくあることです。というよりも、そういうことに挑戦しているのが、文化・芸術です。自然科学もかつては感性を育てたのでしょうが、現代はもう発明に偏り過ぎでしょうね。科学に実利しか見えなくなってしまったので、「人文社会学部はいらない」といった発言が出てくるのでしょう。一番わかりやすい文学の意義でさえ、多くの人々に分からなくなってきたのが現代だと思います。


戻ります。
思想家であり、画家ではない岡倉天心がどのような思考の軌跡を辿ったのかは浅学のため知らないのですが、江戸期日本画の技術継承から一部脱却をはかったことは確かです。このハードルの高さがどの程度のものであったかは、当時の文化史・風俗史とともに理解しないといけないため分かりかねますが、職を辞してまでという点から、かなりのハードルであったことがうかがえます。

個人的には春草はもともと思想的跳躍に挑む人であったように思えます。
21歳の東京美術学校卒業制作『寡婦と孤児』では、乳飲み子を抱きながら途方に暮れた寡婦のそばに、主をなくした鎧と刀を描いて寡婦となった今とこれからを暗示させます。『水鏡』は美しい天女を描きながらも、いずれ老いゆく姿を空想させます。

『落葉』では地面に散らばる落ち葉であると同時に、舞い降りる落ち葉にも見えるという視覚効果を使っています。同時には存在し得ない二つの様態。これはロジックとしてはエッシャーのだまし絵と同じものです。観る人の認識を揺さぶり、現実感を奪うのです。ただの雑木林を描いているにもかかわらず、幻想の世界へ引き込まれてしまうのはこのためです。「朦朧体」という技法だからこそ成し得た究極的な絵だと思います。

能書き書いてますが、絵のことは詳しくありません。しかし読み解ことしたときに、春草ほど意味を見せてくれる画家も稀だと思います。こうした思想上、認識上の挑戦が、わたしをいたく刺激するところでもあります。
また凡人は技術を磨いているうちに、技術を行使することしか考えなくなるものですが、春草は技術を磨いてなお技術に溺れることなく、それを使ってなにを生み出せるか、という可能性と課題を十分に抱いていた非凡な人と言えます。こうした生き様に、整体をやっているわたしは憧れと戒めを感じたりします。

また日本美術院を創設した方々に僭越ながら共鳴しています。
余談ですが、横山大観が整体創始者・野口晴哉氏の整体を受けていたことは有名な話です。横山大観が整体のどこに共鳴したのかはわかりませんが、「朦朧体」の確立に挑み、『無我』といった挑戦的な作品を打ち出した大観が、整体の思想的挑戦に共鳴していたなら、うれしいことです。


日本美術院は朦朧体の作品を次々と生み出し、海外での展覧会に打って出ます。おおむね好評を得られたようで、日本でも次第にその地位を確立してゆくこととなります。春草の死は、そんな矢先のことでした。
明治天皇や流山の富商・秋元酒汀が春草の作品を買い取るようになり、春草の生活も少し楽になり始めた頃から、眼病を患い目が見えなくなっていきます。『黒き猫』は亡くなる前年の調子のいいときに、一週間足らずで描かれた作品です。『黒き猫』は秋元洒汀に引き取られ、『落葉』とともに収蔵されることとなりました。


夭逝した春草。兄弟の悲しみはどれほどのものか、伝え聞くものはなにもありません。
自身も絵がうまかったけれど、弟の画力を見るにつけ、為吉さんは弟を支援することに決め、自身は学業をおさめます。大正天皇の教育係をつとめ、東京物理学校(現在の東京理科大学)の講師となります。春草の弟唯蔵さんも学業をおさめ、航空工学博士となり、東京帝国大学(現在の東京大学)教授となりました。
為吉さんは子、孫世代へも芸術への喚起・奨励をされていたようで、そのことがどうやら菱田家に暗い影を落としたようです。義父は為吉さんの直系にあたりますが、苦い思いがあるのか、そのあたりのことを家族に話さなかったようです。

義父が亡くなった後に、義父の妹さんが
「春草の描いた仏壇の扉があったはずだけど…」
と教えてくださいました。それは為吉さんが作った扉に春草が絵を描いたという兄弟の合作でした。妻も妻のお姉さんも記憶になく、いつどのように手放されたのか今となっては分かりません。後に代々木で春草展があったときに展示されているのを見つけました。それは扉だけとなっておりました。扉はなにも語ってはくれませんが、お世辞にも保存状態が良いとは言えず、傷みの目立つその様に来し方を想うのでした。丁寧に保管されてきた文化財のなかであれば一層のこと、それは目立つのでした。義父が最後にこれを手にしたのはいつのことだろう、それはどんな状況だったのだろう。それを思うと、なにか苦いものが口の中に広がるのでした。

そんな義父が結婚式のときに前述のスピーチと春草の画集をくださったことは、わたしにとって意味深いものとして響きました。門下生になる前に入籍だけすることを許してくださった義父です。おそらく整体でやっていく道のりを慮ってくださったのだと思います。一族に絵の道を支援された春草と、その一族の残滓に翻弄させられ、もろもろの精算を負った義父には、なにかに人生を掛けることの価値と危険が骨身に沁みていたのだと思います。
美術史の上では、春草は芸術のためにしか絵を描かなかったとされていますが、義父によれば生活のための絵も実は描いていたとのことです。ことの真相はわかりませんが、義父としてはわたしへの箴言の意もふくめていたのだと思います。

『黒き猫』は春草の孤高さのイメージとよく重なる作品です。
わたしは春草そのものだと感じていますし、そう感ずる人は多いと思います。
睨むでもなく、微笑むでもなく、ただただ意思をたたえる黒猫の目。
無口で頑固であったという春草の静溢さと心のブレなさそのままが描かれていると感じています。
この絵に魅入るようになったのは、開業してからですが、この佇まいが自分にもほしくて、操法室の玄関にカラーコピーを額に入れて飾っておりました。


話は戻りまして和可菜の玄関にある黒猫と和服美人の絵。
こちらは伊藤深水作ですが、同じ黒猫が玄関にいることはわたしにとって気の高まるものでした。
ちなみに和可菜ではメメちゃんという黒猫が飼われていたこともあるそうです。暗闇で目が二つ光っているからメメちゃんだそうです。

和可菜は女将(和田敏子)さんの姉・木暮実千代(和田つま)さんが買った建物でした。
未亡人となり、木暮さんのつき人をつとめていた敏子さんの将来を思い、実母登喜さんが木暮さんに買わせたというのが真相だそうです。女一人で生きていくために旅館を、ということです。

敏子さんは生まれる前からの約束で、和田家の本家に養女に出されました。実子に見せる演出を経ていたので、兄弟同志でさえその事実を知るのは成人して後だったそうです。本家は牛乳屋で財を成していたけれど跡継ぎがない、ということで敏子さんを迎えたわけですが、戦争もあり、大人になる頃には廃業しておりました。
じつは敏子さんの実父は本家の長男でした。本来なら跡を継いでいたはずですが、放蕩が過ぎて追い出され、下関に流れて居をかまえました。そんな父親のもとで育った木暮さんは東京に出て女優となり、生まれてすぐ東京に出されていた実妹と人生を重ねるようになるのですから、不思議なものです。相性もよかったようで、亡くなるまで密な交流が続いたようです。

和可菜は木暮さんの女優としての全盛期の収入、育てられなかった実母の思い、本家が衰退し、さらに未亡人となった敏子さんの寄る辺なき身の上から生まれました。
数奇な人生を歩まれた女将さんはどんな人なのだろう?
基本的に人物や人生に興味があるわたしなので、女将さんに会うのを楽しみにしておりました。

2019年11月21日木曜日

磯谷整体 東京室物語 〜和可菜のころ〜 その2

さて……、
悩ましい日々となりました…………。
やっぱり和可菜で整体やってみたい………………。
どのくらい悩んだか……、ひと月だったか半年だったか、今となっては思い出せませんが、妻に相談し、ある日決意して一人和可菜を訪ねました。

「ここで整体をしたいのですが……。」
出てこられたのはお手伝いの方でした。普通は仲居さんと言うのでしょうが、和可菜では「お手伝い」という言い方をされておりました。
「ちょっと待ってくださいね。女将さんに聞いてきます。」

(断られたらどうしよう)
(女将さん出てきてくれないかな)
(断られたら直談判だ)
ほんの数分でしたが、もりもりと闘志が湧いてきます。

「いいですよ。」
あっけなく承諾していただけました。

思い煩っていた時間の重さが春の雪解けのように流れ出す。
胸の奥で湧き上がる高まりに耐えられず脚が震え出す。
そして新たな緊張と不安がうずまくのでした。
そりゃあそうです。なにしろ採算が見込めないのですから……。

帰り道で妻にメールを出し、帰ってからFさんにメール。
さて準備しなくては……、
といっても整体は操法布団以外にはほとんど必要なものもありません。主な準備は自分の心を整えることでした。


先だっての朝食のときに見つけたのか、この交渉のときに見つけたのか、すでに記憶が曖昧ですが、玄関の黒猫が気になっておりました。
和可菜の玄関には黒猫を抱く和服美人の絵が飾ってあります。
ずっと女将さんだと思ってたのですが、往年の大女優木暮実千代さんでした。
木暮実千代さんは女将さんの実姉で、和可菜を購入された方です。
絵を描いたのは伊東深水という日本画の大家。その娘さんは女優の朝丘雪路さんです。

この黒猫がわたしにはとても気になる存在でした。
というのも黒猫はわたしにとって、ひとつの象徴になっていたからです。
それを説明するには、妻との出会いと結婚をお話しなければなりません。


妻の旧姓は菱田。出会ったのは東京都文京区音羽の"井本整体"です。今は千駄ヶ谷に大きな自社ビルをかまえておりますが、当時はマンションの集会スペースを改装した小さな私塾でした。地下鉄有楽町線「護国寺駅」のホームから長い階段を登り、外に出てから急な坂道をまた登り、都会の真ん中で山寺を訪ねるかのごときロケーションでした。
そこで「東京セミナー」の実行委員をお互い二年ほどつとめたのが、距離が縮まるきっかけでした。
セミナー活動を認められたわたしは、ある日井本先生から「門下生(内弟子)になりなさい」となかば既成事実のようにお声をかけていただきました。周囲からも磯谷は門下生になるのだろうと見られてましたし、わたしにもその自覚はありましたが、東京セミナーを控えた一週間前でもあり、ついにこのときが来たかという充実感よりも、このタイミングで来てしまったというあせりが先にありました。

「磯谷くんともう一人連れて行く。もう一人はセミナースタッフの中から磯谷くんが選びなさい。」
さて困りました。しかし迷っている間もありません。その日のうちにスタッフ五人に集まってもらい、その旨伝えました。「門下生になりたい人」と問うと、妻以外みな希望しました。選びなさいと言われたわたしですが、それぞれ先生に意思を伝えて下さい、と告げました。ずるいといえばずるいのですが、そうすればもう二人行けるかもしれない、いや三人かもしれないという期待がありました。最終的には全員東京門下生として修行し、そのうち二人はのちに山口でも門下生として修行されました。結果的には正解だったと思っております。

さてセミナー本番一週間前という忙しいときに門下生に決まり、わたしはほかにも大きな決断を迫られていました。
つきあっている妻のことはどうしよう……。
若ければ帰ってくるまで待ってて下さい、というところですが、年齢的にそれは許されず、修行は何年かかるかもわからず、別れるか籍を入れるかの二択しかありませんでした。悩むほどの時間もないまま、その日のうちに結婚することに決め、セミナー当日を迎えることとなりました。


恋人同士という時間があまりなかったので、じつに互いのことをあまり知りませんでした。セミナー活動を通じて人となりを知っているのがお互いの信頼関係のすべてでした。
しかし結婚するとなるとそれでは物足りなくなってきます。おごそかな私塾内の公的な顔でなく、私的な妻の顔を知りたい、門下生となるまでに、はなればなれの生活になる前に、もう少し彼女を知りたい。そんな歯がゆさがありました。
互いのことを話す中に、
「ひいおじいさんの弟が画家で、その絵が目白の椿山荘の近くにあるのよね。」
というのがありました。
椿山荘は護国寺から目と鼻の先、歩いて行けるところです。時間を合わせれば行けるだろう。
所蔵しているのは永青文庫。その絵は『黒き猫』。画家の名前は菱田春草。

しかし通常は展示されていないとのこと。
「『子孫です』って言って見せてもらえないかな」
わたしが無茶なことを言うと妻は「無理でしょ」という顔でした。
あとでわかりましたが『黒き猫』は国の重要文化財。『子孫です』で見せてもらえるはずもない代物でした。

門下生として旅立つまでの短い時間で出来ることは限られており、黒猫はこれ以上深追いしませんでした。なにしろいつ門下生として山口へ旅立つのか、その期日も分かりません。当時の井本先生の勢いは、ある日山口に連れて行くことくらい当たり前の風情でした。実際その一年ほど前、ある日突然「今から山口行くか」の一言で山口に連れて行かれたことがありました。
そんな事情もあり、やるべきことは早めに、という毎日。たがいの親に挨拶をすませ、籍を入れ、わたしの荷物を妻のアパートに移し、二週間ほど一緒に暮らし、ついに期日を告げられ、わたしは門下生となりました。
門下生生活に自分のことを入れるスキはなく、やがて菱田春草の名前もすっかり忘れ去ってしまうのでした。

(その3につづく)

2019年11月18日月曜日

磯谷整体 東京室物語 〜和可菜のころ〜 その1

東京でも整体をするようになって、早10年となります。
あるときふと思い、なんとなく調べ始めただけなのですが、いつの間にか本当になっておりました。

はじめに"和可菜"という味わい深い旅館へ憧憬を抱き、
人に話したところ、そのまま導かれるようにはじまり、
そして様々な縁に囲まれていたと気づかされた次第。
思い返せばまことに不思議な縁に恵まれていて、
ときどき人に話してはみたものの、
他人の縁の話というのは周辺事情の説明も必要であり、
全部説明すると冗長になりすぎるのでわかりにくい。
仕方なく途中をはしょって話してきましたが、はしょると縁の妙が伝わらない。

そうしたわけで冗長になりますが、個人的な東京室の物語です。よろしければおつきあいください。


千葉県は柏市で整体を開業し三年が経ったころ、ふと東京でも整体をするならば……、という空想をするようになりました。
山手線の西側からいらっしゃる方が数名おり、中にはつき添いとともに来室される方がいらっしゃったからです。

(一日くらいこちらが東京に行く日があってもいいかもしれない……)

当然ながら採算がとれる見込みがないため、あくまでも空想でした。
"東京 旅館 和室"といったキーワードで検索して、引っかかった情報に対してあれこれ想う楽しみにとどまっておりました。普通は貸しスペースのようなところを調べるのでしょうけれども、整体は基本的に床でないとできません。ホテルの中にある和室も検討しましたが、オートロックで閉まるような重い扉は女性を緊張させてしまうので、廊下と部屋がゆるく仕切られている状況が望ましいのです。
そうしたわけで検索キーワードは"旅館 和室"となりました。

和可菜は最初の方にヒットしました。もともと"東京 旅館 和室"は該当物件が少ないこともありますが、"ホン書き旅館"という称号で有名な旅館だったので記事が沢山ヒットしたのです。女将さんへのインタビューや"ホン書き旅館"に惹かれて泊まった方のブログなど、結構ありました。そしてこの"ホン書き旅館"なるワードが私をいたく刺激しました。私は昔から本が好きなのです。

作家がカンヅメになる旅館に違いない。
編集者に連れられてやってきて、
部屋の中とか、となりの部屋で見張られながら、
作品が仕上がるまで出してもらえない……。

御茶ノ水の「山の上ホテル」や「まんが道」にあった手塚治虫が頭をよぎります。もうなんか十代のころに夢想したモノ書きの姿を自分に重ねて陶酔しておりました。

もっと知りたい、、、
どうやら和可菜を描いたエッセイがあるらしい。
「神楽坂ホン書き旅館」
さっそく購入。

読んでみると、わたしの空想とはちょっと違ってました。"ホン書き"の"ホン"とは脚本のことだそうです。映画の脚本家がおもに利用していたことで、和可菜はその名を広め、のちに小説家も利用するようになり、なかでも野坂昭如さんはわたしの夢想したカンヅメ作家を体現していました。

連載を複数抱え、
別の部屋に各社の編集者がピリピリしながら控え、
作家はスキを見てこそっと抜け出す。

そういうあり方ですね。
ほかに感慨深かったのは、色川武大さんも利用されていたことでした。十代から二十代にかけて、別名の阿佐田哲也とともにほとんどの作品を読んでいたのです。のちにわたしが整体をするようになった部屋を利用されていました。

この文章を書くにあたって、和可菜についてあらためて本を読み直しました。目に止まったのが本田靖春「不当逮捕」、和可菜で書かれたようですね。最近、金子文子「何が私をこうさせたか」、ブレイディみかこ「おんなたちのテロル」などが面白かったので、今になってまた和可菜に感慨を覚えた次第です。

さて「東京で整体をしたい」という願望は、いつのまにかかつて憧れていた"モノ書き"願望へと昇華され、想いはかなり混沌となっておりました。

和可菜で整体をする自分は、
和可菜で仕事をする人であり、
和可菜で仕事をする人はつまり"モノ書き"である。

そんな三段論法にいつの間にか絡め取られて喜んでいる自分と知りながらも、和可菜で整体をすることと、モノ書き幻想が切り離せません。和可菜へのときめきが止まらない、そんな状態です。
(思い煩っているのも体に悪い。採算の見込みがなくてもとりあえず現地までは行ってみよう。)
ある日思い切って和可菜を訪ねました。

JR飯田橋駅を降り、大きなタマネギで有名な日本武道館とは反対方向の神楽坂方面へ、お堀を渡り、大食いチャレンジで昔から有名な神楽坂飯店を右に見ながら急な坂道へ、これまた有名な老舗の甘味処・紀の善を通り過ぎ、神楽坂のてっぺんへ、毘沙門天の向かいのビルとビルの間の路地、ひと一人分の巾しかないビルの間を抜ける、少しだけ広くなり、風情ある石畳の階段をくねりながら降りたら目に入ってくる格子戸、そこが和可菜でした。


ほんとに訪ねただけ。
見に行っただけ。
黒い塀、「和可菜」の文字、
なにもはまってない格子戸、
格子戸の先に窓が見える、部屋だろうか。
だれかいるのだろうか。
耳をそばだてる自分がいる。
知ってる作家さんがいたらどうしよう。
勝手にときめいてしまうが、もちろんどうもできません。

格子戸の左の方に玄関が見える。
予約しているわけでもない。
整体で借りたい、と交渉する段でもない。
ただもう思い入れしか持っていない。
和可菜にアプローチするなにものをも持たず、
ただ見るしかない。なんとももどかしい。
心を踊らせながらも、しばし立ち尽くして帰りました。


借りるようになってからわかりましたが、このあたりはガイドつきで散策している方がたくさんおられます。和可菜ももちろん観光スポットであり、門前で講釈を受けている人たちの姿をよく見ました。通りすがりの人でも和可菜の前で「ここは、、、、」とよくやっていました。
あの日の自分のように憧憬を懐く人、入ってみたくて佇んでいる人、そんなふうに見受けられる人もよく見かけました。

さて和可菜を訪ねて数週間。和可菜への思いは募ります。
そんなある日、Fさんに
「実は、これこれこんな旅館があって……。」
あふれる思いのまま話しておりました。

Fさんは井本整体福岡講座の生徒。わたしが彼の地で講師をしていた時の最後の年の生徒でした。たった一年しか指導できませんでしたが、Fさん姉妹はわたしが辞めてからもわたしを慕ってくださり、そのことがわたしをいつも勇気づけました。「辞めてからもそんなに慕われて幸せですね」と言われたことも一度ならずあったので、端からもそのように見えたのでしょう。
そうしたわけで、Fさんが井本整体東京本部に勉強に来られたときは、いつも会食しておりました。
和可菜への思いを話したのもそんな折です。どこに食べに行きましょうか、と話しているときにふと和可菜のことを話したのです。

「実は、和可菜という旅館があって……、整体をやってみたいんですよね。まあ、現状無理なんですけど……。」
するとFさんは、
「今から行きましょう。」
「!?」

なんと行動的な方でしょう。朝から一日中整体を学び、もう日も暮れてるというのに、これから電車に乗ってもうひとつ動きましょう、というのです。その心の自在さに魅了され、その行動力に圧倒され、当然ですよといった風情に絆(ほだ)され、神楽坂へと向かいました。

JR飯田橋駅を降り、大きなタマネギで有名な日本武道館とは反対方向の神楽坂方面へ………、
前に来たときと同じですね。
そしてまたしても、旅館の前で佇みました。今度は二人です。
「いいですねぇ」
「いいでしょう」
「いいですよねぇ」
月並みな会話を繰り返し、そのまま旅館を後にしました。
不思議なものです。他人と共有したことで、一人で夢想していたときよりも"和可菜"はリアルに迫ってくるのでした。

数日後。
Fさんからメールが届きました。
「次の特別講座(東京本部で年三回行われる集中講座のこと)のときに和可菜に泊まります。もう予約しました。妹も一緒です。」

またしてもFさんの行動力にやられました。そして、
「朝食が美味しいらしいので、先生も朝食だけ来られませんか?お願いしてみます。」

いつの間にか和可菜についてはFさんがリードする形になっていました。
「うかがいます。」
こうして朝食だけ和可菜体験することとあいなりました。

さて当日。
自宅を五時過ぎに出て、和可菜に六時半くらいだったでしょうか。わたしはおまけみたいなものですが、今度は晴れてお客さんです。
格子戸の向こうの部屋の窓が開いて、Fさんの妹さんが見えます。
覗き込むしかなかった格子戸を開け、石畳を数歩踏みしめ玄関へ。お二人が迎えに出てくれました。

薄暗い玄関はなんとも言えぬ懐かしさにあふれ、わたしを異空間へ誘うのでした。
朝食は玄関横の部屋。飾り気のない質素な雰囲気で、何色にでも染まりそうな空間でした。
そして朝食をいただいたわけですが、じつにほとんど覚えておりません。おいしかった、くらいは覚えておりますが、わたしはこのとき和可菜の空間に浸るばかりとなっておりました。

ぜひに会いたかった女将さんに会えなかったことが心残りとなりましたが、Fさんのおかげで和可菜はますますわたしの中で熟成されていくのでした。

(その2につづく)

2019年9月29日日曜日

正しいことを言われると、、、正論と正解

「正しいことを言われると言い返せないのよ…」
なるほどそういうのもあるのか……
妻に言い返されてしばし考え込む。


私は弁が立つように思われることもあるが、論戦が苦手だ。口喧嘩はさらに苦手だ。
こういうときに思わず考え込んでしまうからと思っている。
そもそも論戦も口喧嘩も好きでない、というのもある。
負かすことが目的の論戦は暴力よりも卑しく、暴力よりも遺恨をのこすことが多いと思っている。

論破することに執着して勝ち名乗りを上げられても、なにやら人格上の問題を感じざるを得ない。
殺人事件でも、執拗な暴力の痕があれば、加害者には常軌を逸した精神性を想わされる。
破壊に対する極端な執着は、暴力衝動も論破衝動も同じ根を持つことがほとんどであろう。
しかしながら執拗な口撃というのは、暴力にくらべてタガが外れやすいようだ。
現代は暴力への抑制が効きすぎているのだろう。口撃がそのはけ口になってしまったように見える。

ネット上、メディア上の言いたい放題を散見しながら、ふとそんなことを思う。
正論であれば限度を超えて行使してもよいと思っているように見える。
あおり運転を非難する声なら、いくら煽ってもいいと考えるのだろうか。
はじめは小さな声であろうが、弱者が強者に変わる瞬間を知らないのは罪なことだ。


子どもと大人が相撲を取る。
大人が勝つのはかんたんだ。
しかしそれでは面白くない。
たがいの力が拮抗するように取り組む。
拮抗させるのは大人の役目だ。
大人は子どものあの手この手を引き出し、うまいこと受けながら拮抗状態を保つ。
そうやって釣り合うところで勝負していると、お互いに得るものがある。
釣り合いをとるのはかんたんなようで難しい。
大人は応じる技量と許容範囲を広げるにはいい訓練だと思う。

勝つことしか頭にない大人は拮抗状態をつくれない。
勝つことしか頭にない子どもは、勝てばいいんだ、とばかりに突然つねったりする。
それがゼッタイだめとは思わないが、ちょうどよくぶつかり合うことを知らずに大きくなってほしくない。
いつもそう願う。

相手と釣り合うところが分からないと、他人となにかを生み出すことができない。
なにも生み出さないような争いしかできないから、どうしてもすさんでくる。
そんなふうに大きくなってほしくない、そう願う。

子どもを虐待する親がしつけと主張する。
どこまでがしつけでどこからが虐待なのだろう。
それは結局、ぶつかり合いが成立しているのか、破綻しているのか、そこにかかっている。
しつけの内容よりも、押し合い引き合いが保たれていることが重要だ。
力のある子どもであれば、かなりのことにも応じてくる。
力のない子どもであれば、わずかな力でやり取りする。
破綻しないギリギリに迫るには誠実さと真剣さがもとめられる。

非常に正しいことを教えている親。
その親子の情景がどうにも空虚に見えることがある。
親と子の間に押し合い引き合いがないからだ。
正しければいいというものではない。
出るとこまで出ないと人と人の関係は成立しない。
実感のない教育は人を空虚にしてしまう。


子どもの頃、よくプロレスを観ていた。
その頃は分からなかったが、プロレスというのはたがいの力の拮抗状態を保ちながら、ときどき破綻させるところに面白さがある。
その押し引きを観客の緊張感や期待とともに進行させる、そこにレスラーの技量がある。
真剣勝負うんぬんにこだわって観ていても、プロレスの面白さは分からない。
プロレスは弱ければ論外だが、下手もまた論外だ。

議論の場も同じであろう。
話し合いであるのなら、勝てば官軍というのは甘い考えだと思う。
無闇な勝ちは、次の火種になるだけというのは誰もが知るところだ。
たがいが拮抗状態に臨み、その瞬間を充たさないと先には進めない。
先を見据えた場であるなら、拮抗する時間を経て、これからを生み出す流れにもっていかないといけない。
少なくともその努力がないと話し合いとはならない。非常に体力のいることだ。


話は少し飛ぶが、ライオンは百獣の王でもなんでもない。
象にも牛にもよく負ける。
人間は不思議なもので、無敵という究極を見たいと願う。
絶滅した動物にも無敵を願う。絶滅しているから尚更というのもある。
ティラノサウルスが腐肉を漁っていた、などという言説は許せない、という人も多い。
そういう願望で学説が誘導されたりもする。
科学といえど、人間の欲望願望はつきまとう。

夢を見たいところではあるが、残念ながら自然界では無敵の動物は生き残れない。
これは自明の理であり、現実だ。
仮りにいたとしたなら、そいつは全てを狩りつくしてしまうだろう。
繁栄しすぎて飢えて絶滅するしかない。もしくは同族間で争う道しか残されない。
ヒトの現状はおおむねここにあたる。

ライオンが生きているのは、周囲を壊滅させない程度に強かったからにすぎない。
生存環境内で一定レベルの強さを許されているが、最大限には許されなかったから生きてこられた、というわけだ。

人間は一方的で執拗な攻撃をする。限度を超えた勝ちを積極的にひろおうとする。
チンパンジーもそうだ。

人間が極端な力をもとめるのは自然なことと思っているが、
それをどのくらい使うのかは、これまた人間の知恵として大切なことだ。
そう信じる以外、人間の道はない。
勝ち負けゼロが自然の摂理、これは曲げようがない。


冒頭の妻とのやり取りはもう10年以上も前になる。
なにでもめたのかは思い出せない。
しかし妻のセリフだけたまに思い出してしまうので、なんとなく戒めとして機能している。

適度というのは難しいものですね。
私にとってもいつも課題です。

2019年8月18日日曜日

暑さとは、、、

人間は寒さに対しては敏感だが、暑さに対しては不思議なほど鈍感なところがある。
寒さの限度には対処しようとするが、暑さの限度には対処しないことが多い。だから熱中症が減らないのだ。

一日中エアコンのきいた部屋にいるからといって安全ではない。温度設定が高い、あるいは日の射すところにいると、熱中症になってしまうことがある。
ほとんど動かない老人や、寝たきりの病人がいる家は気をつけなくてはいけない。頭、顔、掌を触って、いつもより熱くなっていたら熱中症の入り口を疑う。
濡れたタオルで顔や首を拭く。団扇であおぐ。あおぐところは顔、頭、脇、鼠径部。口の中も有効。熱中症の入り口であれば、このくらいで足りる。

喉が渇くからといって甘いジュースを沢山飲むと、血糖値が上がりすぎて危ないこともある。症状が熱中症に似てるのも注意が必要。熱中症の中には、隠れ高血糖が潜んでる気がする。
汗をかいただけの状態、肉体疲労をともなわない状態であれば、水と塩で十分だし、安全。量の調整も感覚で分かる。


ネイティブアメリカンのグランドファーザー。
暑い中平然と過ごしているのを見た婦人が
「暑さをものともしないのですね」と話しかけると
「これは本物ですから」と答えたそうだ。

グランドファーザーは人生の大半を真理探求の旅に過ごした。
砂漠で過ごす中で“暑さ”を。北極圏で過ごす中で“寒さ”を知った。

私にはとても真似出来ないが、誰にでも自分の知る“暑さ”はあると思う。
自分の知ってることを見つめ直すくらいならできると思う。

暑ければ動きは鈍くなり、頭の働きは低下する。酒を飲んだときのように、計算能力や物事を思い出す能力が低下する。
100メートル先がいつもより遠く感じ、知らないうちに口が開いてくる。吐く息に熱さを感じ、音を遠く感じる。周囲の歩行者や自動車のスピード感があやふやになってくる。

“暑さ”はみな経験していることなので、暑い時の自分の状態を推し量るよう努めれば、今どのくらい暑い状態なのかを知ることができる。漫然と暑さを見過ごすよりも、知ることに向かってほしい。


暑くてぼーっとしてきたときは、目を大きく見開いて、鼻からゆっくり長く息を吸い、口から吐く。
こうすると頭が少しクールダウンする。

生理学上の知見では、人間においては脳へ行く血液を冷やす構造が見つかっていない。大きな脳を持つのに、血液の20%を使ってしまうのに、脳に何の対策もないのは奇異に感ずる。おそらく何かあるのだと疑っている。

生理学的には不明でも対処したい。
人間は呼吸を自在に操る唯一の生き物だ。呼吸で対処するのが人間らしく、手軽でいい。なにしろいつでもできる。持ち物もいらない。人間の偉大な能力だ。
生理機構にアプローチするのは通常困難だが、呼吸だけは顕在意識で操作できる。



まだしばらく暑いようですね。
私は小袋に入った塩をいろんな人に配っております。
水は調達できても塩は意外と難しいからです。
お守り代わりに、、、と言って渡してますが、沢山汗をかいたときは試しに舐めてみて下さい。
塩の美味しさを感じると、体の要求が理解できます。
そういう実感の積み重ねが大切と思います。



ペットボトル症候群 - Wikipedia
グランドファーザー -Amazon

人間はどこまで耐えられるのか -Amazon
暑さについて生理学的にも知りたい人は上記の本。
「第3章 どのくらいの暑さに耐えられるのか」を読んで下さい。
実感できる生理学の本として秀逸です。

Life at the Extremes -Amazon
 上記の原著、表紙はなんと日本の海女さん。クリオネのように美しい。外人がこれを選んだ意気に応えて装丁買いしたくなる。買ってませんが。。。

2019年8月14日水曜日

【本が好き】 断章 『リハビリの夜』 熊谷晋一郎

小児脳性麻痺の著者が自身の身体を通して、運動修得を分析。
当事者研究と名付けられた研究スタイルを、いかんなく発揮した一冊。
運動の修得あるいは是正、リハビリ、メンタリティの確立、といったことに興味のある人はご一読を奨める。

「脳性まひ」だとか「障害」という言葉を使った説明は、なんだかわかったような気にさせる力を持っているが、体験としての内実が伝わっているわけではない。もっと、私が体験していることをありありと再現してくれるような、そして読者がそれを読んだときに、うっすらとでも転倒する私を追体験してもらえるような、そんな説明が欲しいのだ。つまり、あなたを道連れに転倒したいのである。
p.22 より引用

運動を理解するには、内実を追体験、、、
こういう視点をはっきり持っている人はなかなかいないと思う。

文体が内容に応じて変幻自在。ときに文学的で、ときに科学的。その器用さに、驚かされる。そういう意味でも稀有なノンフィクション。
全体としては非常に分析的に書かれているので、概念切り分け、用語理解をしながらでないと読めない。
哲学的記述が苦手な人には面倒かもしれない。

“規範的”という用語が頻出する。 熊谷晋一郎
健常者を基準にした運動などといった場合に使われる。
その運動に体を合わせられない、向かわせられない麻痺という体。
そこにギャップがあるにも関わらず、無理に合わせようとしていた自分自身と周囲の人間。
その心模様と葛藤、行き詰まっていく人間模様まで描いている。

1977年生まれの著者の幼少期は、規範的な動きを修得させることが、小児麻痺リハビリの鉄則だった。
修得出来なさは、そのまま本人と家族の苦悩となり、リハビリ施術者のイラ立ちにもなった。

著者自身が肩をすくめるポーズがある。
規範的な肩をすくめるポーズをイメージしている。
しかしすくめているようには見えない。
それは著者自身も分かっている。
そして規範的な肩をすくめるポーズのイラストと対比させている。
非常に分かりやすい解説だ。


ここからは主に私の見解と感想

本書は小児麻痺の運動修得について語られているが、
本質的には健常者の運動修得プロセスも変わらないと思う。

健常者であっても、
規範的運動と自分の身体の間にはギャップがある。
そのギャップに気づいた時の対応は人によって分かれる。

・ギャップを無視する。
・自分には出来ないと判断し、諦める。
・ギャップの理解分析に務める。

ギャップが小さければ、無視しても許容範囲内の運動が現れる。
しかしギャップが大きくても、積極的に無視してすませてしまう人が多い。
その結果、雑な運動と映る。

手足を記号的には同じに動かしてるのに、なんだか別物に見えたことはあるでしょうか。
たとえば同じダンスをしていても、
片方には芸術性があり、
片方は体操にしか見えない、という場合。


大雑把に言って、赤ちゃんから思春期までは、運動を感覚的に理解する。
身体感覚そのままを修得しようとする。
思春期の途中から運動を可視化されたもの、表現された形を記号化して覚えようとする。
そうしてそのまま表現形のみが運動である、と解釈してしまう人がほとんどだ。
(一般的に、リハビリはやる方も受ける方も、記号のみに陥ることが多い)

フィギュアスケートの採点は、技の難易度と芸術性が分かれている。
表現形という記号と身体感覚は本来別物だ。
芸術性とは、内在する身体感覚の素晴らしさに他ならない。

ほとんどの健常者が、
自身の体とその感覚を見つめなくなっている中で、
麻痺ある著者が、
自身の感覚をつぶさに見つめて分析している点に敬意を表する。

足りないから分析するしかなかったのだ、
という見方もあるだろうが、
足りないからあきらめる、見ないことにすることの方が圧倒的に多いものだ。

現に健常者であっても“足りない状況”はいくらでも経験する。
そして“足りなさ”を無視することがほとんどであろう。

自分が雑に動いてる、と感じてる人も読んでみるとよい。


Wikipedia 熊谷晋一郎
Wikipedia 当事者研究
リハビリの夜 amazon.co.jp

2019年8月7日水曜日

山梨紀行 その2 薮内正幸美術館

薮内正幸の名前は知らなくとも、その動物画を見たことがない人はいないでしょう。
絵本から専門書まで幅広く活躍された方です。

薮内正幸 at DuckDuckGo

薮内さんの絵は、学問的な正確さを持ちながら、生命力を感じさせるところがすごいのです。
活躍の舞台が多岐に及ぶのはそうしたところからもきてるのでしょう。


さて美術館。
見覚えのある「動物の親子」の作品がだだだっと並んでおりました。
母親が子どもをくわえていたり、子どもが後ろをついていったり、、、
母と子の情景に、人間と変わらないものを感じます。

おぉ!と思ったのは、薮内氏が中学時代に模写した鳥類図鑑。
しっかりとした基礎力のあるイラストでした。

薮内氏の魅力のひとつとして、叩き上げ感と縁に導かれた人生があります。
膨大な作品数を誇りますが、絵を専門に学ばれたことなしに業界に入り、周囲の人々の支持と応援を受けながら大成された方なのです。
そんな薮内氏の黎明期を模写から感じ、しばし感慨にふけりました。


業界入り。
その始まりは13歳の頃にはじまる今泉吉典との文通にある。
(今泉吉典は有名な動物学者一族の初代)
薮内はイラスト入りの手紙を今泉に送り、今泉はそのイラストが着実に上達していることを見逃せなかった。
そんな折、福音館編集長が無名の動物画の描き手を探しており、薮内の高校卒業時期に重なったことから、今泉の推薦を受け福音館入りした。
薮内は研究者を望んでいたようであるが、編集者の熱心な説得に最後は応じたかたちとなった。
福音館に入り、最初の一年は今泉が館長を務める国立科学博物館に日参し、骨と剥製のデッサンに明け暮れた。。。


美術館には、今泉氏が薮内氏を福音館に誘う手紙も展示されています。
人生の分岐点を思わざるをえません。

私はつねづね思うのですが、興味のあること、好きなことがあるのなら、とりあえずその方向に行動し、生きればいいと思います。縁があれば色々とつながっていくものでしょう。それが充実した、その人の人生と思います。
達成度だけにとらわれると、誰の人生を生きてるのか分からなくなってしまいます。
薮内正幸の人生に触れて、あらためてそんなことを思いました。


面白い展示物、、、
ウラヤブ通信なるものがありました。
薮内氏が原稿とともにシャレの利いたイラストを編集者に渡していたそうです。
身内だけの楽しみとして、“ウラヤブ通信”と名付けられていたようです。
グッズ売り場に、ポストカード化して売られてました。ちょっと迷いましたが、買ってません。

グッズ売り場は個人の美術館としてはかなり充実してます。
点数がすごいのです。ファンの方はぜひ足を運んで見て下さい。

【参考】
薮内正幸美術館
WikiPedia 薮内正幸
WikiPedia 今泉吉典


追記、、、

美術館を出て、国道20号を南下。
数キロ行くと、左側に「ドライブインやまびこ」
一瞬廃屋にも見えましたが、入り口に営業中の看板。
そこでお昼ご飯。
ふつうに作ったふつうのものが食べたい方にはおすすめします。
アジフライとお味噌汁が美味しかったです。
うどんは味が濃いめですが、夏にはちょうどいいですね。

食事処が豊富にある地域ではないので、遠方からくる人はある程度候補を見つけておくのがベターです。

2019年8月2日金曜日

信玄堤、行ってきた。いにしえの治水事業。

古(いにしえ)の治水技術にそこはかとなく惹かれるものがあり、親戚を訪ねた折に立ち寄ってきました。

【ざっくり解説】
山梨県甲斐市竜王町。釜無川と御勅使川の合流地点。
古代から氾濫原であり、定住には適さない。
武田信玄(1521-1573)の指揮で治水事業が行われた。

いくつかの治水技術が併用された。
・川の流れを変えて勢いを弱めるー将棋頭
・川の流れを岩にぶつけ、勢いを弱めるー高岩
・川岸から少し飛び出すように丸太を三角錘に組み、勢いを弱めるー聖牛
・堤防に切れ目をつけて、水を逃がすー信玄堤(霞堤)
など


信玄堤に惹かれたのは、洪水を起こさないことよりも、洪水をある程度許し、導くことで肥沃な土壌を確保する点です。
化学肥料生産技術が発達して、川が運ぶ肥沃な土壌などというものは過去のものに感じるわけですが、化学肥料に負う割合が増えすぎて、野菜の栄養価は確実に下がってきているという現実があります。
かといって洪水は怖いですから、人間の営みと折り合いのつくところはないのだろうか?とたまに考えておりました。

ちょうど水道事業にたずさわっている方が整体に来られていたので、洪水を許す治水設計は可能か?などと話しておりました。それから数カ月、新聞で霞堤(かすみてい)の存在を知り、信玄堤(しんげんづつみ)という名で山梨に現存することを知りました。
感激でした。今も機能しているのですから。

ご無沙汰しているイトコに会いたくもあり、足を運んだしだいです。
さて、古の知恵を感じられるでしょうか、、、

駐車場から土手に上がり、周囲を見渡す。
川の流れを感じ、水の暴れ方を想う。
流れの治め方が浮かんでくるだろうか、、、

古の人々の感性ってどんなものなのか。
ぼーっと突っ立って眺めたり、散策してみたり、、
その場所に、なにかすこし、馴染んでいけるだろうか、、
と試みました。

結論から言うと、うまく行かず。
朝の9時からたくさんの蚊に刺されて終わりました。
家族と一緒だったこともあり、滞在時間は30分程度。
流域全体を俯瞰的に散策すると、おそらく3時間はかかるでしょう。
また機会があったら、散策してみます。

治水技術を学ぶだけであればネットで足りるのですが、現地まで行く機会があったのですこし深いところまで学べるかな、などと考えてしまいます。


整体の技術もそうなのですが、身になるように学ぶのが難関です。

こうすれば、ああなる、ということが最初は刺激的なのですが、
それだけを繰り返していても、一向に身につく感触はやってきません。
要素をあつめても総体にはたどり着かないわけです。

それでも多くの人の学習、、、これはなにも整体に限ったことではないですが、、、
こうすれば、ああなる、を覚えることで正解にしていきます。
才能のある人は最初からそんなふうに学んでいないだろう、
と凡人の私ですが思うのです。

治水技術も、こうすれば、ああなる、を見て楽しみましたが、
この地で水を治めようとした人は、何をどう見たのだろう?どう感じたのだろう?
というところをちょっと感じてみたいですね。
あいにくよく分かりませんでしたが、ひとまず今回は満たされました。
今後、川を見て、見えることが増えてきたなら成果あり、ということになります。


【観光案内として】
信玄堤公園に無料駐車場があります。
信玄堤公園トイレのあるところです。
あずま屋もあります。

【参考サイト】
過去に学ぶ~甲府盆地の治水システム(スマートフォン版)|JFS ジャパン・フォー・サステナビリティ
甲府市/甲府にもあった「信玄堤」
信玄堤 - Wikipedia
霞堤 - Wikipedia

2019年7月19日金曜日

【本が好き】流山市 木の図書館へ

毎週図書館に行きます。
十年来通っています。

今回はちょっとヘビーです。
相互(県内取り寄せ)がいっぺんに六冊来まして、ありがたいやらしんどいやら。
ほとんどの本は一週間で返しますが、今回は二日で一冊のペースが増えそう。
ここにある本を全部知ってる人はさすがにいないはずですが、
全ての本が心の琴線に引っかかる人もまれでしょう。いるとしたらかなり変わり者ですね。

どうして借りたのか、あるいは読む前の思い入れ、、、

『私は見た!昭和の超怪物』黒崎健時
とある人が教えてくれました。
“怪力法”を創始した若木竹丸と対談してるとのこと。
ふつうの人から見れば黒崎健時も超怪物なので、読む前からヒリヒリします。
表紙は黒崎健時、、、『必死の力・必死の心』を踏襲したんでしょうか。『必死の力・必死の心』は高校生のときに五回、成人してからも五回は読みました。読むと生理的限界を超えたくなる本。そういう本が減りました。

『東洋の神秘 〜ザ・グレート・カブキ自伝』ザ・グレート・カブキ
名著です。
発売当時、本屋で何度も立ち読みしたけれど、結局買ってません。ちょっと申し訳なく思います。
「プロレスは立ち位置なんだ」という教訓はそのまま人生訓として読めます。
題材がプロレスでなければ、ベストセラーになってもおかしくないほど箴言に満ちた本。
カブキさんは現在居酒屋を営まれています。
お店は飯田橋なので、神楽坂で整体をやってる頃に何度も行こうと思ったのですが、結局行かないまま春日に移ってしまいました。
しかしなんとビックリ、春日に移転されてました。今度行こうと思います。

『魂の錬金術 エリック・ホッファー 〜全アフォリズム集〜』
ちょっと前にエリック・ホッファー全部読もう!と思い立って、これが最後の一冊。
考え抜いた人、鍛えられた思考力、人間の、人間らしい力を感じさせる人です。
日本で、ホッファーが文化人の中でホットな存在になったのはいつなのだろう?
知ったのが数年前なので、そのあたりリアルタイムな感触はないのですが、今読んでも色褪せるものはないですね。
肉体労働者も当たり前に思索するわけですが、老齢まで肉体労働にこだわった点で稀有な人。憧れますね。

『作業歌 労働とリズム』カール・ビュヒャー
この題材で書かれてる本はおそらくないと思います。
何年か前にいろいろ調べたのですが、この本くらいしか見当たりません。
あえて言えば小泉文夫。民族の歌を蒐集して仕事や作業との関係を論じております。
1970年発行。県内に一冊だけありました。借りたのは私で何人目だろう?
除籍されて廃棄になったらどうしよう、、、心配になります。

『リハビリの夜』熊谷晋一郎
「ケアをひらく」シリーズの一冊です。このシリーズは秀作が期待できます。
ラインナップに読みたいものがたくさんあるのですが、まだ数冊しか読んでません。

『なぜシマウマは胃潰瘍にならないか 〜ストレスと上手につきあう方法〜』R・M・サポルスキー
「シュプリンガー・フェアラーク東京」というすごく長い出版社名。
シマウマの生態が書かれていることを期待している。
それはおそらくないとは思っているけれど、シマウマについて少しくらい触れてないだろうか、と期待がある。
ウマについて書かれたものは多いのですが、シマウマはありません。シマウマは気性が荒く、家畜化できなかったウマです。人間との関わり、その歴史など、知りたいと思っています。

『新選組の哲学』福田定良
自分のコトバさがしをするということは、自分の生活体験から離れずに考えられるようなコトバを見つけるということです。
朝日新聞の「折々のことば」にありました。引用元は『堅気の哲学』福田定良、だそうです。どんな人物なのか気になり、ちょっと前に新選組の出てくる本を読んだので、キーワードが都合二つとなり借りた次第。
この本だけは相互ではないので、読めなければ延長するつもり。

以上

2019年7月10日水曜日

樹木希林 オフィーリア 存在感

樹木希林さんの本が売れてるようですね。
死して尚、というよりも、
いなくなったことが存在感を倍増させている、という感があります。

絵画「オフィーリア」をモチーフにしたあの装丁のインパクトはすごいですね。

誰が考えたのだろう、と感嘆せざるをえません。
このモチーフはCDジャケットなど、数え切れないほど利用されているので、どこかで見たことがあると思われた人も多いでしょう。
しかしこれほどインパクトある形で世に出たものはないのでは。

元ネタの絵画「オフィーリア」は、ミレイ作。川に溺れて死にゆくオフィーリア(シェークスピアの「ハムレット」)を描いたものだ。清流に浮かぶ美しく、生きてるような死んでるようなオフィーリアと、周囲に生気あふれる草花、崩れ落ちたかのような樹木から半分枯れたような枝、生と死の狭間を浮かび上がらせている作品。
装丁もほぼ同じですね。
出版された頃の希林さんの存在感を表現されたのでしょう。


死んだ人間の存在感が大きくなるのは、おそらく人間だけと思う。
“存在感”とは概念上のものであり、物理的存在とは別個の抽象概念であるからだ。
こうした抽象概念は人間においてかなり自由に創造されるものになった、と私は思っている。
ゾウなども仲間の死を悼むようだが、死んだ仲間の存在感が増していくことはないように思える。

われわれ人間はそもそも、生きている時でも個々の存在感に敏感であり創造的だ。
存在の大きさ、濃さ、特別さ、存在感が薄いこと自体が存在感として膨れ上がることさえある。
なにゆえにこれほど敏感かというと、人間は個体差が大きいからだと思う。
外見はもとより、内面の個体差も大きい。人間は個性抜きには語れない。

個人が一生かかって確立したものに、他人は憧れを抱いたり、嫌悪を抱いたりする。
死んだ人間への敬意が増すこともあるし、
死んだ人間への嫌悪が増すこともある。
こと人間に限って言えば、死んだら全部お終い、というものでもない。

希林さんが話題になっているのは、役者としての功績もあるが、その人間性によるものが多いようだ。
「こんな人がいた」「こんな人だった」
それぞれがそれぞれに、そうした存在感を自らの中に描こうとする。


魂というものがあるのかどうか分からないが、人間の存在感というものは、亡くなったあとも生きてる人たちの中で生き続ける。生き続け、なにかしら受け継がれる。受け継いだ人の中で発酵してきたり、人を成熟に導いてくれたりする。
人間の“命の重さ”とは、そういうところにあると私はつねに思っているが、いかがだろうか。

ある人が生まれ、生き、亡くなる。
その道程で創られた人間性のようなもの、
その道程で創られた存在感、
その道程で周囲に与えたもの、
そういうものを感じたとき、“命の重さ”を誰しも思わされるのではないでしょうか。


老醜をさらしたり、目一杯生きて「あとは野となれ、山となれ」と潔く散ったり。
生き様、死に様はさまざま。

それがどんな有り様でも、必ず後世に影響を及ぼす。
それなりによいものを遺す努力は必要であろう。
誰かが生きるとは、どこかの誰かA、B、Cという不特定ではない。
誰かが死ぬのも同様だ。
その人という個性があるのなら、それ相応の責任があると思う。

世の中の仕組み上、社会に及ぼす影響は大小ある。
政治家であるとか、成功者であるとか、有名人であれば、多くの人々の中に遺るが、
それがどのくらいの強さ、濃さで遺るかは、名声とは別のところにある。

グローバル社会であり、情報の流通はリアルタイムで世界に伝えることもできる。
名のある人の情報はかつてないほどあふれかえる。
ほとんどの人、一般の人は、これまで以上にその他大勢になっていく。

しかしながら、とるに足らない小さな存在と思う必要はない。
人が生き、その人がいる、そのことが誰かの中で必ず生きている。
生きていないはずはないのです。

その人がその人らしく生きる、
その人という存在感を確かなものに高めていく、
それが誰にとっても大切で、人間という存在だと思うのです。

2019年6月3日月曜日

早いけど熱中症について

まだ少し早いのですが、、、

本格的な暑さはまだ来てませんが、
時々ひどく暑い日もあるので、熱中症の話。
今回は「塩」がテーマです。
いつものように独断が含まれてます。


■塩くばってます。

注意喚起を含めて、整体に来た人に塩を配っております。
弁当用の小袋です。

テレビでもネットでも熱中症への注意喚起や対策が行われているので、
ほとんどの人はそれなりに認識してるとは思うのですが、
個人的には塩の重要性について注意喚起が足りてないと思っております。
ちょうど高血圧の基準値が下がったこともあり、心配になってきました。


大量の汗をかいた時には、相応の塩が必要となります。
それくらい誰でも分かっていることではありますが、
現実問題としては、適量の塩を摂る準備をしてる人はほとんどおりません。
塩飴やスポーツドリンクでこと足りると思っている人が大半ではないでしょうか。

水筒やペットボトルを持ち歩く人でも、
塩と一緒に持ち歩いてる人は聞いたことがありません。
コンビニや自販機で買う飲み物にも、
塩が含まれているものはごくわずかです。

スポーツドリンクにはある程度ふくまれてますが、
糖分が多すぎて、スポーツや肉体労働でもしてないかぎり、
適さないと思っています。

外回りの営業など、肉体疲労としては軽度、しかし汗は大量、といった場合はなおさらです。
こうした場合、スポーツドリンクはかえって疲労を招くという実感があります。
おそらく高血糖による疲労感だと思います。
この点は塩飴でも同じと考えています。


■適量の塩

多くの場合、水分と塩分を適量にとれば、疲労感が軽減されます。
暑さそのものにはもちろん効きませんが、体力的には回復します。
塩が抜けると力が入りませんが、足りると体に力が戻ってきます。
精神的にも同様の効果があります。

熱中症の原因はもちろん暑さですが、
判断能力の欠如もあると知ってください。
限度を超える頃には、頭も働かず、体に力も入らない状態になっているから怖いのです。
その原因のひとつに塩分不足があると思っています。


しかし摂ればいいというものでもありません。
大切なことは適量を摂ることです。
塩が入った飲み物よりも、
塩そのものをなめたほうが適量を調整できます。
美味しいうちは適量で、塩辛く感じたら過剰という判断です。
大雑把なようですが、その方が信頼できます。
医学的な規定値よりも、本人の状況を反映しているのですから。


■食生活における塩

高血圧のために塩分控えめのご家庭は多いと思います。
一日の摂取量のガイドラインはありますが、
冬と夏では事情がことなることを考慮されてません。
その日の活動に見合った塩分量も考慮されていません。

邪推と思われるでしょうが、
私は高齢者の熱中症の一因に、塩分控えめの食事があると疑っています。
判断能力と体の力が早い段階で欠如する、という推測です。

同様に心配になるのは、
子どもたちの摂取塩分量です。
塩分控えめの家庭で同じ食事をしてる子どもたちです。
運動部などに属していなくても、通常は子どものほうが汗をかいてるはずです。
しょっぱいお菓子などに執着するようなら、塩分不足の可能性大です。

医学的なガイドラインを参照しながらも、
個別に考えて対処してほしいと思っています。


■他の栄養素は必要じゃないの?

食事でとれば十分です。
出先で、あるいは食間に摂取する必要はありません。
アスリートならまだしも、通常の生活レベルでは塩と水で足ります。
それでも足りないと感じたときに、栄養を考慮してください。

糖分は肝臓の蓄えでなんとかなりますが、
水分塩分は補給と排泄を繰り返さないと保てません。
さらに言えば、水分は脂肪を分解してある程度つくれますが、
塩分は短期的な必要量しか体にとどまりません。


■結論

塩を持ち歩こう!
お守りがわりに小袋に入れよう!
手のひらにのせてぺろっとなめて適量を判断しよう!

子どもに持たすときは、いきなり口の中にザラッと放り込まないよう、言って聞かせましょう。
過剰になめたらもちろん体に悪いです。ぺろっとなめるから適量を判断できるのです。
とくに小学生男子、なにやるか予測不能です。
塩の匂いを嗅いでみて鼻の中が塩だらけになるとか普通にやります。
私がそういう子どもでした。


■余談

3.11の震災以降、夏は塩を持ち歩いてます。
帰れなくなったときのためです。
荷物が多いので水は二の次にしてます。
水は500mlくらいならなんとか調達できそうですが、
塩は意外と難しい気がします。
コンビニに行けば食卓塩はありますが、帰宅難民の数には足らないでしょう。


今年ふと思いついて、、、
いや今まで思いつかなかったのがどうかしてますが、
ゆで卵についてくるような弁当用の塩なら人に渡せる、
と思い立ちました。

近所のスーパーでは見つかりませんでしたが、
アマゾンで売ってました。
お守り代わりに持ち歩く人、
人に配りたい人は買ってみるといいです。

ちなみに塩をアルミホイルに包んでるとそのうちアルミが劣化してきます。
サランラップも日数によっては同様にラップの水分を引っ張るんじゃないかと思います。
そうしたわけで、日々使うレベルでないなら、個包装されたもののほうが安全と判断してます。


2019年5月24日金曜日

大哺乳類展2 棘突起から分かること

上野の科学博物館の特別展に行って来ました。
前回、、の記憶が大分薄らいでますが、
今回は、、かなり力が入ってたように思います。


■私的見どころ指南

背骨を見て、哺乳類の運動を感じ取ろう、
という見どころです。
個人的興味から、骨の感じと動作の感覚を自分の中に落とし込むようにしています。

複数種の骨格が並んでいると差異が明確になってくるため、
あっちの骨格の感じと、
こっちの骨格の感じに個性を感じ、
何となく自分の中で感触が肉迫してきます。

おそらくこうした観点で骨格を観る人はまれなので、
知ってる限りではガイドとなるようなものはありません。
どこかの誰かが面白がってくれるかもしれないので、書いてみます。

テーマは
棘突起から感じる哺乳類」、、、


■背骨の差異

入り口を入ると、右の壁側に
「サンショウウオ」「イリオモテヤマネコ」「オオトカゲ」がおります。
まずは背骨の形に注目して下さい。

両生類のオオサンショウウオの背骨は変化に乏しく、
頚椎(首の背骨)と胸椎(胸の背骨)の違いもほとんどありません。
復元するときに順番を間違えても、たいした問題にならないレベルです。

爬虫類のオオトカゲの背骨も変化に乏しいですが、
頚椎だけははっきりとした特徴を持っています。

哺乳類のイリオモテヤマネコの背骨はどうでしょう?
先に二種をよく見ておくと、
イリオモテヤマネコの背骨が変化に飛んでいることがよく分かります。

ここから推測されるのは、
・同じ形の背骨は、同じ動きをするだろう。
・違う形の背骨は、違う動きをするだろう。
ということです。

オオサンショウウオは顔を上げることができず、
体全体を左右にくねらせることしかできません。

オオトカゲは体全体を左右にくねらせますが、
首の動きに一定の独立があります。

そしてイリオモテヤマネコ。
頚椎、胸椎、腰椎、それぞれ特徴が違います。
哺乳類以降、顕著になるのは胸椎と腰椎の差異です。
ここで注目してほしいのが、棘突起です。
背骨に生えている「棘状」の突起の向き、、、
胸椎と腰椎では逆方向を向いています。
その境い目は正確には下部胸椎にあります。

どうやらそこを境に動作が反対なのだろう、
という推測が成り立ちます。


■棘突起の差異

哺乳類は胴体を2つに折ることが出来る唯一の脊椎動物です。
背中を丸められる、という言い方もできます。
2つに折ってバネの力をため、
それを開放することで背骨から高い瞬発力を発揮します。

ヒトにいたっても同様ですが、
哺乳類は垂直跳びも、水平跳びも、背中を丸めることで腱や靭帯に張力をためます。
短距離走でもクラウチングスタートの姿勢で丸まって、一気に開放する手法が取られます。
しかし近年は、スタートから猫背をゆっくり開放することで安定した走力につなげています。

話は戻って、、、
イリオモテヤマネコを見たあとで近くのイヌを見ます。
極端な違いはありませんが、
よく見ると胸椎腰椎の棘突起の向きの変わり目がちょっとだけ大人しいです。
イヌはネコほど背骨の曲げ伸ばしをしないからです。

次はライオンの骨格。
こちらもイリオモテヤマネコほど棘突起の変わり目を感じません。
背骨の曲げ伸ばし、瞬発力はいかばかりかと、体に迫って来ませんか?

次はパンダ、ちょっと戻るとあります。
パンダの棘突起は、驚いたことに腰椎も、胸椎同様に尾の方に倒れています。
この傾向はクマにも見られます。
両種とも、哺乳類の特長である背骨の瞬発力を活かした跳躍が見られません。

次はウマ
ネコやイヌよりもパンダやクマに近いことが分かります。
イリオモテヤマネコの骨格をジロジロ見て、
何となくその跳躍力を体の中に感じていると、
ウマの棘突起に違和感を覚えます。

中部胸椎くらいからみんな腰椎みたいなので、
走りたくても走れない感覚におちいります。
そういう感触が得られると、
ちょっとウマを理解した、ウマに肉迫した気がしてきます。

さてさて、みんなの大好きなチーターに向かいます。
体格のわりに棘突起が細い。
棘突起の向きがそれぞれ個性的。
胸椎よりも、さらに腰椎はそれぞれの棘突起の差異が大きく個性的。

イヌやネコの瞬発力は主に後肢側にあり、
背骨で言うと腰椎側にあります。
瞬発力を追求した結果、チーターは今の骨格にいたったのでしょう。

チーターの下部胸椎付近の棘突起の小ささと倒れ込み方、
こうしたところにも背骨を大きく曲げる性能と感性が見て取れます。

背骨を大きく曲げ伸ばしする走法には大きな欠点があります。
内臓の揺れが前後に大きいので、
胸腔を押しつぶしてしまいます。
結果的に呼吸がままならなくなるため、
持久力を発揮することができません。

呼吸の確保と走力の確保。
こうした視点をもって、今度は蹄のある動物を観ていきます。
さっきまでほど親切に解説しませんので、
適当に読み飛ばして下さい(笑)


■蹄のある動物

ウマ、ウシ、シカ、、、
蹄のある動物はたいてい植物食です。
肉よりも消化時間がかかるため、
内蔵は長い時間中身が満たされたままとなります。
つまり背骨を曲げ伸ばしすると、肉食動物よりもはるかに苦しいのです。

背骨を大きく動かさない走法を選んだため、
動きのダイナミズムは減少し、
棘突起の胸椎腰椎の差異が少なくなります。
また棘突起同士がぶつからないので、隣同士が近接します。
扁平な板状になったのです。


■蹄のある動物には項靭帯が発達

有蹄類のほとんどは上部胸椎が非常に長くなります。
頭からつながる項靭帯が発達するからです。

多くの有蹄類は頭を振りながら、胴体を牽引します。
項靭帯を使って曲突起経由で背骨を牽引するのです。

頭が大きいほど、項靭帯が強力なほど、上部胸椎も長くなります。
頭の振り方は、そのまま種の特徴となります。
会場には映像も流れているので、よく観察してみて下さい。


■ヒトにも項靭帯

項靭帯はヒトにも特徴的に発達します。
ご存知ですか?
われわれも頭を積極的に運動に使ってきたのです。

項靭帯を強く使うときは、顔を前に出すのが定番です。
整体的に言う「肺の力が抜けた状態」でもそうなりますが、
項靭帯を使った状態は、それとは少し違って高い運動性を発揮します。

スポーツでは卓球選手によく見られます。
格闘技ではボクシングです。
おそらくボクシングが一番多用かつ応用されてると思います。

頭の重さを利用して項靭帯に張力を保つことで胸椎に力を保持し、
それを肩甲骨につないでおくことで腕を支え、
頭の動きと連動させて腕を動かすという理屈です。
よく分からないかもしれませんが、この解説はここまでにして、、、


ウマは走るとき頭を横に振ります。
棘突起におけるテンションは上部胸椎に集中するため、
上部胸椎の棘突起に大きな高まりがあります。


ウシの仲間はたいていうつむくように頭を振ります。
バイソンにおいて究極形が見られますが、
棘突起の高まりはなだらかな稜線を描きながら仙骨に届きます。
頭の動きがそのまま全身を引っ張ってる感じが分かります。
ちなみにうつむいた時に一番力が集中するところにツノがあります。
あの運動性がツノを生んだと考えています。


ブラックバックというウシの仲間はウシらしくない走りをします。
会場で詳細な映像が見られます。
背骨を少々曲げ伸ばしするせいか、腰椎の棘突起が少し頭の方に向いてます。
ネコほど背骨は曲げたくない、
でももっと速く走りたい、
そんな思考を感じます。


レイヨウ、アンテロープなどの上に跳ねながら走るグループは、
ツノが直線的で長くなります。
これも選んだ運動が導いた形態と思っています。
もちろん、誰もそんなことは言ってません。
私が思ってるだけです。長いこと思ってたので、今はもう確信しています。


いかがでしょう、
観る楽しみが生まれたでしょうか?
このへんにしますので、興味のある方は会場に行かれて下さい。



私は博物館に行くと、こんな感じでどこか一箇所を見て回ったりします。
なにか見いだせないだろうか、
なにか分かってこないだろうか、
なにか感じ取れないだろうか、
そういう平凡な作業です。

行きつ戻りつしないと差異が見いだせないので、
混んでると、はかどらないのですが、
今回はおそらくたまたま空いてたのでラッキーでした。


哺乳類はわれわれの隣人であり、
かつてわれわれも持っていた運動の感性があるかもしれず、
あるいは身につけようとした感性だったかもしれず、
いずれかの時代に感性の方向が二分した仲間かもしれず、
骨格から、その中身を感じ取ろうとするのは個人的には興味深いです。

同様に、
脊椎動物として、
爬虫類の感性を見出すことも興味深いものです。

歴史を掘り起こしてるような、
自分を掘り起こしているような、、
そんな楽しみですね。


■あらためて概要

大哺乳類展2
6/16まで
上野、国立科学博物館
大人 1,600円 当日は常設展も入れます。

<リピーターズパスの宣伝>
1,500円で常設展一年間入れます。
先に常設展側でリピーターズパスを買って、特別展に行って下さい。
特別展は大体+980円で入れます。

常設展の料金は600円です。
一年以内に3回来れば元が取れます。
元が取れなくても、1,500円なら科博に出資しよう、という考えもありだと思います。

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