『太鼓持あらい』、正確には『「間」の極意 』
タイトルに魅かれて読んでみたら非常に面白かったです。
以下松岡正剛氏の書評を引用させていただきます。
客がお座敷で遊ぶときに、その酒や料理や話や遊びの「間」を助けるのが太鼓持ちなのである。
むろん一人で「間」をとってはいけない。まず客と客との「間」があり、客と女将との、客と芸者衆との「間」もあって、それらの「間」をうまく捌いて、出入りする。その絶妙を何によって保証していくかというのが、太鼓持ちの芸と勝負手になっていく。
芸者と「拳」や「金毘羅ふねふね」「どんたくさん」などの浮いた遊びをしているときは、いい。みんなと交じってはしゃげばよろしい。芸者さんが芸をしているときもいい。これは邪魔をしてはいけない。太鼓持ち本人が「えびす大黒」や「三人ばあさん」をやっているときも、むろんいい。これは芸を見てもらうところだから、「それじゃひとつ」とさっとやってみせるにかぎる。
難しいのは平場で酒を酌みかわし、料理をつまみながら喋っているときである。ここはひたすら「間」だけが動いている。ここで太鼓持ちはどうするか。むろん法則なんてものはない。ひたすら場に当たって「間」を読んでいくしか修行の方法はない。ようするに太鼓持ちこそ「間の人」なのだ。
※出典 松岡正剛の千夜千冊
何が面白かったかと言いますと、整体操法と似ているのです。
虚と実を行き来しながら、何かを成立させていく考え方は正に整体操法と言えると思います。
手技療法という「実」の技術に間などの「虚」の技術を取り入れて、理論としてはっきり打ち出したのは、おそらく野口晴哉氏が最初と思われます。
そしてこのことが一般的な手技療法との境界線を生んだようです。
「間」というのは日本文化を語る上では欠かせない要素と思われますが、太鼓持の衰退などを見るに、「虚」を生業とすることの難しさを思います。
太鼓持あらい氏はお座敷仕事から、講演など実社会へ活動の場を広げているようです。太鼓持も長い歴史の中で変遷してきたこともあり、あらい氏も現代社会でのあり方を考えられているそうです。
昨今、武術家なども一般社会へのアプローチをしていることもあり、非常に大きな文化の過渡期を感じてしまいます。
整体の仕事も少しずつ変わっていくのかもしれません。
整体操法は高度な技術と思いますが、それを身体操作技術と判断するなら大きな過ちと言えます(もちろん名人クラスの身体操作技術は凄いものがありますが…)。
どんな治療術をするのか?
そんなことをよく聞かれるのですが、私に出来る範囲のことをどれだけ大きなものとして体に覚えてもらえるか、ということをしております。
あっと驚くような身体操作術を使うわけではありません。
時間も短いものです。平均すれば10分程度と思います。
時間制にすれば労働対価として分かりやすいのかもしれませんが、必要なところを診ておりますので、「何分コースで…」ということが出来ません。
日々移ろう季節と人の体があり、生活も平穏無事な毎日ばかりではないと思います。
整体に費やす時間はいずれ短いものです。
そんな中で体の中に深く長く残るものを追いかけております。
虚を生かす。虚から実を生む。
師匠から教わったことですが、はなはだ難しい課題です。
そうとはいえ、この課題に魅了され取り組んでおります。
太鼓持あらい氏の本を読んで、ずい分色々なことを考えさせられました。