2022年2月28日月曜日

 『大衆運動』エリック・ホッファー 『一揆論』松永伍一

 『大衆運動』エリック・ホッファー

新訳が出るとのこと。読みたいですね。この時代に新訳が出るのは意義深いと思います。

ホッファーはなぜ人々が集まって社会運動をするのか?
という単純な疑問から人間の性質や来し方行く末を思索する。
一つ一つの論考が短めに完結していて、含蓄満載なので読み応えがあり、どこから読んでもしばし物思いにふけりたくなる。
過去に二回読んでるが、読んでる時間よりも考え込んでる時間のほうが長い。


同じような本に『一揆論』松永伍一があります。

並べて評する人をほかに知らないが、個人的には同じような本だと思っている。
松永は江戸時代の一揆を、食糧難や幕府への不満でない点で捉える。
人々が、その生きる熱を寄せる場を、その熱を燃やす場を、その熱を昇華させる場を、求めたときに、一揆に収斂される、と論じた。
同様の現象として、松永は「お伊勢参り」をあげている。私には、このあたりのことは全くピンとこない。どうも現代の神社に行くときの心境から推測しても無理なのかもしれない。そういえば「聖地巡礼」は現代でも結構流行っている。宗教的聖地はもともとあるが、そうでないものでも「聖地」に格上げされている。格上げすることで巡礼する人の熱が昇華されるのだろう。


「反ワクチン」という概念が広がりつつあります。

ワクチン推奨側から定義されているのか、反ワクチン側から定義されているのか不明だが、これはひとつの大衆運動になりつつある。諸外国‥主に先進国では「反ワクチンデモ」が盛んに行われている。日本ではデモは小規模でしかないが、ネット上ではデモに近い盛り上がりを見せている。こういったものも広義には「大衆運動」と言い得ると思う。


「大衆運動」はやがて感覚共有の維持へ向かい、個人の自我は希薄になり、集団自我へと向かいます。

生きる力の源が「共感を続けること」それ自体となり、精神的呪縛に自ら身を投じていくことになる。それは自由を求めた志向を自ら閉ざすことになるが、その点に気づける者は少ない。多くのものが集団自我へと邁進を続けることになる。
こうした集団自我は、本質的には前時代的であり、ムラ社会の思考形態であり、もっとさかのぼって縄文時代の自我形態と言える。


支配者による「大衆運動」が始まっているのです。

グローバル化によって、一般大衆にも世界を感じる機会が増え、インターネットによって遠く離れた人と共感することも可能になった。ここで考えてほしいところが、支配者層の共感機会はもっと高まっていることだ。
コロナパンデミックは一人の人間によって作り出されているわけではない。資本家はもちろん製薬会社、為政者、医者といった「多くの人間」と「多くの組織」が群がり続けることによってによって作られている。正確には作られ続けている。
これはもう「大衆運動」の原理と変わらない。「反ワクチン」なんかとても敵わない強大な「大衆運動」が支配者層に起こっている。この流れに乗れば手に入るもの、支配力、資金力、人脈、、、、その期待が培われた個人の自我を消し去ってゆく…。


集団自我からの離脱は、賢い人でも難しいものです。

支配者層の方が、一般論的には賢い人が多いだろうが、形成された集団自我に取り込まれた人が逃れるのは難しい。オウム事件の時に、「どうしてエリートたちがあんなことを?」といった疑問が社会にあったが、コロナパンデミックにも当てはまることだ。
オウム事件の時にしっかり総括して、主要メディアが社会に発信出来ていたなら、そしてそれを社会が咀嚼できたなら、日本人はコロナパンデミックに踊らされることもなかっただろう。


アフリカの方が先に離脱してます。

ワクチン打つの打たないので争っている先進諸国がある一方で、アフリカでは誰も打ちたがらないのでワクチンが捨てられ始めた。WHOは昨年「3回目接種よりも後進国にまわすべきだ」などと言っていたが、いつの間にかアフリカではワクチンは「いらないもの」となっていた。
私たちが思う後進国は、先進国よりもムラ社会であり、集団自我の世界だ。しかしながらコロナパンデミックにおいては、個人自我を発揮していると言える。
それは人間が「自由」である状態と言える。先進国は文明化の中で「自由」を獲得してきたと思っているが、それは結局「社会的自由」「選択権」といった範囲のもので、「精神の自由」からは程遠いものだったのだろう。


さっさと離れたほうがいいです。

昨今全国に「有志医師の会」がいくつも結成され、医師の側からワクチンに問題提議を掲げるようになってきた。最初は「北海道有志医師の会」が結成された。去年のことだ。その後数ヶ月は北海道だけだったが、ここ二ヶ月でずいぶん増えた。5〜11歳のワクチン接種が本格的に検討されていたことも影響したのだろう。
これまでも薬害はあったし、今も薬害と思われながらも投与されている薬は沢山ある。しかしながら「有志医師の会」が全国に結成されるなど前代未聞だ。コロナワクチンの危険が前代未聞だからと思うがどうだろうか。


自我を育てて下さい。

人間は個人の自我を確立していく動物であり、21世紀の時代であればなおさら個人の自我を確立すべきと思う。なにしろ有史以来数千年が過ぎているのだ。しかしまあなぜか社会が整うほどに、自我無しでも生きていける状況が生まれてしまう。
たとえば受験勉強の勝者となり高学歴となれば、整った社会のレールに乗って生きていける。そこは生命体の安全圏であり、正しいことのように思えはする。しかし考えてほしい。そのレール上のどこで自我が育つだろうか?


ただ単に感染者が多いことを「パンデミック」と定義したから続いているだけです。

かつては感染症が大流行して死者が甚大になることを「パンデミック」と呼んだが今は違う。WHOがなぜか定義を変えた。だから他の風邪ウイルスだって広範囲で調べれば、新しい定義ではパンデミックになる。ほか肺炎球菌、結核菌、常在菌、常在ウイルス、なんだっていい。毒性は関係ない。体から検出されればそれでいい。今回コロナが利用されているに過ぎない。しかも今回PCR検査がなぜか世界基準にされた。検査陽性なら感染者と同義だ。
「それは言い過ぎでは?」と思われるかもしれないが、逆に聞きたい。
「次のパンデミックも疑いませんか?」意地悪かもしれないが、次はもっとひどいかもしれない。
検査陽性者が増えただけで社会を止め、ろくに治験も行っていない薬を幼児から老人、そして妊婦にまで投与しているのが現在だ。疑う人が少なければ、次回はもっとひどいことになるだろう。


もとに戻って『大衆運動』と『一揆論』です。

『大衆運動』エリック・ホッファー
『一揆論』松永伍一

どちらも集団の社会運動を考える上では示唆に富む本。
コロナパンデミックは今後を生き抜くためには理解しなくてはならない教材です。くどいようですが、今後はもっとひどいことがやってきます。「反ワクチン」とくくって思考の外に追い出してる人は危険です。
本当に危険なのは「反ワクチン」ではなく、支配者層を覆い尽くしている「集団自我」です。「ほとんど効かない薬」をみんなで「効く薬」だと主張して譲らないのは、それが「個人の考え」ではなく、「集団の考え」として認証されていると信じているからです。個人ではとても支えられない嘘でも、大勢が「そう思っている」と考えるだけで人間はそれが「本当のこと」と思えるのです。それは誰でも知っていることだと思います。




ホッファーは学校教育はほぼ受けていないが独立独歩の学習と思索を重ねた人。
大衆運動とは対極にあるような人物。
松永は詩人。評論も多い。
一揆論は歴史観ではなく、人間観に基づいて論じられている非常に熱量の高い評論。

自我についてはシュタイナーを読んでほしい。
(最近、縁あってシュタイナーの人智学を学んでます)

2022年2月3日木曜日

新型コロナ オミクロン株 2つ目の結論 すがれる科学はない

新型コロナと呼ばれたウイルスも世代を重ねてオミクロン株にほとんど置き換わったらしい。

現時点での私の見解を書いておく。


◎2つめの結論 すがれる科学はない


▲エビデンスは当てにならない。

「科学データはまぎれのないもの」といった盲信があるが、まぎれだらけだ。だからSNS上では日々論戦が繰り広げられている。
「コロナは怖いもの」であることを信じたければ、それに見合った論文なりデータが出てくる。
「コロナは怖くないもの」であることを信じたくても同様だ。

いずれにしても大切なことがある。
正常な生活を営む意思を持つかどうかだ。なんの意思もないなら科学を用いる必要はない。
「怖いもの」という判定をしても、その中から「怖くなさ」を見出さないと解決策を探し出せない。コロナに限らず、一般論として「無理な理由は限度がない」ので、最初に意思がなければ解決策は見えない。なので見る気がない人には永遠に何も見えない。

▲健康カルチャー

ここ50年で健康カルチャーが確立され、様々な概念が導入された。
しかし大衆の判断能力は上がっただろうか?
一方向の教育はただの思想統制であり、ない方がましかもしれない。「考える」とは常に多元に相互通行を続けることであり、思想に実効性が生まれるには「考える」ことが必要になる。

たとえば「高血圧は危険」という言説は見事に人々の深層意識に入り込んだ。どのくらい危険なのかという教育は行き届かないまま、「高血圧は危険」という一方向の力だけが世の中に生きている。
治療の目的は個人の健康生活にあると思うが、老いも若きも一様に数値で薬が処方される。10年間見直しがなされない人も珍しくない。そして寝たきりになっても血圧を下げてしまう。動かない人の血行が悪くなるのは素人でも分かることなのに、当たり前のように血圧を下げるからさらに具合が悪くなる。入院して例えば認知症が始まるのは降圧剤によるものが多い、と私は思っている。

高血圧、高脂血症、悪玉菌、ピロリ菌、、、一方的に悪いと考えてすむほど私たちの体は単純ではない。しかしわれわれはこれまで沢山の健康カルチャーに侵されてきた。調子が悪くなくても血圧を測られ、血液を検査され薬を処方された。それは予防であり、よいこととされた。コロナ騒動も本質的に同じものだ。しかもかつてないほど強大だ。

発症してなくても検査され、陽性ならば発症してなくても隔離された。陰性でも自宅待機させられた。
発症してなければ本人的にはなんの問題もないが、感染拡大を防ぐためと説明された。こうした過剰な防疫も、二年前なら分かるが今となっては理解不能だ。しかも二年経って隔離の網が拡がっている。広げ過ぎて医療従事者が足りないという自家中毒まで起こって、もはや笑い事だが、笑えない事態だ。
防疫は公衆衛生のためにあると思うが、いまやコロナマネーのためにあるようにしか見えない。

▲ワクチン効かない。

「ワクチンは切り札」と言って日本での接種が始まったが、全然そうではなかった。
短期間に2回も接種。「なんで2回も打つんだ」という疑問に対して、「2回打てば完全に免疫ができる」という解答があった。
2回打てば「完全接種」と呼ばれていたが、いまや3回目が始まっている。まだ一年足らずの内にだ。3回目の接種で感染を抑えられているワクチン先行国はどこにもないのに、方針転換をはかる為政者はいないし、多くの人が3回目を打とうとしている。打ちたい気持ちがいつの情報に支えられているのか、自己分析したほうがいい。

打っても感染するし、打っても人に移す。これは日々のニュースでも明らかだが、「打てば移さない」という言説を完全に消すことが出来ない。だからワクチンパスポートが感染対策上有効と思いたがる。政府がその効用を否定して一時停止しても、埼玉県は施策を実行にうつした。一度認めたものはなかなか否定できない。個人レベルでもそうだし、為政者にとっても同様だ。
全体主義に陥っていない点では正常と思うが、埼玉の行方を私は憂慮している。奈良県知事のように蔓延防止にも効果なしと判断されている知事もいる。私は奈良県知事を応援する。

ワクチンは武漢株を元に作られたものであることは、一般メディアでも報じられてきたことだ。そしてオミクロン株のスパイク蛋白は変異が多いことも報じられている。スパイク蛋白を標的にした抗体しか作れないワクチンが、なぜに効果を上げると言い得るのか?誰も答えられないであろう。

ワクチンパッケージ、一時停止へ 政府、オミクロン株拡大で(共同通信) - Yahoo!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/articles/545a67c6e62be0daafcd016031c7349766ab21f9
コロナ直言 蔓延防止に効果なし、「同調圧力」に屈せぬ 奈良県知事・荒井正吾氏(産経新聞) - Yahoo!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/articles/a2ba0f68a75fe9602e5c47cd359f6a7df86f98be

「ワクチンには高い効果がある」と思う人は3回目も打てばよいが、それを強く後押しする科学的データは無い。ワクチン接種においては先頭を走っていたイスラエルも感染拡大が止まらないし、ほか接種率の高い国でも止まっていない。
権力者たちの言説もトーンダウンする一方だ。日本政府はもちろん、WHOも接種開始から一年程度の期間で大分変わった。当初の発言からすれば、ワクチンの効用はすでに聞くに値しない。「ちょっとは効くのだろう」と思って聞いてる人は、自分のバイアスに気づくべきだ。試しに「効かないんじゃないか?」そう思って聞いてみてほしい。

▲デマの数字

若い人のワクチン接種を推奨する理由として、コロナ感染による心筋炎のリスクが説明されていた。感染して843人が心筋炎になったようなグラフを提示したが、それは100万人あたりの数であり、現実には4人(15〜40歳未満)しか心筋炎にはなっていない。
このあたりの数字の扱いは正当なのか?正否の分かれるところであろう。私はデマの数字と思う。
しっかり考えたい人は下記サイトを読んでほしい。

10月15日 厚労省コロワク副作用報告『心筋炎』〜比較の仕方がおかしい〜 | アラフォーたま子の『これでいいのだ♪』 ~面倒くさがり・せっかち・ケチの三重苦だけど〜
https://simple-isj.com/post-8887/
ワクチンと新型コロナの心筋炎報告の実数比較
https://fujikawa.org/covid19/myocarditis.html

▲まとめ

コロナ禍でなにを信じているでしょうか?
二年の月日の中で、様々な状況を信じてしたがってきました。
しかしながら、もう信じなくてもいいことが増えています。
状況を踏まえ、信じなくてもいいことは見直して生きましょう。



2022年1月31日月曜日

新型コロナ オミクロン株 1つめの結論 もう怖がる理由がない

新型コロナと呼ばれたウイルスも世代を重ねてオミクロン株にほとんど置き換わったらしい。

現時点での私の見解を書いておく。

◎1つめの結論 もう怖がる理由がない


▲ただの風邪

重症者数も死者数もただの風邪、もしくはただの風邪以下なので、「すべて正常な日常生活を営む」で問題ない。例えば1/29の東京都の陽性者は17,433人だが、重症者増2人、死亡者3人。これを怖がる根拠は見当たらない。重要なのは重症者と死亡者だ。
「無症状だから怖い」といった言説も、もはやコロナ禍が迷路に迷い込んでいる証拠と見るべきであろう。深読みする必要はない。無症状なら怖くない。あたり前だ。そう思う心を取り戻せばよい。

▲濃厚接触者

多くの人が恐れているのは、濃厚接触者になると著しい活動制限を受けるからであろう。これでは恐怖政治に怯える民衆の構図だ。もはやコロナが怖いのか施策が怖いのか渾然一体となっていて、その手の議論もごちゃまぜに進行する。そのごちゃまぜの議論はすでにエンタメ化しているので、素直にエンタメと知るべきだ。出口のない議論が真理に触れることはない。

▲生ワクチン

重症化がまれとなったなら、罹ったほうが得。生ワクチンみたいなものなので、弱毒株が優勢の内に出歩いて罹ったほうがいい。「まれに重症化するから危険」という言説があるが、それはほとんどの病気に当てはまることなので考慮に値しない。考慮したい人は引きこもるしかないが、外に出る条件を考えておかないとメディアの呪縛から逃れられなくなる。「いつかは外へ出ないといけない」という意思がないと、消極策は永遠に終わらない。
社会的制約の中で最大限を目指すべきだ。

▲正常化への道

大切なのは正常化に向けた行動を選ぶことだ。「問題ない」と感じている人は自由に行動すればいいし、それをとがめる権利は誰にもない。二年前なら両者の摩擦も仕方がないと思うが、なにしろ二年経ったのだ。二年の月日は一般人にとっても十分なデータを提供している。科学論文を読む必要もない事実が身の回りにも蓄積した。「感染すると多くの人が死ぬ」という危険度最大限の想定を聞かされたが、そんな事実は現れなかった。それを責める気はない。しかし時は経った。「自粛に意味がない」という判断はもはや奇をてらったものではない。普通の人が普通に異を唱えるようになってきている。

▲風邪の今昔

「老人を守れ」という声も二年を過ぎると実効性を疑わざるを得ない。引きこもっている内に寿命が来たら元も子もない。オミクロンは老人にとっても「まれに重症化」するだけで、過度な警戒は無用だ。そもそも風邪は「まれに重症化」するものなので、老人が肺炎で亡くなるのは自然死のひとつに過ぎない。思い出してほしい。コロナ以前は誰もがそう思っていたはずだ。それは暗黙の了解だったはずだ。この二年のあいだに認識が変わってしまっただけだ。今の認識が正常か、以前の認識が正常か、個々人で判断すべきだろう。なんとなく過ごすのは危険な時代になっている。

▲スローガンが深層意識に

「孫が祖父母に移したら一生の後悔」といった想定も無用だ。こういうものはいくらでも想定できるので、思想統制のスローガンになってるに過ぎない。本当の緊急事態ならばスローガンを有効に使うのが望ましいが、大した事態ではないと分かったので、もう捨てて構わない。そもそもスローガンというのは賞味期限のあるものなので、ずーっと信じてる人は深層意識に入りすぎた人だ。なのでいつまでもこれを唱えているのは思考が囚われているか、なんらかの得をしたいかのどちらかであろう。得しない人は逃げたほうがいい。無駄な思想は牢獄と一緒だ。得する人が鍵を開けてくれることはない。

▲自分で分析を

日々のニュースで感染者数と重症者数と死亡者数が報告される。重症者の数はもはや発表するに値しないほど少ない。しかし一気に増えるという不安を抱えている人は、少なくても多くても不安だ。すでに数の問題ではなくなっている。どうしても怖いなら細かく分析して考えてほしい。下記サイトが役に立つだろう。調べる大前提として、コロナ以外の病人のほうが圧倒的に多いことは忘れないでほしい。自分が怖いと感じる他の病気と比較するといい。

新型コロナウイルス 国内感染の状況 | コロナウイルスの恐怖 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース
https://toyokeizai.net/sp/visual/tko/covid19/

▲超過死亡

2020年。新型コロナが本格的に流行した最初の年。
「一体どこまで死者が増えるのか?」そうした不安が社会にあった。
「カウントされていないコロナ死がどれだけいるか分からない」そうやって恐怖を煽られた。
「捕捉されていないコロナ死は2020年の超過死亡にあらわれてくるだろう」見識のある人たちがそう言っていた。だから例年よりも増えた死亡者の内訳を気にしてる人たちがいた。
しかしどうだろう。2020年の超過死亡は減ったのだ。
「コロナ死は増えたけど他の死が減った」そう解釈するしかない事態だ。
総括するとすれば、どうなるだろう?
人流を抑えれば他の死が減るなら、自粛は「対コロナ」ではなく、「対他の病気」の効果なのか?
自粛なしで過ごしても総死亡者数に大きな影響はないのでは?
様々な疑問が浮かぶが、いずれにしても「対コロナの自粛」を社会の正解とする結果は見えない。

新型コロナ: 年間死亡数11年ぶり減 コロナ対策で感染症激減: 日本経済新聞
https://www.nikkei.com/article/DGXZQODG228660S1A220C2000000/

▲コロナ死

コロナ死者数はそもそも多めにカウントされている。
別の病気で亡くなっても感染者はコロナ死となる。死因が何であるかは関係ない。陽性者の死はコロナ死としてカウントされる。事故死も、死後の検査で陽性だとコロナ死だ。
理不尽なようだが、これは新規の感染症ということで、最大限広く捕捉しようという意図がある。当然の方策だ。しかしだからこそ数字の素性を知る必要がある。数字の素性なしに思考し、作戦を立てるのは愚かなことだ。二年も経てば正体が見えてくる。一般人でも推測可能な正体だ。

▲コロナ死 諸外国

ポルトガルでもドイツでも、コロナ死の水増しが問題になっている。コロナ死者数で煽って、強硬政策が実施されるからだ。世界中、少なくとも先進国は似たりよったりの異常事態だ。数字の素性に気づいた人たちは怒りが収まらない。もう二年前とはフェイズが違うのだ。最大限にカウントする理由が問われる段階だ。

ベルリンの独立した健康調査機関の責任教授は、7月初旬以降に独で報告されたCo◯idの公式死亡事例の80%は「コ◯ナが死因ではない」と発表/「コ◯ナ死亡者の大半が何で死亡したかを明らかにしていない。統計は歪められている」 | Total News World
http://totalnewsjp.com/2021/08/31/covid-11/
ポルトガル政府がCOVID-19の死亡統計を捏造との判決/裁判所:「政府発表は17,000件のところ、実際のCOVID死亡者は0.9%の152件/PCR検査の97%は偽陽性」 | Total News World
http://totalnewsjp.com/2021/06/29/covid19-79/

▲まとめ

警戒心というのはなかなか解けない。その方がいいかもしれない。
「石橋を叩いて渡る」
その警戒心を使って石橋を渡ってほしい。
渡る気のない人が渡れる日が来るのか、来ないのか?
私は渡れない人を憂慮している。

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