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2022年2月28日月曜日

 『大衆運動』エリック・ホッファー 『一揆論』松永伍一

 『大衆運動』エリック・ホッファー

新訳が出るとのこと。読みたいですね。この時代に新訳が出るのは意義深いと思います。

ホッファーはなぜ人々が集まって社会運動をするのか?
という単純な疑問から人間の性質や来し方行く末を思索する。
一つ一つの論考が短めに完結していて、含蓄満載なので読み応えがあり、どこから読んでもしばし物思いにふけりたくなる。
過去に二回読んでるが、読んでる時間よりも考え込んでる時間のほうが長い。


同じような本に『一揆論』松永伍一があります。

並べて評する人をほかに知らないが、個人的には同じような本だと思っている。
松永は江戸時代の一揆を、食糧難や幕府への不満でない点で捉える。
人々が、その生きる熱を寄せる場を、その熱を燃やす場を、その熱を昇華させる場を、求めたときに、一揆に収斂される、と論じた。
同様の現象として、松永は「お伊勢参り」をあげている。私には、このあたりのことは全くピンとこない。どうも現代の神社に行くときの心境から推測しても無理なのかもしれない。そういえば「聖地巡礼」は現代でも結構流行っている。宗教的聖地はもともとあるが、そうでないものでも「聖地」に格上げされている。格上げすることで巡礼する人の熱が昇華されるのだろう。


「反ワクチン」という概念が広がりつつあります。

ワクチン推奨側から定義されているのか、反ワクチン側から定義されているのか不明だが、これはひとつの大衆運動になりつつある。諸外国‥主に先進国では「反ワクチンデモ」が盛んに行われている。日本ではデモは小規模でしかないが、ネット上ではデモに近い盛り上がりを見せている。こういったものも広義には「大衆運動」と言い得ると思う。


「大衆運動」はやがて感覚共有の維持へ向かい、個人の自我は希薄になり、集団自我へと向かいます。

生きる力の源が「共感を続けること」それ自体となり、精神的呪縛に自ら身を投じていくことになる。それは自由を求めた志向を自ら閉ざすことになるが、その点に気づける者は少ない。多くのものが集団自我へと邁進を続けることになる。
こうした集団自我は、本質的には前時代的であり、ムラ社会の思考形態であり、もっとさかのぼって縄文時代の自我形態と言える。


支配者による「大衆運動」が始まっているのです。

グローバル化によって、一般大衆にも世界を感じる機会が増え、インターネットによって遠く離れた人と共感することも可能になった。ここで考えてほしいところが、支配者層の共感機会はもっと高まっていることだ。
コロナパンデミックは一人の人間によって作り出されているわけではない。資本家はもちろん製薬会社、為政者、医者といった「多くの人間」と「多くの組織」が群がり続けることによってによって作られている。正確には作られ続けている。
これはもう「大衆運動」の原理と変わらない。「反ワクチン」なんかとても敵わない強大な「大衆運動」が支配者層に起こっている。この流れに乗れば手に入るもの、支配力、資金力、人脈、、、、その期待が培われた個人の自我を消し去ってゆく…。


集団自我からの離脱は、賢い人でも難しいものです。

支配者層の方が、一般論的には賢い人が多いだろうが、形成された集団自我に取り込まれた人が逃れるのは難しい。オウム事件の時に、「どうしてエリートたちがあんなことを?」といった疑問が社会にあったが、コロナパンデミックにも当てはまることだ。
オウム事件の時にしっかり総括して、主要メディアが社会に発信出来ていたなら、そしてそれを社会が咀嚼できたなら、日本人はコロナパンデミックに踊らされることもなかっただろう。


アフリカの方が先に離脱してます。

ワクチン打つの打たないので争っている先進諸国がある一方で、アフリカでは誰も打ちたがらないのでワクチンが捨てられ始めた。WHOは昨年「3回目接種よりも後進国にまわすべきだ」などと言っていたが、いつの間にかアフリカではワクチンは「いらないもの」となっていた。
私たちが思う後進国は、先進国よりもムラ社会であり、集団自我の世界だ。しかしながらコロナパンデミックにおいては、個人自我を発揮していると言える。
それは人間が「自由」である状態と言える。先進国は文明化の中で「自由」を獲得してきたと思っているが、それは結局「社会的自由」「選択権」といった範囲のもので、「精神の自由」からは程遠いものだったのだろう。


さっさと離れたほうがいいです。

昨今全国に「有志医師の会」がいくつも結成され、医師の側からワクチンに問題提議を掲げるようになってきた。最初は「北海道有志医師の会」が結成された。去年のことだ。その後数ヶ月は北海道だけだったが、ここ二ヶ月でずいぶん増えた。5〜11歳のワクチン接種が本格的に検討されていたことも影響したのだろう。
これまでも薬害はあったし、今も薬害と思われながらも投与されている薬は沢山ある。しかしながら「有志医師の会」が全国に結成されるなど前代未聞だ。コロナワクチンの危険が前代未聞だからと思うがどうだろうか。


自我を育てて下さい。

人間は個人の自我を確立していく動物であり、21世紀の時代であればなおさら個人の自我を確立すべきと思う。なにしろ有史以来数千年が過ぎているのだ。しかしまあなぜか社会が整うほどに、自我無しでも生きていける状況が生まれてしまう。
たとえば受験勉強の勝者となり高学歴となれば、整った社会のレールに乗って生きていける。そこは生命体の安全圏であり、正しいことのように思えはする。しかし考えてほしい。そのレール上のどこで自我が育つだろうか?


ただ単に感染者が多いことを「パンデミック」と定義したから続いているだけです。

かつては感染症が大流行して死者が甚大になることを「パンデミック」と呼んだが今は違う。WHOがなぜか定義を変えた。だから他の風邪ウイルスだって広範囲で調べれば、新しい定義ではパンデミックになる。ほか肺炎球菌、結核菌、常在菌、常在ウイルス、なんだっていい。毒性は関係ない。体から検出されればそれでいい。今回コロナが利用されているに過ぎない。しかも今回PCR検査がなぜか世界基準にされた。検査陽性なら感染者と同義だ。
「それは言い過ぎでは?」と思われるかもしれないが、逆に聞きたい。
「次のパンデミックも疑いませんか?」意地悪かもしれないが、次はもっとひどいかもしれない。
検査陽性者が増えただけで社会を止め、ろくに治験も行っていない薬を幼児から老人、そして妊婦にまで投与しているのが現在だ。疑う人が少なければ、次回はもっとひどいことになるだろう。


もとに戻って『大衆運動』と『一揆論』です。

『大衆運動』エリック・ホッファー
『一揆論』松永伍一

どちらも集団の社会運動を考える上では示唆に富む本。
コロナパンデミックは今後を生き抜くためには理解しなくてはならない教材です。くどいようですが、今後はもっとひどいことがやってきます。「反ワクチン」とくくって思考の外に追い出してる人は危険です。
本当に危険なのは「反ワクチン」ではなく、支配者層を覆い尽くしている「集団自我」です。「ほとんど効かない薬」をみんなで「効く薬」だと主張して譲らないのは、それが「個人の考え」ではなく、「集団の考え」として認証されていると信じているからです。個人ではとても支えられない嘘でも、大勢が「そう思っている」と考えるだけで人間はそれが「本当のこと」と思えるのです。それは誰でも知っていることだと思います。




ホッファーは学校教育はほぼ受けていないが独立独歩の学習と思索を重ねた人。
大衆運動とは対極にあるような人物。
松永は詩人。評論も多い。
一揆論は歴史観ではなく、人間観に基づいて論じられている非常に熱量の高い評論。

自我についてはシュタイナーを読んでほしい。
(最近、縁あってシュタイナーの人智学を学んでます)

2021年10月3日日曜日

新型コロナ、現状の把握2

含みを持たせると分かりにくくなるので、今回も断定調。
様々な意見があってしかるべきだが、多くの人が危険な方へ向かっている気がしている。
言いにくいことだらけだが、書くことにした。
分断を煽るのは本意ではない。


「コロナはおそらくただの風邪」

現在はこの認識。著しい重症化率、致死率ではない。しかし新しいのでどうしても高齢者は弱い。
「ただの風邪」の上下どのくらいの振れ幅なのかは気にしている。
2020年初頭から気にしてきたが、新型コロナが際立って毒性が高いとは思えない。

「風邪は万病の元」なので、通常の風邪でも重症化する人は一定数いる。また普通の風邪であっても、経過のさせ方が悪い人は予後も様々な体調不良が続く。これは今までの医療では捕捉されていない問題。なので比較が出来ないのだ。私は風邪を観察してきたので「コロナ後遺症」は「風邪後遺症」に過ぎないと見る。

インフルエンザとの比較では、若年層はインフルエンザのほうが重症化しやすい。

コロナ以外が原因で亡くなっても、コロナに感染していると、死因がコロナになっているのはおかしい。

総合的に判断すると、「ただの風邪ではない、コロナは怖い病気」とする積極的な根拠が見当たらない。

以下はいずれも厚労省HPからダウンロード出来るPDF。

 新型コロナウイルス感染症 の“いま”についての 10 の知識
  https://www.mhlw.go.jp/content/000788485.pdf

 (修正)【資料3-1】鈴木先生提出資料
  https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000662183.pdf


「ワクチンは打たないほうが良い」

基礎疾患のある人は個々人の判断でいい。
すでに打った人でも、3回目を打つ必要はない。
何度も打っていたら、いつか死ぬ。

コロナワクチン 副反応データベース検索
 https://covid-vaccine.jp/
 定かではないが、集団接種のデータは入ってない模様。

大阪 コロナ感染の10代男性死亡 “10代の死亡例は報告ない” | 新型コロナウイルス | NHKニュース
 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210908/k10013249831000.html
 2021.9.8 コロナウィルスによる日本で初めての10代の死亡が大きく報道された。

 しかしその前にワクチン接種で16歳の男性が亡くなっていたことは報道されていない。こうしたことがあると、ワクチンの怖さをマスコミも含めてみんなで隠しているんじゃないかと疑ってしまう。仮りに隠していないにしても、自分で調べるしかないと思わされる。

厚労省 000838210.pdf
 https://www.mhlw.go.jp/content/10601000/000838210.pdf#page=846
 2021.8.16 オリンピックの最中、ワクチン接種後に16歳男性が死亡。
 (接種後6日、心停止)


「みんながワクチンを打っても集団免疫は獲得されない」

諸外国の先例からして、集団免疫が確立しないことは明白。


「ワクチンパスポートで感染拡大」

ワクチン接種者も相当数が感染すると分かってきたので、パスポート施策は感染拡大を助長するだけ。


「超過死亡とワクチン」

ワクチン死の因果関係は判定が難しいと思う。一般に薬はみなそうだ。
補償問題になるからということもある。
しかしこれは大事な問題なので、推計でもいいから把握しておきたい。
超過死亡から推計しているサイトは他にもあったが、以下のサイトはとても丁寧な計算をされている。非常にありがたい。

異常な超過死亡とその原因 ~人口動態統計の分析~
 https://note.com/info_shinkoro/n/nc9b6eed433de


「起こりうる危険は学ぶべき」

ワクチン打たない⇒非常識⇒ダメ
といった図式は一旦置いといて、打つ人は打たない人よりも学んでおく必要がある。
往々にして打つ人は副反応について調べていない。
(打つならリスクを見据えてからにしてほしいと願う)

数々の副反応がなぜ起こっているのか、気にはならないだろうか?
以下のサイトは非常に丁寧に説明されている。

荒川央 (あらかわ ひろし)|note
 https://note.com/hiroshi_arakawa


「パンデミックもコロナ禍も来てない」

自分の周囲で多くの人々が亡くなるならパンデミック、もしくはコロナ禍と言える。
そんな事態は起こっていない。
世界中の人が風邪を引いたからといって、それをパンデミックとは言わない。

しかしながら、仕事がなくなった人、売上が下がった人、家族の最期に会えなかった人、こうした人はいくらでもいる。こうなってくると「コロナ禍」は虚言妄言の扇動用語に過ぎず、政府・分科会・御用学者がオオカミ少年に見えてくる。


「人々の認識が変わらないかぎり終わらない」

コロナの終息は来ない。コロナウィルスがいなくなることもない。
自分が自然界の生き物であることを見つめ直すべき。


「なにがどうなれば終息なのか」

諸外国には、日本の感染状況に危機感を覚えない人も多い。
立ち位置を変えれば、危機感を覚えない。自らの立ち位置を動かして、より正しい場所に立たなければならない。


「スーパー耐性菌同様、スーパーコロナウィルスが出現する」

抗生剤の乱用でスーパー耐性菌が出現した。あらゆる抗生物質が効かないのだ。
コロナワクチンは短期間のうちに大量接種されている。前代未聞の事態だ。スーパーコロナウィルスが出現する可能性が増えるばかり。
集団免疫が確立されないことが分かった以上、ワクチンは必要な人に絞るべきだ。


「新たな遺伝子ワクチンも受け入れてしまう」

今後多くの遺伝子ワクチンが開発されることが予想される。
HIVの遺伝子ワクチンも開発が進められている。
いずれ“問い”を立てることも忘れてしまうだろう。


「遺伝子書き換えワクチンも受け入れてしまう」

遺伝子組み換え大豆は食べないが、遺伝子ワクチンは受け入れてしまうのはどうしてか。
遺伝子ワクチンは人間のDNAを書き換えないとされている。
もしも書き換えてくれたなら、ワクチンを何度も打たなくて済む。
遺伝子書き換えワクチンが開発されれば、打つのが正しいと思うようになるだろう。
そしてワクチンである必要もなく、全ての病気、未病のものも含め、「遺伝子書き換え薬」が開発され、投与されるようになるだろう。


「デザイナーベビーは反対だが・・・」

世界的に禁止の空気はあるが、遺伝子操作された赤ちゃんが生まれたことは周知の通り。
後天的に操作することは、今後どうなるのだろうか。現在進行形で人々の認識が変わってきている。


「歯止めは自分で用意する」

人間にとってなにが正しいのか、判断するのは政府ではないし、製薬会社でもない。個々人にかかっている。
私は遺伝子ワクチンは、人間にとって極めて危険な一歩と思っている。
なので私は使いたくない。新型コロナの病原性ならそもそも不要と判断する。
そしてどういった事態になったなら使うべきなのか、自問自答している。


2021年5月17日月曜日

 新型コロナ、現状把握と今後の予測

 新型コロナ、現状把握と今後の予測。大きな変更があったら書き直す。

個人的見解。分かりにくくなるのでザックリ断定気味です。


SARS MERSというコロナウィルスは、毒性が高かったので人々の活動が抑止され、自然終息に向かった。

 ○毒性が高い⇒人の活動抑止力が高まる⇒感染拡がりにくい


新型コロナは毒性が低くなったので、人々の活動抑止力も低下した。もう自然終息は起こり得ない。

 ○毒性が低い⇒人の活動抑止力が低くなる⇒感染拡がりやすい


今後も拡大を続け、毒性は下がり、致死率も下がっていく。
コロナウィルスが生き残りをかけて学習した、、、のかどうかは分からないが、これまでの流れを学んでいるかのような感染拡大状況がある。反対に人間はこれまでの流れを学習していない。

 ○今後も感染は拡がる


引きこもっていてもコロナのない世界がやってくることはないので、必要な活動は維持しないと人生レベルの後悔となる。
また新しい微生物に出会わない生活は、あらゆる微生物への対応力を低下させる。要するに感染したとき弱くなる。コロナはもちろん、日和見感染も増える。

 ○人流抑制は長期になると人を弱くするだけ


ワクチンは重症化の可能性が高い人には短期的に有効。
変異株が増え続けるのでワクチンによる集団免疫は成立しない。一過性、局所的に成立するだけ。現行ワクチンはいずれ効かなくなる。有効期間は数カ月〜二年。
世界中にこれだけ拡がっている感染症に、ワクチンが効き続けると考える方が暴論。
ワクチン打っているがゆえに、無症状のままウィルスを拡散することがある。

 ○ワクチンに過度な期待をするのは危険

 ○周囲のためにワクチンを打つ意味は一過性のもの


ほとんどの人は感染しても重症化しない。
コロナウィルスに弱い人が重症化する。割合は0.1〜10%くらいか。
こうした人が亡くなっていくにつれ、死亡率は下がる。

 ○重症化の可能性が高い人への対策が手薄過ぎる


今後も患者は増え続けるので、医療体制が拡充しない限り安全ではなく、当然安心は生まれない。
従来からある肺炎治療が有効なのだから、広く実施出来るようになれば助かる人は多い。

 ○安心な世の中は、ワクチンより余力ある医療体制


整体的な対応は、呼吸器を強くする、免疫力を強くする、などなど診立てに応じて行っております。
コロナだからといって、とくに変わりないですね。



2019年9月29日日曜日

正しいことを言われると、、、正論と正解

「正しいことを言われると言い返せないのよ…」
なるほどそういうのもあるのか……
妻に言い返されてしばし考え込む。


私は弁が立つように思われることもあるが、論戦が苦手だ。口喧嘩はさらに苦手だ。
こういうときに思わず考え込んでしまうからと思っている。
そもそも論戦も口喧嘩も好きでない、というのもある。
負かすことが目的の論戦は暴力よりも卑しく、暴力よりも遺恨をのこすことが多いと思っている。

論破することに執着して勝ち名乗りを上げられても、なにやら人格上の問題を感じざるを得ない。
殺人事件でも、執拗な暴力の痕があれば、加害者には常軌を逸した精神性を想わされる。
破壊に対する極端な執着は、暴力衝動も論破衝動も同じ根を持つことがほとんどであろう。
しかしながら執拗な口撃というのは、暴力にくらべてタガが外れやすいようだ。
現代は暴力への抑制が効きすぎているのだろう。口撃がそのはけ口になってしまったように見える。

ネット上、メディア上の言いたい放題を散見しながら、ふとそんなことを思う。
正論であれば限度を超えて行使してもよいと思っているように見える。
あおり運転を非難する声なら、いくら煽ってもいいと考えるのだろうか。
はじめは小さな声であろうが、弱者が強者に変わる瞬間を知らないのは罪なことだ。


子どもと大人が相撲を取る。
大人が勝つのはかんたんだ。
しかしそれでは面白くない。
たがいの力が拮抗するように取り組む。
拮抗させるのは大人の役目だ。
大人は子どものあの手この手を引き出し、うまいこと受けながら拮抗状態を保つ。
そうやって釣り合うところで勝負していると、お互いに得るものがある。
釣り合いをとるのはかんたんなようで難しい。
大人は応じる技量と許容範囲を広げるにはいい訓練だと思う。

勝つことしか頭にない大人は拮抗状態をつくれない。
勝つことしか頭にない子どもは、勝てばいいんだ、とばかりに突然つねったりする。
それがゼッタイだめとは思わないが、ちょうどよくぶつかり合うことを知らずに大きくなってほしくない。
いつもそう願う。

相手と釣り合うところが分からないと、他人となにかを生み出すことができない。
なにも生み出さないような争いしかできないから、どうしてもすさんでくる。
そんなふうに大きくなってほしくない、そう願う。

子どもを虐待する親がしつけと主張する。
どこまでがしつけでどこからが虐待なのだろう。
それは結局、ぶつかり合いが成立しているのか、破綻しているのか、そこにかかっている。
しつけの内容よりも、押し合い引き合いが保たれていることが重要だ。
力のある子どもであれば、かなりのことにも応じてくる。
力のない子どもであれば、わずかな力でやり取りする。
破綻しないギリギリに迫るには誠実さと真剣さがもとめられる。

非常に正しいことを教えている親。
その親子の情景がどうにも空虚に見えることがある。
親と子の間に押し合い引き合いがないからだ。
正しければいいというものではない。
出るとこまで出ないと人と人の関係は成立しない。
実感のない教育は人を空虚にしてしまう。


子どもの頃、よくプロレスを観ていた。
その頃は分からなかったが、プロレスというのはたがいの力の拮抗状態を保ちながら、ときどき破綻させるところに面白さがある。
その押し引きを観客の緊張感や期待とともに進行させる、そこにレスラーの技量がある。
真剣勝負うんぬんにこだわって観ていても、プロレスの面白さは分からない。
プロレスは弱ければ論外だが、下手もまた論外だ。

議論の場も同じであろう。
話し合いであるのなら、勝てば官軍というのは甘い考えだと思う。
無闇な勝ちは、次の火種になるだけというのは誰もが知るところだ。
たがいが拮抗状態に臨み、その瞬間を充たさないと先には進めない。
先を見据えた場であるなら、拮抗する時間を経て、これからを生み出す流れにもっていかないといけない。
少なくともその努力がないと話し合いとはならない。非常に体力のいることだ。


話は少し飛ぶが、ライオンは百獣の王でもなんでもない。
象にも牛にもよく負ける。
人間は不思議なもので、無敵という究極を見たいと願う。
絶滅した動物にも無敵を願う。絶滅しているから尚更というのもある。
ティラノサウルスが腐肉を漁っていた、などという言説は許せない、という人も多い。
そういう願望で学説が誘導されたりもする。
科学といえど、人間の欲望願望はつきまとう。

夢を見たいところではあるが、残念ながら自然界では無敵の動物は生き残れない。
これは自明の理であり、現実だ。
仮りにいたとしたなら、そいつは全てを狩りつくしてしまうだろう。
繁栄しすぎて飢えて絶滅するしかない。もしくは同族間で争う道しか残されない。
ヒトの現状はおおむねここにあたる。

ライオンが生きているのは、周囲を壊滅させない程度に強かったからにすぎない。
生存環境内で一定レベルの強さを許されているが、最大限には許されなかったから生きてこられた、というわけだ。

人間は一方的で執拗な攻撃をする。限度を超えた勝ちを積極的にひろおうとする。
チンパンジーもそうだ。

人間が極端な力をもとめるのは自然なことと思っているが、
それをどのくらい使うのかは、これまた人間の知恵として大切なことだ。
そう信じる以外、人間の道はない。
勝ち負けゼロが自然の摂理、これは曲げようがない。


冒頭の妻とのやり取りはもう10年以上も前になる。
なにでもめたのかは思い出せない。
しかし妻のセリフだけたまに思い出してしまうので、なんとなく戒めとして機能している。

適度というのは難しいものですね。
私にとってもいつも課題です。

2019年8月7日水曜日

山梨紀行 その2 薮内正幸美術館

薮内正幸の名前は知らなくとも、その動物画を見たことがない人はいないでしょう。
絵本から専門書まで幅広く活躍された方です。

薮内正幸 at DuckDuckGo

薮内さんの絵は、学問的な正確さを持ちながら、生命力を感じさせるところがすごいのです。
活躍の舞台が多岐に及ぶのはそうしたところからもきてるのでしょう。


さて美術館。
見覚えのある「動物の親子」の作品がだだだっと並んでおりました。
母親が子どもをくわえていたり、子どもが後ろをついていったり、、、
母と子の情景に、人間と変わらないものを感じます。

おぉ!と思ったのは、薮内氏が中学時代に模写した鳥類図鑑。
しっかりとした基礎力のあるイラストでした。

薮内氏の魅力のひとつとして、叩き上げ感と縁に導かれた人生があります。
膨大な作品数を誇りますが、絵を専門に学ばれたことなしに業界に入り、周囲の人々の支持と応援を受けながら大成された方なのです。
そんな薮内氏の黎明期を模写から感じ、しばし感慨にふけりました。


業界入り。
その始まりは13歳の頃にはじまる今泉吉典との文通にある。
(今泉吉典は有名な動物学者一族の初代)
薮内はイラスト入りの手紙を今泉に送り、今泉はそのイラストが着実に上達していることを見逃せなかった。
そんな折、福音館編集長が無名の動物画の描き手を探しており、薮内の高校卒業時期に重なったことから、今泉の推薦を受け福音館入りした。
薮内は研究者を望んでいたようであるが、編集者の熱心な説得に最後は応じたかたちとなった。
福音館に入り、最初の一年は今泉が館長を務める国立科学博物館に日参し、骨と剥製のデッサンに明け暮れた。。。


美術館には、今泉氏が薮内氏を福音館に誘う手紙も展示されています。
人生の分岐点を思わざるをえません。

私はつねづね思うのですが、興味のあること、好きなことがあるのなら、とりあえずその方向に行動し、生きればいいと思います。縁があれば色々とつながっていくものでしょう。それが充実した、その人の人生と思います。
達成度だけにとらわれると、誰の人生を生きてるのか分からなくなってしまいます。
薮内正幸の人生に触れて、あらためてそんなことを思いました。


面白い展示物、、、
ウラヤブ通信なるものがありました。
薮内氏が原稿とともにシャレの利いたイラストを編集者に渡していたそうです。
身内だけの楽しみとして、“ウラヤブ通信”と名付けられていたようです。
グッズ売り場に、ポストカード化して売られてました。ちょっと迷いましたが、買ってません。

グッズ売り場は個人の美術館としてはかなり充実してます。
点数がすごいのです。ファンの方はぜひ足を運んで見て下さい。

【参考】
薮内正幸美術館
WikiPedia 薮内正幸
WikiPedia 今泉吉典


追記、、、

美術館を出て、国道20号を南下。
数キロ行くと、左側に「ドライブインやまびこ」
一瞬廃屋にも見えましたが、入り口に営業中の看板。
そこでお昼ご飯。
ふつうに作ったふつうのものが食べたい方にはおすすめします。
アジフライとお味噌汁が美味しかったです。
うどんは味が濃いめですが、夏にはちょうどいいですね。

食事処が豊富にある地域ではないので、遠方からくる人はある程度候補を見つけておくのがベターです。

2019年8月2日金曜日

信玄堤、行ってきた。いにしえの治水事業。

古(いにしえ)の治水技術にそこはかとなく惹かれるものがあり、親戚を訪ねた折に立ち寄ってきました。

【ざっくり解説】
山梨県甲斐市竜王町。釜無川と御勅使川の合流地点。
古代から氾濫原であり、定住には適さない。
武田信玄(1521-1573)の指揮で治水事業が行われた。

いくつかの治水技術が併用された。
・川の流れを変えて勢いを弱めるー将棋頭
・川の流れを岩にぶつけ、勢いを弱めるー高岩
・川岸から少し飛び出すように丸太を三角錘に組み、勢いを弱めるー聖牛
・堤防に切れ目をつけて、水を逃がすー信玄堤(霞堤)
など


信玄堤に惹かれたのは、洪水を起こさないことよりも、洪水をある程度許し、導くことで肥沃な土壌を確保する点です。
化学肥料生産技術が発達して、川が運ぶ肥沃な土壌などというものは過去のものに感じるわけですが、化学肥料に負う割合が増えすぎて、野菜の栄養価は確実に下がってきているという現実があります。
かといって洪水は怖いですから、人間の営みと折り合いのつくところはないのだろうか?とたまに考えておりました。

ちょうど水道事業にたずさわっている方が整体に来られていたので、洪水を許す治水設計は可能か?などと話しておりました。それから数カ月、新聞で霞堤(かすみてい)の存在を知り、信玄堤(しんげんづつみ)という名で山梨に現存することを知りました。
感激でした。今も機能しているのですから。

ご無沙汰しているイトコに会いたくもあり、足を運んだしだいです。
さて、古の知恵を感じられるでしょうか、、、

駐車場から土手に上がり、周囲を見渡す。
川の流れを感じ、水の暴れ方を想う。
流れの治め方が浮かんでくるだろうか、、、

古の人々の感性ってどんなものなのか。
ぼーっと突っ立って眺めたり、散策してみたり、、
その場所に、なにかすこし、馴染んでいけるだろうか、、
と試みました。

結論から言うと、うまく行かず。
朝の9時からたくさんの蚊に刺されて終わりました。
家族と一緒だったこともあり、滞在時間は30分程度。
流域全体を俯瞰的に散策すると、おそらく3時間はかかるでしょう。
また機会があったら、散策してみます。

治水技術を学ぶだけであればネットで足りるのですが、現地まで行く機会があったのですこし深いところまで学べるかな、などと考えてしまいます。


整体の技術もそうなのですが、身になるように学ぶのが難関です。

こうすれば、ああなる、ということが最初は刺激的なのですが、
それだけを繰り返していても、一向に身につく感触はやってきません。
要素をあつめても総体にはたどり着かないわけです。

それでも多くの人の学習、、、これはなにも整体に限ったことではないですが、、、
こうすれば、ああなる、を覚えることで正解にしていきます。
才能のある人は最初からそんなふうに学んでいないだろう、
と凡人の私ですが思うのです。

治水技術も、こうすれば、ああなる、を見て楽しみましたが、
この地で水を治めようとした人は、何をどう見たのだろう?どう感じたのだろう?
というところをちょっと感じてみたいですね。
あいにくよく分かりませんでしたが、ひとまず今回は満たされました。
今後、川を見て、見えることが増えてきたなら成果あり、ということになります。


【観光案内として】
信玄堤公園に無料駐車場があります。
信玄堤公園トイレのあるところです。
あずま屋もあります。

【参考サイト】
過去に学ぶ~甲府盆地の治水システム(スマートフォン版)|JFS ジャパン・フォー・サステナビリティ
甲府市/甲府にもあった「信玄堤」
信玄堤 - Wikipedia
霞堤 - Wikipedia

2019年7月19日金曜日

【本が好き】流山市 木の図書館へ

毎週図書館に行きます。
十年来通っています。

今回はちょっとヘビーです。
相互(県内取り寄せ)がいっぺんに六冊来まして、ありがたいやらしんどいやら。
ほとんどの本は一週間で返しますが、今回は二日で一冊のペースが増えそう。
ここにある本を全部知ってる人はさすがにいないはずですが、
全ての本が心の琴線に引っかかる人もまれでしょう。いるとしたらかなり変わり者ですね。

どうして借りたのか、あるいは読む前の思い入れ、、、

『私は見た!昭和の超怪物』黒崎健時
とある人が教えてくれました。
“怪力法”を創始した若木竹丸と対談してるとのこと。
ふつうの人から見れば黒崎健時も超怪物なので、読む前からヒリヒリします。
表紙は黒崎健時、、、『必死の力・必死の心』を踏襲したんでしょうか。『必死の力・必死の心』は高校生のときに五回、成人してからも五回は読みました。読むと生理的限界を超えたくなる本。そういう本が減りました。

『東洋の神秘 〜ザ・グレート・カブキ自伝』ザ・グレート・カブキ
名著です。
発売当時、本屋で何度も立ち読みしたけれど、結局買ってません。ちょっと申し訳なく思います。
「プロレスは立ち位置なんだ」という教訓はそのまま人生訓として読めます。
題材がプロレスでなければ、ベストセラーになってもおかしくないほど箴言に満ちた本。
カブキさんは現在居酒屋を営まれています。
お店は飯田橋なので、神楽坂で整体をやってる頃に何度も行こうと思ったのですが、結局行かないまま春日に移ってしまいました。
しかしなんとビックリ、春日に移転されてました。今度行こうと思います。

『魂の錬金術 エリック・ホッファー 〜全アフォリズム集〜』
ちょっと前にエリック・ホッファー全部読もう!と思い立って、これが最後の一冊。
考え抜いた人、鍛えられた思考力、人間の、人間らしい力を感じさせる人です。
日本で、ホッファーが文化人の中でホットな存在になったのはいつなのだろう?
知ったのが数年前なので、そのあたりリアルタイムな感触はないのですが、今読んでも色褪せるものはないですね。
肉体労働者も当たり前に思索するわけですが、老齢まで肉体労働にこだわった点で稀有な人。憧れますね。

『作業歌 労働とリズム』カール・ビュヒャー
この題材で書かれてる本はおそらくないと思います。
何年か前にいろいろ調べたのですが、この本くらいしか見当たりません。
あえて言えば小泉文夫。民族の歌を蒐集して仕事や作業との関係を論じております。
1970年発行。県内に一冊だけありました。借りたのは私で何人目だろう?
除籍されて廃棄になったらどうしよう、、、心配になります。

『リハビリの夜』熊谷晋一郎
「ケアをひらく」シリーズの一冊です。このシリーズは秀作が期待できます。
ラインナップに読みたいものがたくさんあるのですが、まだ数冊しか読んでません。

『なぜシマウマは胃潰瘍にならないか 〜ストレスと上手につきあう方法〜』R・M・サポルスキー
「シュプリンガー・フェアラーク東京」というすごく長い出版社名。
シマウマの生態が書かれていることを期待している。
それはおそらくないとは思っているけれど、シマウマについて少しくらい触れてないだろうか、と期待がある。
ウマについて書かれたものは多いのですが、シマウマはありません。シマウマは気性が荒く、家畜化できなかったウマです。人間との関わり、その歴史など、知りたいと思っています。

『新選組の哲学』福田定良
自分のコトバさがしをするということは、自分の生活体験から離れずに考えられるようなコトバを見つけるということです。
朝日新聞の「折々のことば」にありました。引用元は『堅気の哲学』福田定良、だそうです。どんな人物なのか気になり、ちょっと前に新選組の出てくる本を読んだので、キーワードが都合二つとなり借りた次第。
この本だけは相互ではないので、読めなければ延長するつもり。

以上

2019年7月10日水曜日

樹木希林 オフィーリア 存在感

樹木希林さんの本が売れてるようですね。
死して尚、というよりも、
いなくなったことが存在感を倍増させている、という感があります。

絵画「オフィーリア」をモチーフにしたあの装丁のインパクトはすごいですね。

誰が考えたのだろう、と感嘆せざるをえません。
このモチーフはCDジャケットなど、数え切れないほど利用されているので、どこかで見たことがあると思われた人も多いでしょう。
しかしこれほどインパクトある形で世に出たものはないのでは。

元ネタの絵画「オフィーリア」は、ミレイ作。川に溺れて死にゆくオフィーリア(シェークスピアの「ハムレット」)を描いたものだ。清流に浮かぶ美しく、生きてるような死んでるようなオフィーリアと、周囲に生気あふれる草花、崩れ落ちたかのような樹木から半分枯れたような枝、生と死の狭間を浮かび上がらせている作品。
装丁もほぼ同じですね。
出版された頃の希林さんの存在感を表現されたのでしょう。


死んだ人間の存在感が大きくなるのは、おそらく人間だけと思う。
“存在感”とは概念上のものであり、物理的存在とは別個の抽象概念であるからだ。
こうした抽象概念は人間においてかなり自由に創造されるものになった、と私は思っている。
ゾウなども仲間の死を悼むようだが、死んだ仲間の存在感が増していくことはないように思える。

われわれ人間はそもそも、生きている時でも個々の存在感に敏感であり創造的だ。
存在の大きさ、濃さ、特別さ、存在感が薄いこと自体が存在感として膨れ上がることさえある。
なにゆえにこれほど敏感かというと、人間は個体差が大きいからだと思う。
外見はもとより、内面の個体差も大きい。人間は個性抜きには語れない。

個人が一生かかって確立したものに、他人は憧れを抱いたり、嫌悪を抱いたりする。
死んだ人間への敬意が増すこともあるし、
死んだ人間への嫌悪が増すこともある。
こと人間に限って言えば、死んだら全部お終い、というものでもない。

希林さんが話題になっているのは、役者としての功績もあるが、その人間性によるものが多いようだ。
「こんな人がいた」「こんな人だった」
それぞれがそれぞれに、そうした存在感を自らの中に描こうとする。


魂というものがあるのかどうか分からないが、人間の存在感というものは、亡くなったあとも生きてる人たちの中で生き続ける。生き続け、なにかしら受け継がれる。受け継いだ人の中で発酵してきたり、人を成熟に導いてくれたりする。
人間の“命の重さ”とは、そういうところにあると私はつねに思っているが、いかがだろうか。

ある人が生まれ、生き、亡くなる。
その道程で創られた人間性のようなもの、
その道程で創られた存在感、
その道程で周囲に与えたもの、
そういうものを感じたとき、“命の重さ”を誰しも思わされるのではないでしょうか。


老醜をさらしたり、目一杯生きて「あとは野となれ、山となれ」と潔く散ったり。
生き様、死に様はさまざま。

それがどんな有り様でも、必ず後世に影響を及ぼす。
それなりによいものを遺す努力は必要であろう。
誰かが生きるとは、どこかの誰かA、B、Cという不特定ではない。
誰かが死ぬのも同様だ。
その人という個性があるのなら、それ相応の責任があると思う。

世の中の仕組み上、社会に及ぼす影響は大小ある。
政治家であるとか、成功者であるとか、有名人であれば、多くの人々の中に遺るが、
それがどのくらいの強さ、濃さで遺るかは、名声とは別のところにある。

グローバル社会であり、情報の流通はリアルタイムで世界に伝えることもできる。
名のある人の情報はかつてないほどあふれかえる。
ほとんどの人、一般の人は、これまで以上にその他大勢になっていく。

しかしながら、とるに足らない小さな存在と思う必要はない。
人が生き、その人がいる、そのことが誰かの中で必ず生きている。
生きていないはずはないのです。

その人がその人らしく生きる、
その人という存在感を確かなものに高めていく、
それが誰にとっても大切で、人間という存在だと思うのです。

2013年12月9日月曜日

新しい価値

東日本大震災の翌日。神楽坂で整体の日でした。
不安を抱えつつも電車に乗るつもりで駅に向かったのでした。


予想に反して駅はスーツ姿の人たちでごったがえしていました。
日本のサラリーマンは立派だなあ。
そんなことを思ったかどうかも忘れてしまいましたが、
非常事態の中に日常が迷い込んでいるように見えて、印象深い光景でした。

30分、いや小一時間も待ったでしょうか。
ありがたいことに電車がやってきました。しかし、、、

(うへぇ)
まさにラッシュの常磐線。繰り返されるアナウンス。
「次の電車はいつ来るか分かりません」
(乗るしかないのか)
「どこまで行けるか分かりません」
(そりゃそうだ)

駅のアナウンスも非常時であることを告げています。
(途中で止まって帰宅難民はいやだな。6時間歩けば帰れるけど)
カバンの中にしまった塩と水を思うのでした。

少々腹に力を込めて、
待ってる間に増えた人たちとともに電車に乗り込んだ。
車内は最盛期、いや最悪期の常磐線。子供だったら圧死しかねない状況。
一駅ごとに乗ってくる人たちがうらめしくなる。勝手なものです。

一人のサラリーマンが仲間に話しかけました。
「さっきまで乗りたくて乗りたくてしょうがない電車だったのに、今は降りたくて降りたくてしょうがない電車だよ。」

見事にみんなの気持ちを代弁していました。
そして立派だなあ、と思いました。
このサラリーマンは話しかけながら笑っていたのです。

ひとつの出来事に対して、多面的な情感を持つ。
誰もが知るところです。
”愛憎”などという言葉があるように、強い思いは対極の思いを呼ぶことがあります。

こんなふうに矛盾した心を同時に持つとき、普通はどうするでしょうか。
このサラリーマンは自分の矛盾した心を見つめながら、その面白さを笑ったのでしょう。
とても人間らしい知恵だと思うのですがいかがでしょうか?
ヒト以外の動物には出来ない気がします。


ビジネスの世界では新しい価値観を創造することが重要なようですね。ヒトという生物の歴史も、新しい価値観の創造史かもしれません。
いや、きっとそれが大きいんじゃないかと私は思うのです。


だとしたら、
心のうちにあるこもごもに、
新しい価値観を見つける時、
ヒトは自由を感じるのではないでしょうか。

2013年3月24日日曜日

孤愁 サウダーデ


「孤愁 サウダーデ」新田次郎、藤原正彦共著。

長いこと整体に来ている徳島の方に薦められて読んでみました。
新田次郎の絶筆作品を32年の時を経て実子、藤原正彦が書き継いだという珍しい作品です。
以下、あらすじと読書感想文でございます。

タイトルにもなっている「弧愁(サウダーデ)」。
なじみのない言葉ですが、本書によるとポルトガル人を象徴するような意味があるようです。

平たく言うと「思い出に生きる」それもちょっと「悲しみや痛みを感ずる思い出に生きる」ということのようです。
日本人なら何となく分かるその感覚。モラエスも日本人の中にそれを見いだしたようです。

モラエス(1854~1929)はポルトガル海軍士官として来日し、後に領事を務めた人物ですが、同時に作家であり、詩人であり、生物学にも通じていた、という特異な人物です。

作品の前半(新田次郎による筆)は日清戦争前夜から日露開戦。史実の中のモラエスと彼が日本に魅せられていく様子が描かれています。そして前半最後の方ではおよねさんという日本女性を娶ります。

後半は愛するおよねさんと死に別れ、公職を捨てるように退き、およねさんの故郷徳島へ旅立ちます。

起承転結でいえば「転結」の部分を藤原氏は引き継いだわけです。大変な引き継ぎであったことが忍ばれます。

徳島でサウダーデに生きるモラエスが描かれ、その死とともに結びとなります。新田氏ならどう描いたのかは定かでありませんが、公職を離れ日々を生きるモラエスに共感を覚える人は多いことと思います。

ポルトガルからの年金を拒絶し、貯金を切り崩しながら徳島の生活に埋もれていくモラエス。
昨今はやりのスローライフと言えなくもありません。日本への憧れとおよねさんへのサウダーデは彼独自のものですが、モラエスが捨て去りたかった生活は、誰しも一度は思うようなものではないでしょうか。
必ずしも捨てる必要のない過去だと思うのですが、捨て去ることでそれもまたサウダーデへと昇華していったのだと思います。

さて日本に、徳島に染まろうとしたモラエスですが、その風体は異邦人に変わりありません。小説の中では子供らが家に集い、尼と語らい、日本に染まりゆくモラエスが描かれていますが、「西洋乞食」と揶揄されてもいたようですから、常に平穏ではなかったことでしょう。

そして、だからこそ、尚更サウダーデに生きることを求められたのでしょう。
消え去ろうとする情感をわずかに灯しながら、日々の生活を受けとめて生きる。

そんな異邦人の物語です。


余談となってしまいますが、前半で若い頃に切腹し損ねた元侍の老人が登場します。
小説に必要な史実ではないのですが、サウダーデを語る上で重要な人物となっています。
私にはそれが非常に印象深く残りました。
人が時代をどう受け止めて、どう生きるのか、尽きることのない興味を喚起させられるのです。


ヴェンセスラウ・デ・モラエス - Wikipedia
サウダージ - Wikipedia
日清戦争 - Wikipedia
日露戦争 - Wikipedia

2013年2月21日木曜日

今更紅白の話

今更ですが、昨年末の紅白の話。
今回はひとつ楽しみがありました。
美輪明宏さんです。
紅白に出るのも驚きですが、70も後半となり、歌えるのだろうか?
と気にかかったのです。
昔、ジャンジャンで観た感動を覚えていたものですから、、、


ジャンジャンは昔渋谷にあった小劇場で、
美輪明宏をはじめ、淡谷のり子、イッセー尾形、永六輔、絶叫短歌の福島泰樹さんなど、コアなファンが多い方たちが出演されていました。今調べてみると、三味線の高橋竹山も出ていたんですね。
恐るべし、ジャンジャン。
しかし惜しまれながらも2000年に閉鎖されました。


一度は生で聞かないと、、
そんなことを思い、15年くらい前に観に行きました。
想像以上の迫力に圧倒され、美輪さんの数々のエピソードを納得したのでした。

銀巴里時代、客を呼ぶために地下鉄ホームから歌いながら銀巴里に通ったというのです。
道すがら魅せられた人たちは銀巴里に到着するわけです。
誰がそんなことを出来るでしょう。力強いエピソードです。


そんな思い出があるものですから、衰えた歌を聞くのが怖かったんですね。
しかし結果は予想以上。またしてもいい方に裏切られました。
30そこそこで歌えなくなる歌手が多い中、
スポットライト一本で魅せてしまうのですから、いまだに本物の歌い手ですね。

体を使って仕事をしている人間としても、大変な励みであり、手本とさせてもらいました。

ネットで調べてみると、同様に感動した人が多いようです。
うれしいですね。

2012年5月31日木曜日

私の徒然思考日記

こちらが話したことを丸ごと返事に入れる人がおります。

「〇〇が××した場合はどうするんですか?」
「〇〇が〇〇のまま××したような場合ですね。
   その場合、私はですね、、、」
   
こちらの話より長くなっていることも珍しくありません。


言いながら考えている。
分かってるぞ、という主張をしたい。
自分のペースに持ち込もうとしている。
いろいろあるでしょう。

国会や記者会見なんかでは多いですね。
みな慎重に話すからなのでしょう。

私がいつも面白いな、と思うのは、
話しながら本人に合う形にして、
頭の中に仕舞っているような印象を受ける人たちです。

なんだか頭の中を店開きしてるような、
棚卸しをして仕舞い直しているような、
不思議な印象を受けます。

多かれ少なかれ誰にもあるので、
人間の認識方法としてスタンダードなのかな、
などと考えています。


{2468}
と数字が並んでいたら、
大抵の人が「偶数だ」と翻訳して認識します。
{
{1245}
と並んでたら、
「3が抜けてるな」と認識します。

あるがまま記憶するよりも、
効率がよかったり、悪かったりするのでしょうが、

物事に対し、
別の角度や新たな論理を見出そうとするのは、
人間に顕著な志向なのだと思います。

おそらく男性にとても強くあると思うのは、
私だけでしょうか?

だから男性は時に
暴走的な論理や
誰にも理解不能な論理に走るのだろうと思うのです。


サヴァン症候群と呼ばれる症状、
映画レインマンで有名になりました。
見たものをそのまま記憶する能力が
極端に発達していることがあります。
画家の山下清もそうだったと言われてます。
旅から帰って詳細な映像記憶を元に描けたからです。

私はいつも思うのです。
見たものをそのまま記憶するというのは、
論理を通すことなく認識することではないか、と。

サヴァン症候群の男女比は、
男性が女性の数倍あるそうです。
これも意味深く感じます。

男性はこうした認識活動で、
非常に大きな振れ幅を持ちやすいと思うのです。


私の徒然思考日記でした。

昔から考え方が変わってる、
と言われる私は、少々暴走型なのかもしれません(^_^;)

2012年1月21日土曜日

寒い日の二冊~その2



世界のトップクライマー山野井泰史・妙子夫妻のギャチュンカン登頂を描いたノンフィクションです。

山野井氏の本ですから、
当然クライミングの話と普通思うわけですが、
実にそのとおりです。



ところが私は沢木耕太郎氏が書かれているので、山野井氏の日常や生い立ち、山への思いなど、山以外での山野井氏が描かれているものと思っていたのでした。
十年くらい前までは沢木氏の作品をほとんど読んでいたので、登頂という本番よりも、それを支えている生活に焦点が置かれていると思ったんです。なにしろ沢木氏にはそういう作品が多いのです。そしてそこが魅力なのです。

なのでこの本では裏切られたのですが、結局惹き込まれたのでした。

「凍(とう)」というタイトル通り、凍てつく寒さに包まれます。
遭難寸前の中、ギリギリの選択をしていく山野井氏。
世界最高峰のクライマーということは知っていたので、なおさらその状況の過酷さを思わされます。


雪壁でほとんど吊られたままのビバーグ、
火をおこして水を作ることも出来ず、氷をひと欠片口にします。氷を溶かすほうが消耗すると言われておりますが、たとえ冷たい水でも水分になるものを取るほうが大事と思ったそうです。

テントもないままでのビバーグ、
寒さに震えが起こる、その震えを「生きる力」の証と思おうとします。
「眠ったら死ぬかもしれない」そう思いながらも、諦めれば死ぬ、諦めなければ死なない、そう考えます。そして眠りに落ち、夜が明け、目覚めるのです。


少し重い、と感じるかもしれませんが、生命力あふれるノンフィクションです。
興味のある方は読まれてみてください。

「寒い日の読みたい2冊」でした。

寒い日の二冊~その1

凍てつく空気感と生命力
そんな二冊をご紹介します。


寒い日が続いております。
凍てつく、、、と表現するには千葉県の冬はまだ生易しいでしょうが、
そんな気になることもあります。


その凍るような空気の感触が、
なぜか心地よくなることがあります。

雪に心躍らせるような童心はすでに彼方のことですが、
寒さで顔がカチリと硬直してくると、
―今年もこういう日がやってきた。
そう思うのです。

寒くて体の中が燃え上がるのかもしれません。


 

カキーンと空気が凍るような晩、
布団に潜りながら子供に読み聞かせていると、
心は北海道の山の中に連れ出されていきます。

そういえば去年もそう思いながら読みました。
好きな絵本です。

表紙の絵、
きたきつねが何かを見つけた瞬間です。
この顔がいいですね。
きたきつねの見たものに空想が巡ります。

読む前は大味に感じた版画でしたが、
読んでいるうちに、大味が躍動感に変わり、
素敵な作家だなと、最終的に思ったのでした。

他の作品もいくつか読んでみましたが、
この作品が今のところ一番です。

寒い日に読んでみたい一冊でした。

2011年5月18日水曜日

がん治療とは?

こんなニュースがありました。↓
正常細胞が丸のみ破壊…がん治療に期待 神戸大解明 - MSN産経ニュース

「これまではがん細胞を殺す努力をしてきたが、正常な細胞を元気づけ、食べさせる治療法も考えられる」

というところが特にいいですね。

病気をやっつけることよりも、働きのあるところを高めるほうが、はるかに積極的で命を肯定している気がしてきます。

整体の基本的アプローチ、
「働きを高めること、体力の発揚」
それが有効なことと、あらためて思いました。

2011年5月16日月曜日

ひと言雑記 ニジンスキー

短めのブログもいいですね。


ニジンスキーはロシアのバレエダンサーです。
(1890-1950)

「空中で静止して見える」
と言われたニジンスキー、どんな跳躍なのか昔とても興味が湧きました。
その後、そういう感じの跳躍を目にする機会があったり、NBAの選手たちがエアプレイをするのを見て、ニジンスキーのことは忘れました。

今日、ふと気になり調べてみるとネット上に映像が上がってました。
ネット社会の恩恵です。ありがたいです。


映像を見ると空中でスロー再生になるような跳躍が何度か出てきます。
いったいどういう事でしょうか?

結局、気になることが増えたのでした。

【動画リンク】比較的観やすいもの
YouTube - Nijinsky-the jump-les orientales -1910
YouTube - Nijinsky-le saut du Faune
YouTube - Nijinsky 1910 - Sheherazade
YouTube - Nijinsky-Scheherazade 1910
YouTube - Nijinsky 1909 - Le Pavillon d'Armide
YouTube - Nijinsky 1910 - Carnaval
YouTube - Nijinsky -L'oiseau d'Or
YouTube - Nijinsky 1906 - Le Roi Candaule - 2
YouTube - Nijinsky 1911 - Petrouchka - part 2
YouTube - Nijinsky -l'apr?s-midi d'un faune-1912
YouTube - Nijinsky 1906- Le Roi Candaule
YouTube - Nijinsky 1909 - Le Pavillon d'Armide part 2

【参考サイト】
ヴァーツラフ・ニジンスキー - Wikipedia
ジョルジュ・バルビエ 「ニジンスキー」 George Barbier, NIJINSKY.
ニジンスキーの魅力とは

2011年4月5日火曜日

自然を見る、生きている森

種種雑多な本を読みます。
芋づる式に読むこともあれば、テーマに沿って読むこともあります。

好きなテーマの一つに「見ること」というのがあるのですが、中でも「自然を見る」というのは興味深いテーマでありまして、これは私のやっている整体が「体に自然を見る」ことが求められているからでもあります。

こういうテーマで本を探すのはとても難しいので偶然出会うことが多いのですが、ここ一年で読んだ中で2冊ほど取り上げてみたいと思います。


 
一冊目
「クマにあったらどうするか」

タイトルはクマに出会ってしまった時の対処法だけのようですが、主たる内容は姉崎等さんというアイヌのマタギの智慧の話です。
姉崎氏はアイヌと和人との混血だったので、アイヌのマタギから逐一技術を受け継ぐには困難な面があり、自身がクマを観察し、クマを師匠とし、クマとひとつになることでマタギの技術を創り上げていきます。

また12才の時に父親と死別したため、一家を支えるために山の中で沢山の技術を身につけていきます。
そんな姉崎氏の観点に「山が生きていない」というのがあります。

営林署の植林事業や防虫剤散布は、「生きた山」を育てることとは程遠いものだったようです。
虫のいないところでは植物の受粉も土壌の代謝も生まれず、食べれる植物が不十分だとクマは子供を作らないそうです。

木や緑があれば自然がある、と感ずる私たち現代人とは見ているものが違う、と思いました。


2冊目
「グランドファーザー」

アメリカ先住民アパッチ族に生まれ、19世紀後半から20世紀後半を生きた古老の物語。

幼少期より感受性の鋭さを認められたグランドファーザーは、古老たちの指示により部族内での修行を終えたのち60年の旅に出ます。アラスカから南アメリカまで、彼は各地で古老を訪ね、教えを乞い、自らも気づくための旅を続けます。

とある森に踏み入れた時、あることに気が付きます。川の片側だけが際立って「生きた森」だったのです。
そして森の奥地に一人の古老が住んでいるのを見つけます。森はその古老が長い年月をかけてケアしていたのでした。
グランドファーザーの言葉で「ケアテイカー」と言うようです。

例えば環境の中で生きていくものと死んでいくものを見定め、より森が生きる方向に修正する。食べる時にも、放っておけば枯れていくもの、死んでいくものを選ぶのです。

余談ですが、グランドファーザー関係の本は多数出ておりまして、私は久しぶりに人生観を揺さぶられました。

妻に話しましたら、
「ほどほどにしといて」という返事でした。



再び整体の話。
症状の重い方の場合に、時々ご家族に技術を教えることがあります。

「この穴のあいたところに導気」とか
「抑えると反発してくるスジのところ」とか

分りやすそうなところを教えるのですが、分かる人もいれば分からない人もいます。
無理からぬことです。
私も井本先生の分かることに、底知れぬものを感ずるばかりです。


それでも「自然を見る」というのは、
体であっても、
環境であっても、
これからの世の中に必要なことだと思っております。



2011年3月16日水曜日

災害、心、

 未曽有の震災が日本を襲った翌日3/12、ニューヨークの映画祭で山口彊氏の映画が上映されました。
(「二重被爆-語り部・山口彊の遺言」)

二重被爆という稀有な経験を通して尚、「生きること」という命の根源に徹した山口氏の姿勢に、再び啓発されます。

 
かたや戦災、この度は天災、そして皮肉にも原発事故という人災を呼びました。


ヒロシマで被爆した妻の母は生前、当時のことをほとんど語らず、緊急時の備えもなかったそうです。

ただ妻が思い返すには、
「今はいいかもしれないけれど、何かあった時に傷が治りにくいかもしれないから、しっかり食べておきなさい」
とよく言ってたようです。

妻が言うには
「どんな人が早く亡くなるか見ていたからでは」
「何かあった時は“身ひとつ”と思っていたのでは」ということです。


有史以来、空前の発展を遂げた現代社会、
しかし自然の脅威は未だ強大であることを思い知らされました。


山口氏は著書の中で語っています。
どういう悲惨な事件があろうとも、そこに生活があり、笑ったり、泣いたり、怒ったりといった躍動する情感のある限り、時代を象徴する事件がどんなに暗く重くとも、それに染めあげられてしまうことはない

被災地の方々を思えば言葉に詰まりますが、明日は我が身かもしれません。
誰もが今を生きているという現実の中で、「生きること」という平凡さを改めて心に留める次第です。



2011年1月5日水曜日

おめでとうございます。

新年あけましておめでとうございます。

Photograph by George Shiras 



素晴らしい跳躍。

ナショナル ジオグラフィックの誌面を、初めて飾った野生動物写真(モノクロ)だそうです。

われわれも同じ哺乳類、

こんな一瞬を生きてみたいですね。

年明けに予感としてお届けします。

磯谷整体 磯谷聡一

2010年10月21日木曜日

黒き猫

秋元洒汀没後65年記念展 秋元洒汀と菱田春草に家族三人で行ってきました。

妻の曾祖父の弟が菱田春草(1874-1911)という日本画家なのですが、この流山(私の現住所)の地にゆかりがあることを初めて知りました。洒汀は春草を経済的に支え、春草は代表作である「黒き猫」「落葉」などの作品をうみだします。今回の展示は二人とその周辺の書簡が中心となっております。


 
迎えてくれた秋元由美子さん(画家)は私たちの来訪を喜んでくださり、しばし歓談いたしました。秋元由美子さんにとっても春草は敬愛する存在のようで、その愛情を感じ、嬉しくなりました。また御母上の秋元松子さんも画家であり、絵の手ほどきを春草に受けられたそうで、その時の資料もありました。

春草は夭折しておりますし、寡黙に自身の絵を追求した方ですから弟子はおらず、絵の手ほどきをした方は他にはいないのではないでしょうか(私もそれほど詳しいわけではありませんが、、、)。

さて今回の展示品ですが、春草に関する研究書はあまりありませんので、書簡の内容はここでしか見れないものがほとんどだと思います。興味のある方は今度の日曜日まで開催されておりますので、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。こちらからどうぞ。


「黒き猫」も「落葉」(どちらも重要文化財)も最初は秋元家に所蔵されていたようです。しかしまさかかつて流山にあったとは、驚きです。今春、国立博物館で「細川家の至宝展」がありまして、家族で観に行きました。目的は「黒き猫」だったのですが、残念なことに会期途中で「落葉」に交代しておりました。「落葉」ももちろん素晴らしいのですが、目的が果たせず口惜しい思いをしました。今回また「黒き猫」の幻に遭遇したような思いです。

「黒き猫」は現在「永青文庫(細川家)」で所蔵しているのですが、これが井本整体の音羽道場(現在は移転)の近く、目白台にあるのです。国立博物館で伺ったところによると現在は熊本美術館に保管してあるようです。

「音羽に通っている頃に観にいけばよかった」と、これも悔しくなります。ちなみに妻の会社も音羽でした。そして彼女も音羽道場に通い私と結婚、、、いやそんな話はどうでもいいのですが、結婚式の時に義父が「黒き猫」についてスピーチしてくれました。

義父はそれまで家族にも親族についてほとんど語らず、人から春草のことを言われると
「春草は春草、俺は俺だ」
と思っていたそうですが、この時は別でした。

そんなわけで「黒き猫」は私にとって特別な感触があります。現在、神楽坂でも整体をしておりますが、その旅館「和可菜」も黒猫とは縁深いところなのです。

何やら幻の黒猫を追いかけているような気にさせられます。
どんな意味があるのでしょうか?とても気になります。。。。


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