ラベル 整体 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 整体 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2022年2月3日木曜日

新型コロナ オミクロン株 2つ目の結論 すがれる科学はない

新型コロナと呼ばれたウイルスも世代を重ねてオミクロン株にほとんど置き換わったらしい。

現時点での私の見解を書いておく。


◎2つめの結論 すがれる科学はない


▲エビデンスは当てにならない。

「科学データはまぎれのないもの」といった盲信があるが、まぎれだらけだ。だからSNS上では日々論戦が繰り広げられている。
「コロナは怖いもの」であることを信じたければ、それに見合った論文なりデータが出てくる。
「コロナは怖くないもの」であることを信じたくても同様だ。

いずれにしても大切なことがある。
正常な生活を営む意思を持つかどうかだ。なんの意思もないなら科学を用いる必要はない。
「怖いもの」という判定をしても、その中から「怖くなさ」を見出さないと解決策を探し出せない。コロナに限らず、一般論として「無理な理由は限度がない」ので、最初に意思がなければ解決策は見えない。なので見る気がない人には永遠に何も見えない。

▲健康カルチャー

ここ50年で健康カルチャーが確立され、様々な概念が導入された。
しかし大衆の判断能力は上がっただろうか?
一方向の教育はただの思想統制であり、ない方がましかもしれない。「考える」とは常に多元に相互通行を続けることであり、思想に実効性が生まれるには「考える」ことが必要になる。

たとえば「高血圧は危険」という言説は見事に人々の深層意識に入り込んだ。どのくらい危険なのかという教育は行き届かないまま、「高血圧は危険」という一方向の力だけが世の中に生きている。
治療の目的は個人の健康生活にあると思うが、老いも若きも一様に数値で薬が処方される。10年間見直しがなされない人も珍しくない。そして寝たきりになっても血圧を下げてしまう。動かない人の血行が悪くなるのは素人でも分かることなのに、当たり前のように血圧を下げるからさらに具合が悪くなる。入院して例えば認知症が始まるのは降圧剤によるものが多い、と私は思っている。

高血圧、高脂血症、悪玉菌、ピロリ菌、、、一方的に悪いと考えてすむほど私たちの体は単純ではない。しかしわれわれはこれまで沢山の健康カルチャーに侵されてきた。調子が悪くなくても血圧を測られ、血液を検査され薬を処方された。それは予防であり、よいこととされた。コロナ騒動も本質的に同じものだ。しかもかつてないほど強大だ。

発症してなくても検査され、陽性ならば発症してなくても隔離された。陰性でも自宅待機させられた。
発症してなければ本人的にはなんの問題もないが、感染拡大を防ぐためと説明された。こうした過剰な防疫も、二年前なら分かるが今となっては理解不能だ。しかも二年経って隔離の網が拡がっている。広げ過ぎて医療従事者が足りないという自家中毒まで起こって、もはや笑い事だが、笑えない事態だ。
防疫は公衆衛生のためにあると思うが、いまやコロナマネーのためにあるようにしか見えない。

▲ワクチン効かない。

「ワクチンは切り札」と言って日本での接種が始まったが、全然そうではなかった。
短期間に2回も接種。「なんで2回も打つんだ」という疑問に対して、「2回打てば完全に免疫ができる」という解答があった。
2回打てば「完全接種」と呼ばれていたが、いまや3回目が始まっている。まだ一年足らずの内にだ。3回目の接種で感染を抑えられているワクチン先行国はどこにもないのに、方針転換をはかる為政者はいないし、多くの人が3回目を打とうとしている。打ちたい気持ちがいつの情報に支えられているのか、自己分析したほうがいい。

打っても感染するし、打っても人に移す。これは日々のニュースでも明らかだが、「打てば移さない」という言説を完全に消すことが出来ない。だからワクチンパスポートが感染対策上有効と思いたがる。政府がその効用を否定して一時停止しても、埼玉県は施策を実行にうつした。一度認めたものはなかなか否定できない。個人レベルでもそうだし、為政者にとっても同様だ。
全体主義に陥っていない点では正常と思うが、埼玉の行方を私は憂慮している。奈良県知事のように蔓延防止にも効果なしと判断されている知事もいる。私は奈良県知事を応援する。

ワクチンは武漢株を元に作られたものであることは、一般メディアでも報じられてきたことだ。そしてオミクロン株のスパイク蛋白は変異が多いことも報じられている。スパイク蛋白を標的にした抗体しか作れないワクチンが、なぜに効果を上げると言い得るのか?誰も答えられないであろう。

ワクチンパッケージ、一時停止へ 政府、オミクロン株拡大で(共同通信) - Yahoo!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/articles/545a67c6e62be0daafcd016031c7349766ab21f9
コロナ直言 蔓延防止に効果なし、「同調圧力」に屈せぬ 奈良県知事・荒井正吾氏(産経新聞) - Yahoo!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/articles/a2ba0f68a75fe9602e5c47cd359f6a7df86f98be

「ワクチンには高い効果がある」と思う人は3回目も打てばよいが、それを強く後押しする科学的データは無い。ワクチン接種においては先頭を走っていたイスラエルも感染拡大が止まらないし、ほか接種率の高い国でも止まっていない。
権力者たちの言説もトーンダウンする一方だ。日本政府はもちろん、WHOも接種開始から一年程度の期間で大分変わった。当初の発言からすれば、ワクチンの効用はすでに聞くに値しない。「ちょっとは効くのだろう」と思って聞いてる人は、自分のバイアスに気づくべきだ。試しに「効かないんじゃないか?」そう思って聞いてみてほしい。

▲デマの数字

若い人のワクチン接種を推奨する理由として、コロナ感染による心筋炎のリスクが説明されていた。感染して843人が心筋炎になったようなグラフを提示したが、それは100万人あたりの数であり、現実には4人(15〜40歳未満)しか心筋炎にはなっていない。
このあたりの数字の扱いは正当なのか?正否の分かれるところであろう。私はデマの数字と思う。
しっかり考えたい人は下記サイトを読んでほしい。

10月15日 厚労省コロワク副作用報告『心筋炎』〜比較の仕方がおかしい〜 | アラフォーたま子の『これでいいのだ♪』 ~面倒くさがり・せっかち・ケチの三重苦だけど〜
https://simple-isj.com/post-8887/
ワクチンと新型コロナの心筋炎報告の実数比較
https://fujikawa.org/covid19/myocarditis.html

▲まとめ

コロナ禍でなにを信じているでしょうか?
二年の月日の中で、様々な状況を信じてしたがってきました。
しかしながら、もう信じなくてもいいことが増えています。
状況を踏まえ、信じなくてもいいことは見直して生きましょう。



2022年1月31日月曜日

新型コロナ オミクロン株 1つめの結論 もう怖がる理由がない

新型コロナと呼ばれたウイルスも世代を重ねてオミクロン株にほとんど置き換わったらしい。

現時点での私の見解を書いておく。

◎1つめの結論 もう怖がる理由がない


▲ただの風邪

重症者数も死者数もただの風邪、もしくはただの風邪以下なので、「すべて正常な日常生活を営む」で問題ない。例えば1/29の東京都の陽性者は17,433人だが、重症者増2人、死亡者3人。これを怖がる根拠は見当たらない。重要なのは重症者と死亡者だ。
「無症状だから怖い」といった言説も、もはやコロナ禍が迷路に迷い込んでいる証拠と見るべきであろう。深読みする必要はない。無症状なら怖くない。あたり前だ。そう思う心を取り戻せばよい。

▲濃厚接触者

多くの人が恐れているのは、濃厚接触者になると著しい活動制限を受けるからであろう。これでは恐怖政治に怯える民衆の構図だ。もはやコロナが怖いのか施策が怖いのか渾然一体となっていて、その手の議論もごちゃまぜに進行する。そのごちゃまぜの議論はすでにエンタメ化しているので、素直にエンタメと知るべきだ。出口のない議論が真理に触れることはない。

▲生ワクチン

重症化がまれとなったなら、罹ったほうが得。生ワクチンみたいなものなので、弱毒株が優勢の内に出歩いて罹ったほうがいい。「まれに重症化するから危険」という言説があるが、それはほとんどの病気に当てはまることなので考慮に値しない。考慮したい人は引きこもるしかないが、外に出る条件を考えておかないとメディアの呪縛から逃れられなくなる。「いつかは外へ出ないといけない」という意思がないと、消極策は永遠に終わらない。
社会的制約の中で最大限を目指すべきだ。

▲正常化への道

大切なのは正常化に向けた行動を選ぶことだ。「問題ない」と感じている人は自由に行動すればいいし、それをとがめる権利は誰にもない。二年前なら両者の摩擦も仕方がないと思うが、なにしろ二年経ったのだ。二年の月日は一般人にとっても十分なデータを提供している。科学論文を読む必要もない事実が身の回りにも蓄積した。「感染すると多くの人が死ぬ」という危険度最大限の想定を聞かされたが、そんな事実は現れなかった。それを責める気はない。しかし時は経った。「自粛に意味がない」という判断はもはや奇をてらったものではない。普通の人が普通に異を唱えるようになってきている。

▲風邪の今昔

「老人を守れ」という声も二年を過ぎると実効性を疑わざるを得ない。引きこもっている内に寿命が来たら元も子もない。オミクロンは老人にとっても「まれに重症化」するだけで、過度な警戒は無用だ。そもそも風邪は「まれに重症化」するものなので、老人が肺炎で亡くなるのは自然死のひとつに過ぎない。思い出してほしい。コロナ以前は誰もがそう思っていたはずだ。それは暗黙の了解だったはずだ。この二年のあいだに認識が変わってしまっただけだ。今の認識が正常か、以前の認識が正常か、個々人で判断すべきだろう。なんとなく過ごすのは危険な時代になっている。

▲スローガンが深層意識に

「孫が祖父母に移したら一生の後悔」といった想定も無用だ。こういうものはいくらでも想定できるので、思想統制のスローガンになってるに過ぎない。本当の緊急事態ならばスローガンを有効に使うのが望ましいが、大した事態ではないと分かったので、もう捨てて構わない。そもそもスローガンというのは賞味期限のあるものなので、ずーっと信じてる人は深層意識に入りすぎた人だ。なのでいつまでもこれを唱えているのは思考が囚われているか、なんらかの得をしたいかのどちらかであろう。得しない人は逃げたほうがいい。無駄な思想は牢獄と一緒だ。得する人が鍵を開けてくれることはない。

▲自分で分析を

日々のニュースで感染者数と重症者数と死亡者数が報告される。重症者の数はもはや発表するに値しないほど少ない。しかし一気に増えるという不安を抱えている人は、少なくても多くても不安だ。すでに数の問題ではなくなっている。どうしても怖いなら細かく分析して考えてほしい。下記サイトが役に立つだろう。調べる大前提として、コロナ以外の病人のほうが圧倒的に多いことは忘れないでほしい。自分が怖いと感じる他の病気と比較するといい。

新型コロナウイルス 国内感染の状況 | コロナウイルスの恐怖 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース
https://toyokeizai.net/sp/visual/tko/covid19/

▲超過死亡

2020年。新型コロナが本格的に流行した最初の年。
「一体どこまで死者が増えるのか?」そうした不安が社会にあった。
「カウントされていないコロナ死がどれだけいるか分からない」そうやって恐怖を煽られた。
「捕捉されていないコロナ死は2020年の超過死亡にあらわれてくるだろう」見識のある人たちがそう言っていた。だから例年よりも増えた死亡者の内訳を気にしてる人たちがいた。
しかしどうだろう。2020年の超過死亡は減ったのだ。
「コロナ死は増えたけど他の死が減った」そう解釈するしかない事態だ。
総括するとすれば、どうなるだろう?
人流を抑えれば他の死が減るなら、自粛は「対コロナ」ではなく、「対他の病気」の効果なのか?
自粛なしで過ごしても総死亡者数に大きな影響はないのでは?
様々な疑問が浮かぶが、いずれにしても「対コロナの自粛」を社会の正解とする結果は見えない。

新型コロナ: 年間死亡数11年ぶり減 コロナ対策で感染症激減: 日本経済新聞
https://www.nikkei.com/article/DGXZQODG228660S1A220C2000000/

▲コロナ死

コロナ死者数はそもそも多めにカウントされている。
別の病気で亡くなっても感染者はコロナ死となる。死因が何であるかは関係ない。陽性者の死はコロナ死としてカウントされる。事故死も、死後の検査で陽性だとコロナ死だ。
理不尽なようだが、これは新規の感染症ということで、最大限広く捕捉しようという意図がある。当然の方策だ。しかしだからこそ数字の素性を知る必要がある。数字の素性なしに思考し、作戦を立てるのは愚かなことだ。二年も経てば正体が見えてくる。一般人でも推測可能な正体だ。

▲コロナ死 諸外国

ポルトガルでもドイツでも、コロナ死の水増しが問題になっている。コロナ死者数で煽って、強硬政策が実施されるからだ。世界中、少なくとも先進国は似たりよったりの異常事態だ。数字の素性に気づいた人たちは怒りが収まらない。もう二年前とはフェイズが違うのだ。最大限にカウントする理由が問われる段階だ。

ベルリンの独立した健康調査機関の責任教授は、7月初旬以降に独で報告されたCo◯idの公式死亡事例の80%は「コ◯ナが死因ではない」と発表/「コ◯ナ死亡者の大半が何で死亡したかを明らかにしていない。統計は歪められている」 | Total News World
http://totalnewsjp.com/2021/08/31/covid-11/
ポルトガル政府がCOVID-19の死亡統計を捏造との判決/裁判所:「政府発表は17,000件のところ、実際のCOVID死亡者は0.9%の152件/PCR検査の97%は偽陽性」 | Total News World
http://totalnewsjp.com/2021/06/29/covid19-79/

▲まとめ

警戒心というのはなかなか解けない。その方がいいかもしれない。
「石橋を叩いて渡る」
その警戒心を使って石橋を渡ってほしい。
渡る気のない人が渡れる日が来るのか、来ないのか?
私は渡れない人を憂慮している。

2021年4月13日火曜日

ホロヴィッツに見る。 指から力を伝える、、、

クラッシックに詳しいわけではないのですが、ピアノを弾かれる方が来室されているので、ちょいちょい面白いお話を伺います。
何年か前にホロヴィッツの弾き方は、「指を伸ばしてポロポロと、、、」と伺い、ときどき見返し、聴き返しております。


一般にピアノの弾き方は、「卵を握るように、、、」と習うようですが、ホロヴィッツの指はきれいに伸びております。
素人なので偉そうなことは言えないのですが、その音の質も、ポロポロといった指の運びがそのまま聞こえてくるような気がします。



手のアップが続く、ありがたい動画。
大きな手で包み、慈しむように弾くのが印象に残ります。
また長く伸びた親指に透徹した力を感じます。なかなか見れない親指です。


さてさて、どうしてときどき見返すかといえば、自分の整体の技術のためです。
長く伸びた指が鍵盤の向こうまで力を通している感じ、鍵盤の向こうも感じ取っている感じ、それを盗みたいんですね。
ポロポロといった印象を残す指の運びが、そのまま音に反映するのですから、その指は鍵盤の向こうで弦を叩くハンマーまで届いているに違いありません。


ボタンを押せば鳴る機械であれば、どのように押しても大差ないでしょうが、ピアノはそうはいかないでしょう。鍵盤の抑え方には技量の差が出るものと思います。
このあたり整体と同じです。
急所を押せば効く、といった機械的な理解を離れて、どこにどのような力を送るか、が大事です。


ホロヴィッツの指は、それをよく教えてくれていると思います。


2020年5月30日土曜日

腕の挙上と腰椎1番の人間性

腰椎1番があるのは人間だけです。
サルの場合、そこは胸椎13番と呼ばれます。
分かるでしょうか?
13番めの胸椎が腰椎に変化したのが人間です。

何が変化したのでしょう?
運動が変化したのです。

何の運動が変化したのでしょう?
腕を上げる運動が変化したのです。

正確に言えば腕の挙上方法のバリエーションが増えたのです。


腕の挙上はサルでもできますが、サルの挙上は人間らしくありません。
人間らしい挙上は例えばバスケットボールでシュートを打つときに、クイッと背中を入れるような伸ばすような動作に見られます。バレーボールのトスもそうですね。背中をクイッとやります。
あのクイッのときに使っているのが腰椎1番です。ああいう動作は非常に人間らしいものです。人間にしかできません。サルはあんな風に腰椎1番で腕を上げることができません。

空中で腰椎1番を自由自在に使えると、バスケットボールでエアプレイと呼ばれる技術が可能になります。バレーボールのアタックも腰椎1番が自由でないと、格好良くはなりません。

また跳んでから打つまでの時間は、腰椎1番の緊張弛緩でコントロールされています。
跳んだあとのわずかな無風状態と、急激な緊張にわれわれは魅せられます。
波のうねりを思わせるあの感じは、ほとんどの人の日常生活に欠けているものであり、思い出したいものなのでしょう。

残念なことに文明社会の人間は、動物としては恥ずかしいレベルにまで運動が衰退しています。
人間の能力は本来どのくらいが標準なのか、もはや誰にも分からないと思います。
せめて思い出そうという努力は必要でしょう。
わたしももちろん衰退している一人なので、少しでも本来の姿に戻りたいと思っております。


肩の話に戻ります。
知らず知らずのうちに腰椎1番が衰え、腕の挙上が肩関節だけになっている人は珍しくありません。
肩関節だけで腕を挙上しても、体は融通をきかせてくれますが、年齢とともにそれも難しくなってきます。
年をとるほどに、うまく使わないと体が許してくれなくなります。

年功序列に優しくしてほしいと願っても、体は年とともに判定を厳しくしてきます。
なんだか不公平なようですが、自分の体の言うことですから聞くしかないですね。

「老いては子にしたがえ」と先人は諭しましたが、
現代は「老いては体にしたがえ」を知らねばなりません。なにしろ寿命が伸びているのです。

肩が上がらないのは、直接的には肩関節の問題ですが、その前に肋骨が硬くなっており、肋骨が硬くなる前に、腰椎1番が硬くなっております。人によって違いはありますが、たとえばこうした道のりを逆にたどることで、回復に向かいます。


背骨を指で確認していると、胸椎12番が腰椎のようになっている人がおります。
わたしは人間の方向性を感じます。
数百年後、そういう人が増えているかもしれません。

しかしもしかすると、胸椎13番が復活してしまうかもしれません。
その時、ヒトは腕の挙上はもちろんのこと、二足歩行もできなくなっているでしょう。

★★補足★★
分かりやすくするために腕の挙上を腰椎1番としましたが、厳密に言うと腰椎1番と胸椎12番の連携によるものです。

2020年3月15日日曜日

肺を強くする方法いくつか

コロナ騒ぎを踏まえ、肺を強くする方法をいくつかご紹介します。

■肘湯、蒸しタオル。

【肘湯】
肘から先を熱いお湯につける部分浴。
46度程度。測らなくてもよい。火傷しない程度に熱いと感じる温度が目安。
時間は6分前後。
途中で差し湯を一回して冷めすぎないようにする。

肘から先を入れる場所に困ることが多いと思います。
例えば、、、
シンクに蓋をする。百均に汎用の蓋がある。合わないこともある。シンクは冷めやすいのが難点。
台所用の洗い桶を使う。ジョセフジョセフというメーカーの洗い桶が結構大きい。ドレンがついてるので、ひっくり返さなくても水を捨てれる。

【蒸しタオル】
レンジでチンでOK。
あてる時間は5分くらい。

あてる場所いくつか、、、
鎖骨の間から胸骨にかけて。
肋骨の固いところ。
肩甲骨の間。

自分で固いところが自覚できるならば、そこにあてる。
よく分からなければ、いろいろ試して呼吸が楽になる、深くなるところを探す。

★いちどきに三回までは繰り返してもよい。
★8時間程度は間隔をあける。子供は6時間
★入浴の前後4時間は効果が弱い。
★肌が赤くならないところは働きの弱いところ。



そのほか、経験則など踏まえ参考まで。

【布団を干す】
湿っぽい布団は肺に負担となります。
陽に当てることで、雑菌の繁殖をおさえます。

【洗濯物も陽に当てる】
室内の乾燥対策には部屋干しも有効ですし、私も冬はそのように指導しておりますが、陽に当てたほうが雑菌の繁殖はおさえられます。

【洗剤より石鹸】
洗濯も石鹸の方がきれいになるように思えます。ただの経験則ですが、そのように言う人も少なくはありません。
手を洗うにももちろん石鹸のほうがいいように思えます。台所の洗い物を洗剤でするのと石鹸でするのでは、手の荒れ方も違います。ただし石鹸で洗うと洗い流すのに多少の技術がいります。黒いものを洗うと流しきれないものが見えるので、それを基準にすると分かってきます。

【手の洗い過ぎは感染に弱くなる】
体の表面にはくまなく微生物が住みついてます。住みついてることで生体バリアと言えるものを成り立たせています。
手を洗ったときには、そのバリアに隙間ができます。その隙間は周囲の微生物が増えることでまたバランスを取り戻します。しかしながら頻繁に洗っていると、もとのバランスへの回復が困難になることがあります。あいたところに何が入るかによっては、かえって感染症に弱くなります。
ほどほどが大事ということです。



最後に、、、

歴史を顧みれば、人の往来は感染症の往来でもありました。
それは現代でも変わらないことです。

感染症の往来によって、大きな打撃を受けた地域もありました。
その打撃は現代とは比較にならないレベルのものが沢山ありました。

悲劇的な歴史はありましたが、現在、世界の人々が行き来出来るのは、われわれがある程度適応してきたからです。

自分で工夫できることもありますので、これを期に取り組んでみてはいかがでしょうか。

2019年12月5日木曜日

磯谷整体 東京室物語 〜和可菜のころ〜 その6 最終回

和可菜の玄関には黒猫がいる。
神楽坂には理科大があり、そこに妻の曽祖父菱田為吉さんの木彫細工がある。
・・・・・

和可菜での整体は、井本整体福岡講座のFさんに始まり、Oさんによって立処をただされ、妻との縁まで知らされるような様相を呈しておりました。
人生の正解というのはわかりませんが、知らず知らずに縁に囲まれているこの状況を正解と感じ、感謝の念がわいてきます。

Fさんはその後も東京に来たときに和可菜を利用されておりました。
そんなある時、
「そういえば主人の実家が買った家は、昔大女優が住んでた家だって言ってた気がします…」
その家は下関。まさかそんなことが…。
「今度よく聞いておいてもらえますか?」
「帰ったら聞いておきます。」

それはそのまさかでした。
その家は和可菜の女将さんの生家であり、実姉の木暮実千代さんが育った家。女将さんは生まれる前からの約束で生まれてすぐに本家に引き取られて上京し、木暮さんは長じて上京し、妹と人生を重ねることとなりました。
思えばFさんの行動力にリードされてはじまった和可菜でした。そのFさんは実はわたしよりも先に和可菜との縁をもっていたのです。もう少しつけくわえますと、Fさんのお住いは山口県で、女将さんの生家の近く(下関市)と小野田で、親の代から整体をされております。もしかするともっともっと沢山の縁で結ばれているのかもしれません。

それにしても……、そんな偶然があるのだろうかと、不思議でなりませんでした。


そして数年…………。


2015年。和可菜での日々に終わりを告げるときがきました。
女将さんも九十を遠に過ぎ、年内閉館を知らされます。
ご年齢からすればお元気でしたが、整体を受けるために階段を昇り降りする姿に不安を覚えはじめて久しい頃でした。

さて、どうしたらよいか。
もう東京室は無理かもしれない…。
和可菜と同じモチベーションを保てるだろうか…。
和可菜への頼り根性に気づかされます。
それでも行動しないわけにはいきません。
和可菜から自立するためにも、
次をしっかり見据えなくてはなりません。

和可菜を探した頃のように、いくつかの旅館に問い合わせました。
そして交渉成立したのが、今の鳳明館です。
今度は東京大学の近く。
和可菜は理科大のそば、今度は東大のそば……。
再び菱田家に守られている気がしてきました。
(菱田唯蔵:妻の曽祖父菱田為吉の弟、東京帝国大学教授)


和可菜閉館予定を知らされてすぐのころ、日本画家さんが整体に訪れ、後々春草の話でひとしきり盛り上がることとなりました。
最後の月には小説を書く学生が訪れました。ここが和可菜だから、というのが理由のひとつだったようです。旧知の友のごとく感じられる学生で、その後よく飲みに行くことになります。
最後の二ヶ月に和可菜で整体をした、という証を二人からいただき、わたしは"おしまい"を噛み締めていました。


いよいよ本当に和可菜の時間が終わりの日。
女将さんと最後の挨拶を交わしました。
おそらくわたしが最後の常客だったと思います。最後の一、二年は訪れるたびに帰りは居間に通され、お茶をしながらしばし歓談させていただきました。
女将さんにはいくつか定番のお話があり、いつも楽しそうに話されておりました。戦争中、落ちてきた爆弾のとある場所を押さえて爆発を止めた、というお話もそのひとつでした。そんなことが本当に出来るのかどうかは知りません。不発弾が転がってきたのでしょうか。どちらでもいいのですが、女将さんの大胆さと自由さがよく表れているエピソードです。何度聞いても楽しいもので、わたしはよく誘い水を出しました。この日もそんな定番のお話のいくつかを話されておりました。

そして別れのとき、女将さんが涙を流されました。
たいへん身勝手で不謹慎ですが、わたしはそれをうれしく思ったのでした。
わたしは確かにここにいた。和可菜にいた。
女将さんもそう思って下っていたのがうれしかったのです。
なにしろここは"ホン書き旅館"。
作家先生こそが認められる場所。
そんな場所で、わたしの存在も女将さんの中に残されていることは光栄のいたりでした。
涙を流す女将さんを見つめながら、厳かな緊張に包まれている自分を知るのでした。


ーーーーーー後記ーーーーーー
九月頃から、この原稿を書いては捨て、書いては捨てを繰り返しておりました。
いろいろな縁が絡み合っているので、人に分かるように説明するのが大変だったのです。
自分の筆力では限界だな、と半ばあきらめて、一応分かるかな、というところでUPしました。
繰り返しが多かったり、無駄な話が多いですがご容赦下さい。
菱田家の話が多くて、和可菜の話や患者さんの話が意外と少なくなってしまいました。他人のことをたくさん書くのがためらわれたのと、菱田家の話は美術史上で周知の事実が多いので、書きやすかったのです。

とにかく書き上げよう、と思った理由はもう一つあります。
九月に女将(和田敏子)さんが亡くなりました。96歳でした。
昨年七月にお見舞いに伺ったのが最後となってしまいました。
伝え聞いたところによると、最後まで大きな病気もせず、まわりに大きな迷惑をかけることもなく亡くなられたそうです。

    謹んでお悔やみ申し上げます。
    和可菜で整体をさせていただき、本当にありがとうございました。

現在、磯谷整体 東京室は、文京区本郷の「旅館 鳳明館」となりました。
奇遇なことに、女将さんのお墓はここから歩いていけるところでした。
また女将さんが近くにいらっしゃる、心強く感ずる次第です。

鳳明館でも、もちろん柏室でも、沢山の方々の人生を感じられるよう、尽力してまいります。

2019年12月2日月曜日

磯谷整体 東京室物語 〜和可菜のころ〜 その5

神楽坂に通い始めて数ヶ月たったころ、近くに東京理科大があることを知りました。
そこに近代科学資料館なる建物があり、菱田為吉さん製作の多面体木彫細工が常設されていることを合わせて知ります。
妻の曽祖父の為吉さんは手先が器用だったようで、20センチ角くらいの木材から多面体を沢山彫り出されたのです。知る人は知っている代物のようで、ネット上で取り上げている方が少なからずおります。

ある日妻と娘と三人で訪ねました。お参りのような心境です。
小さな資料館にもかかわらず、多面体細工をはじめ、為吉さんの資料がたくさん展示されていることに驚かされます。
この近代科学資料館は理科大の前身である東京物理学校の外観を復元した建物であり、為吉さんが通い、講師をつとめた時代のものであったので、その時代の象徴として為吉さんを取り上げているのかもしれません。

妻によれば、菱田家は親戚はもちろん兄弟さえ付き合いが途絶えていたようですが、ひとつだけ父親が懇意にしていた親戚があり、妻もそこだけは訪ねたことがあったようです。
展示資料の中に縁側で多面体を彫り出している為吉さんの写真がありました。それは妻がわずかに記憶する親戚の家だったようです。じっと見入る妻の胸に去来するものはわかりませんが、記憶をたぐりながら思いを馳せているようでした。

菱田家は優秀な一族であったようですが、残念ながら妻には受け継がれなかったようです。本人が言ってますので書いても怒られないと思います(笑)。子供の頃に妻の成績を見たお母さんは、ちょっとびっくりしてたようです。お母さんの家系も優秀だったらしく、勉強しなくてもできるのが当然と思っていたのでしょう。

義父の死後、伯母(義父の妹)さんらと食事をしたときのことも印象的でした。
二歳にして器用に箸を使うわが娘を見て、伯母さんは本気で心配し始めました。なにがそんなに心配なのか?と妻を驚かせたその理由は、『菱田家は器用貧乏だ。この子もそうなってしまうのじゃないか。』というものでした。
そういえば義父は文系ですが、遺品に自作スピーカーがあったり、若い頃は真空管とブラウン管を買ってきてテレビを作ったと話しておりました。
そしてわが娘、箸と自転車は早くからこなしてましたが、それ以外に器用さを発揮することなく中学生になりました。一安心です(笑)。


妻の縁に導かれたような話をもうひとつ。
わたしは千葉県松戸市で育ち、門下生修了とともに実家の最寄り駅「南柏」の近くに戻りました。
このあたりは松戸市・柏市・流山市が入り組んでいるところで、一日の中でその三市を行き来する人も珍しくありません。ローカルな話をすれば、国道6号もしくは旧水戸街道を北小金あたりから南柏まで通れば三市にまたがります。総称して東葛飾と呼ばれる地域です。
戻って最初に住んだのが流山市、操法室を借りたのが柏市、その後実家が松戸市から流山市に引っ越しました。
実家が引っ越して後、流山と菱田春草の縁を知ることとなります。

流山市は東葛地域で一番ローカルな印象を持たれておりますが、じつはかつては栄えたところ。なんと最初の県庁所在地です。正確には葛飾県・印旛県の県庁。明治維新とともに下総国舟戸藩主の本多家屋敷が県役所として使用されました。
江戸時代から利根川と江戸川の舟運を活かして遠くは東北からの年貢米が揚げられ、流山周辺で作った醤油やみりんを江戸に運んで栄えておりました。その流れで、明治期のこの地域にはいくつかの富商がありました。しかしやがて舟運の時代は終わり、この地域は斜陽をむかえます。

流山電鉄という鉄道マニアに支持される単線のローカル鉄道がありました。いえ失礼、現在もあります。乗ってみればわかりますが、東京からほどない距離にもかかわらず、ちょっとした時間旅行気分を味わえます。終点で降りると「近藤勇終焉の地」とありますが、それを盛り上げる雰囲気が皆無なため、ローカル感を後押しします。

東京ー千葉ー茨城を結ぶ常磐線。これは流山に敷かれるはずでしたが、舟運業者たちの猛反対にあったようです。なんと愚かな(笑)。もしも流山に常磐線が通っていたなら、東葛地域のバランスは今とは全く違ったものになっていたでしょう。つくばエクスプレスは存在しない、あるいは松戸側を通っていたかもしれません。日本最初の団地「光ケ丘団地」も、柏市でなく流山に建設されていたかもしれません。しかし常磐線が通らなかったからこそ、流山には昔の面影が残されました。

秋元家は江戸時代に酒造業を興し、のちにみりん業でさらなる財を成しました。江戸期には小林一茶と親交を深めた秋元双樹がおり、文化・芸術へ支援を重ねてきた家系です。
隆盛期の最後をつとめた秋元洒汀も同様に文学をたしなみ、文化・芸術への支援をされておりました。その一人が菱田春草です。代表作となった『黒き猫』も『落葉』も完成と同時に洒汀が買い取ったため、どちらもはじめは流山市にあったのです。その後細川護立のもとへ引き取られ、管理団体の永青文庫に収蔵され、どちらも国の重要文化財となります。

和可菜で整体を始めて翌年あたり、秋元家で春草の手紙を公開しておりました。秋元家は現在秋元由美子(画家)さんに継がれ、建物の一部は市に寄贈されました。その寄贈された建物内で、ある年手紙が公開されており、家族三人で観に行きました。
秋元さんはわたしたち(正確には妻と娘でしょうね)の訪問を大変喜んでくださいました。そして妻と娘を見つめながら、そこに春草の面影を見出そうとされているようでした。人というのは、亡くなってからも誰かの中にありありと生き続けるものですね。妻とその一族は、わたしの中でますます存在感を増すのでした。
手紙の中に弟唯蔵さんのお礼状がありました。春草への支援を感謝する手紙です。ふつう弟が兄のことでお礼状を書かないだろうと思いますので、兄弟の愛情と信頼を感じさせるものとして、わたしの中にのこりました。

そういえば妻のお母さんが亡くなる数日前、病床から無理して起き上がるようにしながら、
「みんな仲良くね」と再三仰ってました。
その場にいたのは妻のお父さんと妻のお姉さん、妻、私。いろいろあったのだろうと思わされたのでした。

(その6につづく)

2019年11月28日木曜日

磯谷整体 東京室物語 〜和可菜のころ〜 その4

和可菜初日。
二人診ておしまい。
赤字ではないが黒字とは言えない。
そんなことより…、
自分はいま和可菜にいる。
心の中でなんどでもかみしめる。

すっかり陶酔してるところへ、
興味をもったお手伝いの方が整体を受けに来た。
整体が終わって帳場の奥に戻られた。
どんな感想を持たれたのかはわからない。
話を聞いた別の方がまた整体を受けに…
その話を聞いた方、たまたま女将さんを訪ねて来られた方が整体に…

こうして和可菜初日は、わたしの不安を忘れさせてくれるものとなったのでした。
しかし女将さんに会ってない。
女将さんに会えなければ、"和可菜に来た"のマイヒストリーは始まりません。


和可菜二日目。
女将さんが整体を受けに来られました。
「この間はうちのものがお世話になりました。」
最初に丁寧なご挨拶をいただき操法しました。

すでに八十も後半でしたが、呼吸に力がありました。幼少期は弱かったとのことですが、ていねいに体を使ってこられた跡がありました。
はっきりとした物言い、打てば響くような返事の早さ、なんとも爽快な方でした。
これ以降、和可菜閉館まで診させていただきました。
途中股関節を壊したときは時間がかかりましたが、しっかり回復されました。

「危ない」ということもありました。
わたしがそう感じただけですが、極端に力が衰えたことがあり、
「危ないです」と伝えたことがありました。
二日くらいは元気がなくなったようですが、その後また元気になりました。
「危ない」と言われたことで、いろいろ思い直しふっ切れたと仰ってました。
人の「生きる力」とは不思議なものです。


Oさんは和可菜で整体を始めて間もない頃にいらっしゃいました。
紹介なしでやってきた初めての患者さんです。
ホームページを読んで興味を持たれたとのこと。あまり話さないご婦人でしたが、よくホームページを読んで下さっているのがわかり、こちらもうれしくなりました。
きれいな背骨をしていて弾力もありましたが、少し過敏なものがありました。
上胸部の抜けたところに古い問題が感じられ、解消するのに数年かかりました。

Oさんがいらした次の和可菜の日、神楽坂に住むというOさんの妹さん夫婦が来室されました
妹さんの姓はFさん。そう、福岡講座のFさんと一緒。名が妻と一緒。ついでに言えば年がわたしと一緒でした。
和可菜への道筋をつけてくれた福岡のFさんと同姓。このことがわたしを勇気づけました。
名前が符合したからといって特別意味を感じない方ですが、不安を抱えて始めた東京室だったので、この始まりの時期にFさんの名前は特別な力を与えてくれるのでした。

引き続きOさんのお母さん、息子さんが来室され、和可菜で整体を始めたことに迷いが消えていきました。
えらく優秀な体の若者だな、と思ったら息子さんは東京大学で物理を学んでいる学生でした。大学で鳥人間コンテストの活動をしているとかで、その後設計を担当されたりしておりました。これは唯蔵さんのご縁かな、とあとで思ったものです。
(菱田唯蔵:東京帝国大学教授 航空工学博士 菱田春草の弟 妻の曽祖父菱田為吉の弟)


その後Oさんのお宅に何度か往診に伺いました。
驚いたことに、そこは目白の永青文庫のすぐ近くでした。
音羽で永青文庫を想った日々が思い返されます。往診の道々のぞいてみると、雑木林のなかに古びた建物がありました。その風情になおさら郷愁を掻き乱されます。大家さんが磯谷(いそや)さんだというOさんのマンションの前に立つと、ここでも懐かしさが湧いてきます。東京に住んでいる頃はバイクで移動していたこともあり、このあたりは数え切れないほど通りました。
何度目かの往診のとき、それにしてもなにか…………と、わたしはOさんのマンションの前で考え込みました。

「あ!」
思わず声が上がりそうになりました。いえ、声が上がりそうというか、全身がパッと爆ぜるような衝撃でした。通りの反対側にあるマンションは、かつてわたしが何度も訪ねた場所だったのです。二十代前半、公私にわたってお世話になった社長がおりました。そこはその社長のかつてのお住いだったのです。思い出して驚いたというか、あれほどの日々を忘れていた自分に驚きました。15年ほど経っているとはいえ、そこは何度も、いろいろな思いを抱えて訪ねた場所なのでした。
整体を学び、門下生生活という濃密な時間を過ごし、整体にかけた人生に入ったわたしには、その前の出来事の多くがはるか昔のことのようになっていました。そしてそのことが時に人生の齟齬のごとくわたしに迫っていた時期でした。自分の中で不協和音が鳴り止まない。昔の知人に会っても、わたし自身が変わってしまったせいか、昔のように噛み合わない。そんな時期です。

    目白通りの向こうで青春の残像が息を吹き返す。
    目白通りのこちらで整体指導者として背負ったものが脈打つ。

過去と現在の断絶を感じていたこの時期に、通りの向こうとこちらにそれを象徴する二つの建物が対峙しておりました。

    さらに背後には永青文庫。
    向かいのマンションを向こうに降りたところは、
    妻と出会った井本整体音羽道場があったところ。
    過去も現在も、今この場所で当たり前のように渦巻いておりました。

それがひとつの啓示となりました。
変わらない自分と、変わってきた自分と、今ひとしくあるという当たり前の事実です。
不確かになっていた自分に気づき、再び確かになっていく自分を得られた瞬間。それは救いでもありました。
こんな経験ある方、結構いらっしゃると思います。
Oさんが呼んでくださったのか、春草が呼んでくださったのか、いずれにせよ、得がたい瞬間に感謝するのでした。

(その5につづく)

2019年11月25日月曜日

磯谷整体 東京室物語 〜和可菜のころ〜 その3

三年後、門下生修了。
門下生の生活を書いてるともう終わらなくなるので、ここではしょります。すいません。
井本先生より「開業しなさい」のお言葉をいただき、晴れて郷里に帰りました。


開業する喜びはもちろんありましたが、やっと妻と暮らせる喜びと安堵ははかり知れないものがありました。離れていた期間のせいか、今でも妻と生活しているだけで幸せがあります。
さて、一応結婚式をすることになりました。
このときの妻のお父さんのスピーチが忘れられません。

「若い頃は『春草がなんだ、俺は俺だ』と思ってましたが、最近はそこまでは思わなくなりました………。」
そう言って春草の画集をプレゼントしてくださいました。
(春草は義父の祖父の弟)

菱田春草は兄の為吉、弟の唯蔵の支援と愛情を受けながら大成した方です。より正確に言うならば、大成しかけたときに夭逝しました。
東京美術学校(現在の東京芸術大学)校長を追われた岡倉天心は、「日本画に革新を」という思想のもと、共鳴する者たちと日本美術院を組織します。日本美術院は院展を開いているところ、というのが一般的にはわかりやすいでしょうか。
東京美術学校ですでに講師をつとめていた菱田春草、横山大観、下村観山らも職を辞し、日本画の革新に挑みます。
輪郭線を省いた日本画。それは当時ではありえない思想だったようです。輪郭線がないために境界部分がどうしてもぼやけてしまう「朦朧体」と呼ばれるこの技法。「朦朧としているから」という侮蔑が当時込められていたようです。


ここでちょっと脱線いたします。
「解体新書」をご存知でしょうか?
日本史の授業に出てくる杉田玄白の訳書ですね。日本に西洋医学が入ってきたという歴史の1ページです。
原著の図版には輪郭線がありませんが、訳書では輪郭線を用いて描かれております。江戸期における絵画の考え方として、輪郭線の存在は確固とした地位を持つものだったようなのです。
もう少し補足すれば、絵画表現と人々の感性は相互作用しながら、認識と表現の歴史を潜在意識下に刻みます。
未開の部族に絵を見せたときにどのように理解するか?
といった実験が人類学上あるように、われわれは気づかないうちに二次元表現の技法から認識方法を方向づけられ、感性を育てられております。
ちょっと古いですが、漫画「アキラ」が出たときにその表現の斬新さが話題となりました。今まで見たことのない技法から、新しい感性が想起されることは、文化・芸術ではよくあることです。というよりも、そういうことに挑戦しているのが、文化・芸術です。自然科学もかつては感性を育てたのでしょうが、現代はもう発明に偏り過ぎでしょうね。科学に実利しか見えなくなってしまったので、「人文社会学部はいらない」といった発言が出てくるのでしょう。一番わかりやすい文学の意義でさえ、多くの人々に分からなくなってきたのが現代だと思います。


戻ります。
思想家であり、画家ではない岡倉天心がどのような思考の軌跡を辿ったのかは浅学のため知らないのですが、江戸期日本画の技術継承から一部脱却をはかったことは確かです。このハードルの高さがどの程度のものであったかは、当時の文化史・風俗史とともに理解しないといけないため分かりかねますが、職を辞してまでという点から、かなりのハードルであったことがうかがえます。

個人的には春草はもともと思想的跳躍に挑む人であったように思えます。
21歳の東京美術学校卒業制作『寡婦と孤児』では、乳飲み子を抱きながら途方に暮れた寡婦のそばに、主をなくした鎧と刀を描いて寡婦となった今とこれからを暗示させます。『水鏡』は美しい天女を描きながらも、いずれ老いゆく姿を空想させます。

『落葉』では地面に散らばる落ち葉であると同時に、舞い降りる落ち葉にも見えるという視覚効果を使っています。同時には存在し得ない二つの様態。これはロジックとしてはエッシャーのだまし絵と同じものです。観る人の認識を揺さぶり、現実感を奪うのです。ただの雑木林を描いているにもかかわらず、幻想の世界へ引き込まれてしまうのはこのためです。「朦朧体」という技法だからこそ成し得た究極的な絵だと思います。

能書き書いてますが、絵のことは詳しくありません。しかし読み解ことしたときに、春草ほど意味を見せてくれる画家も稀だと思います。こうした思想上、認識上の挑戦が、わたしをいたく刺激するところでもあります。
また凡人は技術を磨いているうちに、技術を行使することしか考えなくなるものですが、春草は技術を磨いてなお技術に溺れることなく、それを使ってなにを生み出せるか、という可能性と課題を十分に抱いていた非凡な人と言えます。こうした生き様に、整体をやっているわたしは憧れと戒めを感じたりします。

また日本美術院を創設した方々に僭越ながら共鳴しています。
余談ですが、横山大観が整体創始者・野口晴哉氏の整体を受けていたことは有名な話です。横山大観が整体のどこに共鳴したのかはわかりませんが、「朦朧体」の確立に挑み、『無我』といった挑戦的な作品を打ち出した大観が、整体の思想的挑戦に共鳴していたなら、うれしいことです。


日本美術院は朦朧体の作品を次々と生み出し、海外での展覧会に打って出ます。おおむね好評を得られたようで、日本でも次第にその地位を確立してゆくこととなります。春草の死は、そんな矢先のことでした。
明治天皇や流山の富商・秋元酒汀が春草の作品を買い取るようになり、春草の生活も少し楽になり始めた頃から、眼病を患い目が見えなくなっていきます。『黒き猫』は亡くなる前年の調子のいいときに、一週間足らずで描かれた作品です。『黒き猫』は秋元洒汀に引き取られ、『落葉』とともに収蔵されることとなりました。


夭逝した春草。兄弟の悲しみはどれほどのものか、伝え聞くものはなにもありません。
自身も絵がうまかったけれど、弟の画力を見るにつけ、為吉さんは弟を支援することに決め、自身は学業をおさめます。大正天皇の教育係をつとめ、東京物理学校(現在の東京理科大学)の講師となります。春草の弟唯蔵さんも学業をおさめ、航空工学博士となり、東京帝国大学(現在の東京大学)教授となりました。
為吉さんは子、孫世代へも芸術への喚起・奨励をされていたようで、そのことがどうやら菱田家に暗い影を落としたようです。義父は為吉さんの直系にあたりますが、苦い思いがあるのか、そのあたりのことを家族に話さなかったようです。

義父が亡くなった後に、義父の妹さんが
「春草の描いた仏壇の扉があったはずだけど…」
と教えてくださいました。それは為吉さんが作った扉に春草が絵を描いたという兄弟の合作でした。妻も妻のお姉さんも記憶になく、いつどのように手放されたのか今となっては分かりません。後に代々木で春草展があったときに展示されているのを見つけました。それは扉だけとなっておりました。扉はなにも語ってはくれませんが、お世辞にも保存状態が良いとは言えず、傷みの目立つその様に来し方を想うのでした。丁寧に保管されてきた文化財のなかであれば一層のこと、それは目立つのでした。義父が最後にこれを手にしたのはいつのことだろう、それはどんな状況だったのだろう。それを思うと、なにか苦いものが口の中に広がるのでした。

そんな義父が結婚式のときに前述のスピーチと春草の画集をくださったことは、わたしにとって意味深いものとして響きました。門下生になる前に入籍だけすることを許してくださった義父です。おそらく整体でやっていく道のりを慮ってくださったのだと思います。一族に絵の道を支援された春草と、その一族の残滓に翻弄させられ、もろもろの精算を負った義父には、なにかに人生を掛けることの価値と危険が骨身に沁みていたのだと思います。
美術史の上では、春草は芸術のためにしか絵を描かなかったとされていますが、義父によれば生活のための絵も実は描いていたとのことです。ことの真相はわかりませんが、義父としてはわたしへの箴言の意もふくめていたのだと思います。

『黒き猫』は春草の孤高さのイメージとよく重なる作品です。
わたしは春草そのものだと感じていますし、そう感ずる人は多いと思います。
睨むでもなく、微笑むでもなく、ただただ意思をたたえる黒猫の目。
無口で頑固であったという春草の静溢さと心のブレなさそのままが描かれていると感じています。
この絵に魅入るようになったのは、開業してからですが、この佇まいが自分にもほしくて、操法室の玄関にカラーコピーを額に入れて飾っておりました。


話は戻りまして和可菜の玄関にある黒猫と和服美人の絵。
こちらは伊藤深水作ですが、同じ黒猫が玄関にいることはわたしにとって気の高まるものでした。
ちなみに和可菜ではメメちゃんという黒猫が飼われていたこともあるそうです。暗闇で目が二つ光っているからメメちゃんだそうです。

和可菜は女将(和田敏子)さんの姉・木暮実千代(和田つま)さんが買った建物でした。
未亡人となり、木暮さんのつき人をつとめていた敏子さんの将来を思い、実母登喜さんが木暮さんに買わせたというのが真相だそうです。女一人で生きていくために旅館を、ということです。

敏子さんは生まれる前からの約束で、和田家の本家に養女に出されました。実子に見せる演出を経ていたので、兄弟同志でさえその事実を知るのは成人して後だったそうです。本家は牛乳屋で財を成していたけれど跡継ぎがない、ということで敏子さんを迎えたわけですが、戦争もあり、大人になる頃には廃業しておりました。
じつは敏子さんの実父は本家の長男でした。本来なら跡を継いでいたはずですが、放蕩が過ぎて追い出され、下関に流れて居をかまえました。そんな父親のもとで育った木暮さんは東京に出て女優となり、生まれてすぐ東京に出されていた実妹と人生を重ねるようになるのですから、不思議なものです。相性もよかったようで、亡くなるまで密な交流が続いたようです。

和可菜は木暮さんの女優としての全盛期の収入、育てられなかった実母の思い、本家が衰退し、さらに未亡人となった敏子さんの寄る辺なき身の上から生まれました。
数奇な人生を歩まれた女将さんはどんな人なのだろう?
基本的に人物や人生に興味があるわたしなので、女将さんに会うのを楽しみにしておりました。

2019年11月21日木曜日

磯谷整体 東京室物語 〜和可菜のころ〜 その2

さて……、
悩ましい日々となりました…………。
やっぱり和可菜で整体やってみたい………………。
どのくらい悩んだか……、ひと月だったか半年だったか、今となっては思い出せませんが、妻に相談し、ある日決意して一人和可菜を訪ねました。

「ここで整体をしたいのですが……。」
出てこられたのはお手伝いの方でした。普通は仲居さんと言うのでしょうが、和可菜では「お手伝い」という言い方をされておりました。
「ちょっと待ってくださいね。女将さんに聞いてきます。」

(断られたらどうしよう)
(女将さん出てきてくれないかな)
(断られたら直談判だ)
ほんの数分でしたが、もりもりと闘志が湧いてきます。

「いいですよ。」
あっけなく承諾していただけました。

思い煩っていた時間の重さが春の雪解けのように流れ出す。
胸の奥で湧き上がる高まりに耐えられず脚が震え出す。
そして新たな緊張と不安がうずまくのでした。
そりゃあそうです。なにしろ採算が見込めないのですから……。

帰り道で妻にメールを出し、帰ってからFさんにメール。
さて準備しなくては……、
といっても整体は操法布団以外にはほとんど必要なものもありません。主な準備は自分の心を整えることでした。


先だっての朝食のときに見つけたのか、この交渉のときに見つけたのか、すでに記憶が曖昧ですが、玄関の黒猫が気になっておりました。
和可菜の玄関には黒猫を抱く和服美人の絵が飾ってあります。
ずっと女将さんだと思ってたのですが、往年の大女優木暮実千代さんでした。
木暮実千代さんは女将さんの実姉で、和可菜を購入された方です。
絵を描いたのは伊東深水という日本画の大家。その娘さんは女優の朝丘雪路さんです。

この黒猫がわたしにはとても気になる存在でした。
というのも黒猫はわたしにとって、ひとつの象徴になっていたからです。
それを説明するには、妻との出会いと結婚をお話しなければなりません。


妻の旧姓は菱田。出会ったのは東京都文京区音羽の"井本整体"です。今は千駄ヶ谷に大きな自社ビルをかまえておりますが、当時はマンションの集会スペースを改装した小さな私塾でした。地下鉄有楽町線「護国寺駅」のホームから長い階段を登り、外に出てから急な坂道をまた登り、都会の真ん中で山寺を訪ねるかのごときロケーションでした。
そこで「東京セミナー」の実行委員をお互い二年ほどつとめたのが、距離が縮まるきっかけでした。
セミナー活動を認められたわたしは、ある日井本先生から「門下生(内弟子)になりなさい」となかば既成事実のようにお声をかけていただきました。周囲からも磯谷は門下生になるのだろうと見られてましたし、わたしにもその自覚はありましたが、東京セミナーを控えた一週間前でもあり、ついにこのときが来たかという充実感よりも、このタイミングで来てしまったというあせりが先にありました。

「磯谷くんともう一人連れて行く。もう一人はセミナースタッフの中から磯谷くんが選びなさい。」
さて困りました。しかし迷っている間もありません。その日のうちにスタッフ五人に集まってもらい、その旨伝えました。「門下生になりたい人」と問うと、妻以外みな希望しました。選びなさいと言われたわたしですが、それぞれ先生に意思を伝えて下さい、と告げました。ずるいといえばずるいのですが、そうすればもう二人行けるかもしれない、いや三人かもしれないという期待がありました。最終的には全員東京門下生として修行し、そのうち二人はのちに山口でも門下生として修行されました。結果的には正解だったと思っております。

さてセミナー本番一週間前という忙しいときに門下生に決まり、わたしはほかにも大きな決断を迫られていました。
つきあっている妻のことはどうしよう……。
若ければ帰ってくるまで待ってて下さい、というところですが、年齢的にそれは許されず、修行は何年かかるかもわからず、別れるか籍を入れるかの二択しかありませんでした。悩むほどの時間もないまま、その日のうちに結婚することに決め、セミナー当日を迎えることとなりました。


恋人同士という時間があまりなかったので、じつに互いのことをあまり知りませんでした。セミナー活動を通じて人となりを知っているのがお互いの信頼関係のすべてでした。
しかし結婚するとなるとそれでは物足りなくなってきます。おごそかな私塾内の公的な顔でなく、私的な妻の顔を知りたい、門下生となるまでに、はなればなれの生活になる前に、もう少し彼女を知りたい。そんな歯がゆさがありました。
互いのことを話す中に、
「ひいおじいさんの弟が画家で、その絵が目白の椿山荘の近くにあるのよね。」
というのがありました。
椿山荘は護国寺から目と鼻の先、歩いて行けるところです。時間を合わせれば行けるだろう。
所蔵しているのは永青文庫。その絵は『黒き猫』。画家の名前は菱田春草。

しかし通常は展示されていないとのこと。
「『子孫です』って言って見せてもらえないかな」
わたしが無茶なことを言うと妻は「無理でしょ」という顔でした。
あとでわかりましたが『黒き猫』は国の重要文化財。『子孫です』で見せてもらえるはずもない代物でした。

門下生として旅立つまでの短い時間で出来ることは限られており、黒猫はこれ以上深追いしませんでした。なにしろいつ門下生として山口へ旅立つのか、その期日も分かりません。当時の井本先生の勢いは、ある日山口に連れて行くことくらい当たり前の風情でした。実際その一年ほど前、ある日突然「今から山口行くか」の一言で山口に連れて行かれたことがありました。
そんな事情もあり、やるべきことは早めに、という毎日。たがいの親に挨拶をすませ、籍を入れ、わたしの荷物を妻のアパートに移し、二週間ほど一緒に暮らし、ついに期日を告げられ、わたしは門下生となりました。
門下生生活に自分のことを入れるスキはなく、やがて菱田春草の名前もすっかり忘れ去ってしまうのでした。

(その3につづく)

2019年11月18日月曜日

磯谷整体 東京室物語 〜和可菜のころ〜 その1

東京でも整体をするようになって、早10年となります。
あるときふと思い、なんとなく調べ始めただけなのですが、いつの間にか本当になっておりました。

はじめに"和可菜"という味わい深い旅館へ憧憬を抱き、
人に話したところ、そのまま導かれるようにはじまり、
そして様々な縁に囲まれていたと気づかされた次第。
思い返せばまことに不思議な縁に恵まれていて、
ときどき人に話してはみたものの、
他人の縁の話というのは周辺事情の説明も必要であり、
全部説明すると冗長になりすぎるのでわかりにくい。
仕方なく途中をはしょって話してきましたが、はしょると縁の妙が伝わらない。

そうしたわけで冗長になりますが、個人的な東京室の物語です。よろしければおつきあいください。


千葉県は柏市で整体を開業し三年が経ったころ、ふと東京でも整体をするならば……、という空想をするようになりました。
山手線の西側からいらっしゃる方が数名おり、中にはつき添いとともに来室される方がいらっしゃったからです。

(一日くらいこちらが東京に行く日があってもいいかもしれない……)

当然ながら採算がとれる見込みがないため、あくまでも空想でした。
"東京 旅館 和室"といったキーワードで検索して、引っかかった情報に対してあれこれ想う楽しみにとどまっておりました。普通は貸しスペースのようなところを調べるのでしょうけれども、整体は基本的に床でないとできません。ホテルの中にある和室も検討しましたが、オートロックで閉まるような重い扉は女性を緊張させてしまうので、廊下と部屋がゆるく仕切られている状況が望ましいのです。
そうしたわけで検索キーワードは"旅館 和室"となりました。

和可菜は最初の方にヒットしました。もともと"東京 旅館 和室"は該当物件が少ないこともありますが、"ホン書き旅館"という称号で有名な旅館だったので記事が沢山ヒットしたのです。女将さんへのインタビューや"ホン書き旅館"に惹かれて泊まった方のブログなど、結構ありました。そしてこの"ホン書き旅館"なるワードが私をいたく刺激しました。私は昔から本が好きなのです。

作家がカンヅメになる旅館に違いない。
編集者に連れられてやってきて、
部屋の中とか、となりの部屋で見張られながら、
作品が仕上がるまで出してもらえない……。

御茶ノ水の「山の上ホテル」や「まんが道」にあった手塚治虫が頭をよぎります。もうなんか十代のころに夢想したモノ書きの姿を自分に重ねて陶酔しておりました。

もっと知りたい、、、
どうやら和可菜を描いたエッセイがあるらしい。
「神楽坂ホン書き旅館」
さっそく購入。

読んでみると、わたしの空想とはちょっと違ってました。"ホン書き"の"ホン"とは脚本のことだそうです。映画の脚本家がおもに利用していたことで、和可菜はその名を広め、のちに小説家も利用するようになり、なかでも野坂昭如さんはわたしの夢想したカンヅメ作家を体現していました。

連載を複数抱え、
別の部屋に各社の編集者がピリピリしながら控え、
作家はスキを見てこそっと抜け出す。

そういうあり方ですね。
ほかに感慨深かったのは、色川武大さんも利用されていたことでした。十代から二十代にかけて、別名の阿佐田哲也とともにほとんどの作品を読んでいたのです。のちにわたしが整体をするようになった部屋を利用されていました。

この文章を書くにあたって、和可菜についてあらためて本を読み直しました。目に止まったのが本田靖春「不当逮捕」、和可菜で書かれたようですね。最近、金子文子「何が私をこうさせたか」、ブレイディみかこ「おんなたちのテロル」などが面白かったので、今になってまた和可菜に感慨を覚えた次第です。

さて「東京で整体をしたい」という願望は、いつのまにかかつて憧れていた"モノ書き"願望へと昇華され、想いはかなり混沌となっておりました。

和可菜で整体をする自分は、
和可菜で仕事をする人であり、
和可菜で仕事をする人はつまり"モノ書き"である。

そんな三段論法にいつの間にか絡め取られて喜んでいる自分と知りながらも、和可菜で整体をすることと、モノ書き幻想が切り離せません。和可菜へのときめきが止まらない、そんな状態です。
(思い煩っているのも体に悪い。採算の見込みがなくてもとりあえず現地までは行ってみよう。)
ある日思い切って和可菜を訪ねました。

JR飯田橋駅を降り、大きなタマネギで有名な日本武道館とは反対方向の神楽坂方面へ、お堀を渡り、大食いチャレンジで昔から有名な神楽坂飯店を右に見ながら急な坂道へ、これまた有名な老舗の甘味処・紀の善を通り過ぎ、神楽坂のてっぺんへ、毘沙門天の向かいのビルとビルの間の路地、ひと一人分の巾しかないビルの間を抜ける、少しだけ広くなり、風情ある石畳の階段をくねりながら降りたら目に入ってくる格子戸、そこが和可菜でした。


ほんとに訪ねただけ。
見に行っただけ。
黒い塀、「和可菜」の文字、
なにもはまってない格子戸、
格子戸の先に窓が見える、部屋だろうか。
だれかいるのだろうか。
耳をそばだてる自分がいる。
知ってる作家さんがいたらどうしよう。
勝手にときめいてしまうが、もちろんどうもできません。

格子戸の左の方に玄関が見える。
予約しているわけでもない。
整体で借りたい、と交渉する段でもない。
ただもう思い入れしか持っていない。
和可菜にアプローチするなにものをも持たず、
ただ見るしかない。なんとももどかしい。
心を踊らせながらも、しばし立ち尽くして帰りました。


借りるようになってからわかりましたが、このあたりはガイドつきで散策している方がたくさんおられます。和可菜ももちろん観光スポットであり、門前で講釈を受けている人たちの姿をよく見ました。通りすがりの人でも和可菜の前で「ここは、、、、」とよくやっていました。
あの日の自分のように憧憬を懐く人、入ってみたくて佇んでいる人、そんなふうに見受けられる人もよく見かけました。

さて和可菜を訪ねて数週間。和可菜への思いは募ります。
そんなある日、Fさんに
「実は、これこれこんな旅館があって……。」
あふれる思いのまま話しておりました。

Fさんは井本整体福岡講座の生徒。わたしが彼の地で講師をしていた時の最後の年の生徒でした。たった一年しか指導できませんでしたが、Fさん姉妹はわたしが辞めてからもわたしを慕ってくださり、そのことがわたしをいつも勇気づけました。「辞めてからもそんなに慕われて幸せですね」と言われたことも一度ならずあったので、端からもそのように見えたのでしょう。
そうしたわけで、Fさんが井本整体東京本部に勉強に来られたときは、いつも会食しておりました。
和可菜への思いを話したのもそんな折です。どこに食べに行きましょうか、と話しているときにふと和可菜のことを話したのです。

「実は、和可菜という旅館があって……、整体をやってみたいんですよね。まあ、現状無理なんですけど……。」
するとFさんは、
「今から行きましょう。」
「!?」

なんと行動的な方でしょう。朝から一日中整体を学び、もう日も暮れてるというのに、これから電車に乗ってもうひとつ動きましょう、というのです。その心の自在さに魅了され、その行動力に圧倒され、当然ですよといった風情に絆(ほだ)され、神楽坂へと向かいました。

JR飯田橋駅を降り、大きなタマネギで有名な日本武道館とは反対方向の神楽坂方面へ………、
前に来たときと同じですね。
そしてまたしても、旅館の前で佇みました。今度は二人です。
「いいですねぇ」
「いいでしょう」
「いいですよねぇ」
月並みな会話を繰り返し、そのまま旅館を後にしました。
不思議なものです。他人と共有したことで、一人で夢想していたときよりも"和可菜"はリアルに迫ってくるのでした。

数日後。
Fさんからメールが届きました。
「次の特別講座(東京本部で年三回行われる集中講座のこと)のときに和可菜に泊まります。もう予約しました。妹も一緒です。」

またしてもFさんの行動力にやられました。そして、
「朝食が美味しいらしいので、先生も朝食だけ来られませんか?お願いしてみます。」

いつの間にか和可菜についてはFさんがリードする形になっていました。
「うかがいます。」
こうして朝食だけ和可菜体験することとあいなりました。

さて当日。
自宅を五時過ぎに出て、和可菜に六時半くらいだったでしょうか。わたしはおまけみたいなものですが、今度は晴れてお客さんです。
格子戸の向こうの部屋の窓が開いて、Fさんの妹さんが見えます。
覗き込むしかなかった格子戸を開け、石畳を数歩踏みしめ玄関へ。お二人が迎えに出てくれました。

薄暗い玄関はなんとも言えぬ懐かしさにあふれ、わたしを異空間へ誘うのでした。
朝食は玄関横の部屋。飾り気のない質素な雰囲気で、何色にでも染まりそうな空間でした。
そして朝食をいただいたわけですが、じつにほとんど覚えておりません。おいしかった、くらいは覚えておりますが、わたしはこのとき和可菜の空間に浸るばかりとなっておりました。

ぜひに会いたかった女将さんに会えなかったことが心残りとなりましたが、Fさんのおかげで和可菜はますますわたしの中で熟成されていくのでした。

(その2につづく)

2019年8月18日日曜日

暑さとは、、、

人間は寒さに対しては敏感だが、暑さに対しては不思議なほど鈍感なところがある。
寒さの限度には対処しようとするが、暑さの限度には対処しないことが多い。だから熱中症が減らないのだ。

一日中エアコンのきいた部屋にいるからといって安全ではない。温度設定が高い、あるいは日の射すところにいると、熱中症になってしまうことがある。
ほとんど動かない老人や、寝たきりの病人がいる家は気をつけなくてはいけない。頭、顔、掌を触って、いつもより熱くなっていたら熱中症の入り口を疑う。
濡れたタオルで顔や首を拭く。団扇であおぐ。あおぐところは顔、頭、脇、鼠径部。口の中も有効。熱中症の入り口であれば、このくらいで足りる。

喉が渇くからといって甘いジュースを沢山飲むと、血糖値が上がりすぎて危ないこともある。症状が熱中症に似てるのも注意が必要。熱中症の中には、隠れ高血糖が潜んでる気がする。
汗をかいただけの状態、肉体疲労をともなわない状態であれば、水と塩で十分だし、安全。量の調整も感覚で分かる。


ネイティブアメリカンのグランドファーザー。
暑い中平然と過ごしているのを見た婦人が
「暑さをものともしないのですね」と話しかけると
「これは本物ですから」と答えたそうだ。

グランドファーザーは人生の大半を真理探求の旅に過ごした。
砂漠で過ごす中で“暑さ”を。北極圏で過ごす中で“寒さ”を知った。

私にはとても真似出来ないが、誰にでも自分の知る“暑さ”はあると思う。
自分の知ってることを見つめ直すくらいならできると思う。

暑ければ動きは鈍くなり、頭の働きは低下する。酒を飲んだときのように、計算能力や物事を思い出す能力が低下する。
100メートル先がいつもより遠く感じ、知らないうちに口が開いてくる。吐く息に熱さを感じ、音を遠く感じる。周囲の歩行者や自動車のスピード感があやふやになってくる。

“暑さ”はみな経験していることなので、暑い時の自分の状態を推し量るよう努めれば、今どのくらい暑い状態なのかを知ることができる。漫然と暑さを見過ごすよりも、知ることに向かってほしい。


暑くてぼーっとしてきたときは、目を大きく見開いて、鼻からゆっくり長く息を吸い、口から吐く。
こうすると頭が少しクールダウンする。

生理学上の知見では、人間においては脳へ行く血液を冷やす構造が見つかっていない。大きな脳を持つのに、血液の20%を使ってしまうのに、脳に何の対策もないのは奇異に感ずる。おそらく何かあるのだと疑っている。

生理学的には不明でも対処したい。
人間は呼吸を自在に操る唯一の生き物だ。呼吸で対処するのが人間らしく、手軽でいい。なにしろいつでもできる。持ち物もいらない。人間の偉大な能力だ。
生理機構にアプローチするのは通常困難だが、呼吸だけは顕在意識で操作できる。



まだしばらく暑いようですね。
私は小袋に入った塩をいろんな人に配っております。
水は調達できても塩は意外と難しいからです。
お守り代わりに、、、と言って渡してますが、沢山汗をかいたときは試しに舐めてみて下さい。
塩の美味しさを感じると、体の要求が理解できます。
そういう実感の積み重ねが大切と思います。



ペットボトル症候群 - Wikipedia
グランドファーザー -Amazon

人間はどこまで耐えられるのか -Amazon
暑さについて生理学的にも知りたい人は上記の本。
「第3章 どのくらいの暑さに耐えられるのか」を読んで下さい。
実感できる生理学の本として秀逸です。

Life at the Extremes -Amazon
 上記の原著、表紙はなんと日本の海女さん。クリオネのように美しい。外人がこれを選んだ意気に応えて装丁買いしたくなる。買ってませんが。。。

2019年6月3日月曜日

早いけど熱中症について

まだ少し早いのですが、、、

本格的な暑さはまだ来てませんが、
時々ひどく暑い日もあるので、熱中症の話。
今回は「塩」がテーマです。
いつものように独断が含まれてます。


■塩くばってます。

注意喚起を含めて、整体に来た人に塩を配っております。
弁当用の小袋です。

テレビでもネットでも熱中症への注意喚起や対策が行われているので、
ほとんどの人はそれなりに認識してるとは思うのですが、
個人的には塩の重要性について注意喚起が足りてないと思っております。
ちょうど高血圧の基準値が下がったこともあり、心配になってきました。


大量の汗をかいた時には、相応の塩が必要となります。
それくらい誰でも分かっていることではありますが、
現実問題としては、適量の塩を摂る準備をしてる人はほとんどおりません。
塩飴やスポーツドリンクでこと足りると思っている人が大半ではないでしょうか。

水筒やペットボトルを持ち歩く人でも、
塩と一緒に持ち歩いてる人は聞いたことがありません。
コンビニや自販機で買う飲み物にも、
塩が含まれているものはごくわずかです。

スポーツドリンクにはある程度ふくまれてますが、
糖分が多すぎて、スポーツや肉体労働でもしてないかぎり、
適さないと思っています。

外回りの営業など、肉体疲労としては軽度、しかし汗は大量、といった場合はなおさらです。
こうした場合、スポーツドリンクはかえって疲労を招くという実感があります。
おそらく高血糖による疲労感だと思います。
この点は塩飴でも同じと考えています。


■適量の塩

多くの場合、水分と塩分を適量にとれば、疲労感が軽減されます。
暑さそのものにはもちろん効きませんが、体力的には回復します。
塩が抜けると力が入りませんが、足りると体に力が戻ってきます。
精神的にも同様の効果があります。

熱中症の原因はもちろん暑さですが、
判断能力の欠如もあると知ってください。
限度を超える頃には、頭も働かず、体に力も入らない状態になっているから怖いのです。
その原因のひとつに塩分不足があると思っています。


しかし摂ればいいというものでもありません。
大切なことは適量を摂ることです。
塩が入った飲み物よりも、
塩そのものをなめたほうが適量を調整できます。
美味しいうちは適量で、塩辛く感じたら過剰という判断です。
大雑把なようですが、その方が信頼できます。
医学的な規定値よりも、本人の状況を反映しているのですから。


■食生活における塩

高血圧のために塩分控えめのご家庭は多いと思います。
一日の摂取量のガイドラインはありますが、
冬と夏では事情がことなることを考慮されてません。
その日の活動に見合った塩分量も考慮されていません。

邪推と思われるでしょうが、
私は高齢者の熱中症の一因に、塩分控えめの食事があると疑っています。
判断能力と体の力が早い段階で欠如する、という推測です。

同様に心配になるのは、
子どもたちの摂取塩分量です。
塩分控えめの家庭で同じ食事をしてる子どもたちです。
運動部などに属していなくても、通常は子どものほうが汗をかいてるはずです。
しょっぱいお菓子などに執着するようなら、塩分不足の可能性大です。

医学的なガイドラインを参照しながらも、
個別に考えて対処してほしいと思っています。


■他の栄養素は必要じゃないの?

食事でとれば十分です。
出先で、あるいは食間に摂取する必要はありません。
アスリートならまだしも、通常の生活レベルでは塩と水で足ります。
それでも足りないと感じたときに、栄養を考慮してください。

糖分は肝臓の蓄えでなんとかなりますが、
水分塩分は補給と排泄を繰り返さないと保てません。
さらに言えば、水分は脂肪を分解してある程度つくれますが、
塩分は短期的な必要量しか体にとどまりません。


■結論

塩を持ち歩こう!
お守りがわりに小袋に入れよう!
手のひらにのせてぺろっとなめて適量を判断しよう!

子どもに持たすときは、いきなり口の中にザラッと放り込まないよう、言って聞かせましょう。
過剰になめたらもちろん体に悪いです。ぺろっとなめるから適量を判断できるのです。
とくに小学生男子、なにやるか予測不能です。
塩の匂いを嗅いでみて鼻の中が塩だらけになるとか普通にやります。
私がそういう子どもでした。


■余談

3.11の震災以降、夏は塩を持ち歩いてます。
帰れなくなったときのためです。
荷物が多いので水は二の次にしてます。
水は500mlくらいならなんとか調達できそうですが、
塩は意外と難しい気がします。
コンビニに行けば食卓塩はありますが、帰宅難民の数には足らないでしょう。


今年ふと思いついて、、、
いや今まで思いつかなかったのがどうかしてますが、
ゆで卵についてくるような弁当用の塩なら人に渡せる、
と思い立ちました。

近所のスーパーでは見つかりませんでしたが、
アマゾンで売ってました。
お守り代わりに持ち歩く人、
人に配りたい人は買ってみるといいです。

ちなみに塩をアルミホイルに包んでるとそのうちアルミが劣化してきます。
サランラップも日数によっては同様にラップの水分を引っ張るんじゃないかと思います。
そうしたわけで、日々使うレベルでないなら、個包装されたもののほうが安全と判断してます。


2014年7月25日金曜日

熱中症の対処法

「熱中症の時は、冷えた空気を吸うのがいい」
これは井本邦昭先生がおっしゃっていたことですが、私も一番効率が良い方法だと思っています。
 

昨年も書きましたが、肺の表面積はテニスコート一面分とも言われ、その容積に比して広大な表面積を誇ります。

生理学上は、この表面積の大きさはガス交換の効率向上のためとされています。
肺表面には膨大な毛細血管が集まり、僅かな壁を酸素と二酸化炭素が往来しているからです。

熱交換についてはほとんど語られることはないようですが、考える必要があると思っています。
なぜなら表面積の大きさは、そのまま熱の拡散能力につながるからです。

車のラジエーターが表面積を増やして熱を捨てるように、
冷却水がエンジンの各部から熱を運んでくるように、
肺と血液は熱を捨てるために働くことも出来るのです。

ほとんどの方は、血液は熱を配るものだと思っているようですが、捨てることもあるのです。
どうもそのあたりにみなさん違和感を覚えるようですが、捨てることも出来ないと生命活動はままならないのです。
とくに夏は如何に捨てるかにかかっております。


暑い時に体が赤くなります。
ふだんは深部を流れる暖かい動脈血が、熱を捨てるために体表を流れるからです。


顔も赤くなってきます。
体の中で最も熱を嫌うのは脳ですから、顔が赤くなる頃には大分熱の排泄が手詰まりになっていると分かります。


もしも人間に血液がなかったら、深部で作られた熱を表層まで逃すにはそれなりの時間がかかるでしょう。
しかし血液があるお陰で、深部の熱を速やかに表層へ送ることが出来るのです。


肺に熱い血液が循環する時、その肺が熱い空気で満たされていたらどうでしょう?
熱は放たれること無く、体内に戻るしかありません。


冷えた空気で満たされていたならどうでしょう?
血液を冷却することが出来ます。
しかし血液が冷えすぎても、心臓に負担となりますので、ほどをわきまえる必要はあります。
 

2013年6月15日土曜日

今年も湿気がやって来た

もうれつな湿度ですね。
何となくだるいとかそういうレベルじゃありません。
「すごい湿気!」
とそのまんま感じます。



暑い夏を感じたり、肌寒い春を感じたり、じめっと梅雨を感じたり、体も心も忙しい毎日です。調子のいい人は珍しいことでしょう。
時々調子がいい人を診ると、仕事がのってるとか、生活が充実してるとか、何か強い要因があるようです。

じゃあ対策として、充実するものをみつけましょう!
なんて、言うは易し行うは難しですね。

手軽な方法はエアコンです。
ドライをしばらくかけていると大分落ち着いてきます。
落ち着いたら切ってしまえばよいのです。
気分がすっきりしたところで行動を起こしましょう。
行動を起こすのが肝になります。

ある程度勢いがつけば、湿気も気づかずに過ぎていきます。
もし気づいてしまったら?

もう一度エアコンを使ったらどうですか。

2013年4月19日金曜日

手を上げて寝る

夜中に目が覚めて
手を上げていることに気づく
シビレて手の感覚が無くなっていることもある


どうして手を上げて寝るのでしょうか。
整体的には、頭や呼吸器の疲労と関係するとみます。

試しに横になって手を上げてみて下さい。
頭がフと楽になったり、
呼吸がフと楽になります。

こうしたフと楽になる感覚がなければ、
そこに疲労はないと言えます。

上げ方を変えると楽にった、というのであれば、
その力の線が、その人の疲労と言えます。
個性と言い換えることもできます。
その人の運動の“クセ”ですね。


言うまでもなく、
寝相は無意識の“運動”です。
体を休める“運動”です。
ですから、そこに表れる運動は、
その人の疲労を表現していると言えるのです。


手を上げて寝る姿勢をもう少し具体的に見ます。

手を上げると胸郭が上がります。
すると呼吸に携わる筋肉の助けになります。

あるいは、上肢から首から頭につながる筋肉が緩みます。
すると頭が楽になります。

上げ方には少々違いがありまして、
呼吸器を助けるときには肘が曲がりますが、
頭を楽にする時は肘は伸びます。


呼吸器の硬直が過度になった場合、
うつ伏せ寝になることがあります。
胸郭を押さえることで、緊張を緩めるのです。

難問に頭を悩ませて、
眉間を押さえている人がおります。
寝ている時に、
手を重ねて甲の部分を眉間に当てている人がおります。
頭の負担にもいろいろな寝相があるのです。

もしも眠りが浅く感じるならば、
寝相を分析してみるといいですね。
寝る前に体操でそこを緩めてみて下さい。

2013年1月25日金曜日

布団の干し方

冬の夜に暖かな布団。
一日の疲れを癒してくれます。

昼間、陽射しを吸い込んだ布団の快適さは誰もが知るところです。
しかし乾きすぎた布団が負担に感じることもあります。
今日はそんなお話。


冬の乾燥に疲れを感じたことはあるでしょうか?

・乾いた空気がのどに苦しく感じる。
・肺に吸い込むと気管がむせるように感じる。
・手足はもとより、体から水分が逃げていくようで、肌が心地よくない。

いろいろあると思います。

雪や雨が降った後などはそうでもないのですが、
晴天が続いて空気が乾燥しきっている時などは、
干した布団が乾きすぎて今ひとつ心地よくないことがあります。

綿の布団はそこまで乾くことが少ないのですが、
羽毛や毛、化繊などは極端に乾くことがあります。
そんな時は布団を干しても早めにしまうほうが無難です。
あるいはもう一度押入れにしまって戸をしめるのも手です。

同様の理由で、フリースなども苦しいことがあります。
フリース素材のパジャマを使っている人は多いと思いますが、体調の悪い時は体に受ける感じを見なおしてみましょう。
風邪など引いた時はなおさら、敏感に感じるはずです。


乾燥がつらく感じない人。
それは元気な人です。
あるいは体調がよい時期です。

そんな時は少々のことを気にする必要はありません。
あくまでも不調な時の対策の一つとして記しました。

2012年11月4日日曜日

痛みと回復

神経性疼(とう)痛の治療に用いられている医療用大麻などの投与は、もしかすると痛みの緩和と引き換えに軸索再生の機会を奪っているのかもしれない
2012年10月22日「神経再生には“痛み”も必要!?」 サイエンスポータル編集ニュース 科学技術 全て伝えます サイエンスポータル / SciencePortalより

整体をするものとしては興味深い研究です。
この研究は神経再生に関するものですが、他の場合も言えるのではないかと思っております。


痛いところには気が集まります。“気”という言葉が受け入れがたいなら「意識が集まる」と言い換えても結構です。意識が集まれば、そこの働きが高まるように感じませんか。

“痛み”というのは誰にとっても不快かもしれませんが、回復に向かう体の働きと思えば少しは感じ方が変わることでしょう。
お腹が痛い、怪我が痛い、腰が痛い、いろいろありますが、何も感じないほうが怖いと思います。悪いところは痛いのが正常だからです。

実際にひどく悪いところは麻痺していることがあります。痛みを感じないのです。
体を診ていく中で「よくこれで痛くないなぁ」と思うことがあります。だから体が整うにつれて痛くなってくることがあります。やがてその痛みも消える頃に、以前よりも体が動けるようになっております。これも回復への道筋なのです。

こういうことを見ていると、痛みというのが体にとって必要なものだと思うようになってきます。風邪をひいた時に痛いところが出てくるのも、弱いところを自覚させられているように思えてくるのです。

どうでしょう、痛みについて少し見なおしてみませんか。

だからといっていつも痛みに耐え続けるよう指導するわけではありません。
日常生活がままならないこともあるからです。また回復に時間が掛かり過ぎる場合にも、痛み止めは有効と思います。

2012年9月13日木曜日

出た出た、虹が、、、

  激しい雷雨が過ぎ去り
  空が遅い夕焼けに染まっていた、、、

  二階から妻がドタドタと下りてきた
  居間に入ってくるなり

  「虹、虹が出てる」

ガラガラと雨戸を開ける彼女、
(暑いので日中も雨戸を半分閉めているのです)

見上げれば、淡い虹がわずかな弧を描いております。
あんまり薄いので娘はなかなか見つけられない様子、
部屋の明かりを消したところ、やっと見つかったようです。

しかしそれもつかの間、みるみる虹は空に溶けていったのでした。


妻は虹を喜びます。
無口で感情の起伏があまり、いやほとんどないかのような彼女ですが、不思議とああいう虹みたいなものには興奮するようです。

彼女よりは感情に波がある私ですが、彼女ほど虹に魅せられることはありません。

人の感受性とは様々です。


以前彼女に、
「あんたみたいなのは、上が抜けているところに行くと快感なんだ」
と言いましたら、

「そうそう、高い樹の下で梢を見上げた時、葉っぱの隙間から木漏れ日がこぼれてたりすると、すごい気持ちがいいのよねぇ、、、」
そう言ったまま、遠い目になってしまいました。

(あなたに浮世はないのか)と、
彼女より現実的な私は思うわけです。

そんなわれわれの夫婦喧嘩は大体決まっていて、
とにかく似たような顛末をたどります。


  まず片方が
  「それじゃあ解決につながらないだろう」
  みたいなことを言う。

  するともう片方が
  「はあ?意味が分からない」
  と口には出さないが、そんな顔をする。

  片方はそれを見て、さらに怒り出す。
  「!!!・・・・・・!!!・・・・・・・・・・!!!」
  さっきよりも多く喋っているけれど、
  内容は変わらない。

  するともう片方が
  「???、、、、、、」
  さらに口をつぐんで、つぐんだまま怒り出し、
  そしてよそ見を決め込んでしまう、、、



そして、

そして、そして、

虹はきれいだな、というお話でした。

2012年8月20日月曜日

暑さひとしお 肋間神経痛

暑い日が続いております。
お盆前に「あれ?」
と思うほどの過ごしやすい日があったせいで、

夏も下り坂かな?
そろそろヒグラシが心地よく聞こえる頃かな?

などと期待に心ときめかせましたが
それは儚い片思いだったようで、
しっかり暑い夏が戻って参りました。

一体いつからこんなに暑くなったのか?
と記憶を辿れば、
十数年かな?
と思うのですが如何でしょう?

はっきりしない記憶ですが、
少なくとも30年前、
子供の頃に30度を超える日はそんなになかったはずです。

暑さという“快”も過ぎれば“不快”となります。
身も心も開放的になれるはずの“夏”ですが、
暑さに身も心も固まることがあります。

風呂に入るとよく分かりますが、
熱すぎれば力が入ります。

外気温も暑すぎれば、
身を守るために力がはいるのです。
それが元に戻らないと諸々の症状を引き起こします。

むくんだり、動悸がしたり、肩が痛くなったり、
肋間神経痛なんていうのもよくあります。
暑くて肋骨が硬直してくるのです。

整体体操を体で覚えている人は、
腕を使って肋骨を緩めていくのが一番簡単な方法です。
そのあとで蒸しタオルを併用すれば、尚効果的です。
体操を知らなくても、蒸しタオルである程度緩んできます。


まだ当分暑さが続きそうですが、
みなさま、ご自愛下さいませ。

お問い合わせ

名前

メール *

メッセージ *

最新の投稿

 『大衆運動』エリック・ホッファー 『一揆論』松永伍一

 『大衆運動』エリック・ホッファー 新訳が出るとのこと。読みたいですね。この時代に新訳が出るのは意義深いと思います。 ホッファーはなぜ人々が集まって社会運動をするのか? という単純な疑問から人間の性質や来し方行く末を思索する。 一つ一つの論考が短めに完結していて、含蓄満載なので読...

人気のある投稿