名も知らぬ 遠き島より(C)BONGURI
流れ寄る 椰子の実一つ「椰子(やし)の実」島崎藤村 全文
娘を寝かしつけながらよく歌います。
童謡ではありますが、この歌は不安にあふれ、言葉も難しく、童謡にあるまじき童謡です。
うろ覚えながらも娘は途中まで一緒に歌うのですが、一番の最後
汝(なれ)はそも 波に幾月(いくつき)
ここで単語の切れ目が理解できなくなるようです。
こんな歌、なんで歌うんだろうとわれながら思うのですが、
歌ってると生きていることの意味の無さを感じ、ふと楽になります。
生きる意味とか生きがいとか、目的、夢、どれも人間らしさですが、元々そんなものを持って産まれてきてはおりませんので、歌っていると素(す)に帰るような喜びを感じます。
娘も四才になり「出来た」「出来ない」を通して自分を見つけるようになりました。
漠とした「恐れ」ではなく「出来ない」ことを知った「恐れ」
漠とした「自信」ではなく「出来る」ことを知った「おごり」
そういうものも身につけ始めました。良かれ悪しかれですね。
生きているという、それ以上でもそれ以下でもないものが裏に隠れ始めました。
これから彼女も成長する中で教育を受け、更にスキルを通して自分を見つめてゆくのでしょう。
そして他人もそのように見つめ、時に生きている自分を見失うのだと思います。
生きている自分、生きている実感、見失った時の寄る辺の無さ、昨今の問題に感じる方も多いかと思います。
われもまた 渚(なぎさ)を枕
孤身(ひとりみ)の 浮寝(うきね)の旅ぞ
寄る辺の無さに藤村は何を思ったのでしょうか。
実をとりて 胸にあつれば
新(あらた)なり 流離(りゅうり)の憂(うれい)
流れ着いた椰子の実の旅路を思い、再びの流離を思い憂う、
激(たぎ)り落つ 異郷(いきょう)の涙
「ここは異郷」と激しく涙する。なんとも救われない歌詞です。
しかし
しかし
思いやる 八重(やえ)の汐々(しおじお)藤村は自信の血筋に嫌悪を感じたこともあるようですが、
いずれの日にか 国に帰らん
最後の歌詞はふるさとを思い、心の安定をみます。
そして途中歌われるふるさとも
旧(もと)の木は 生(お)いや茂れると、豊かで広がりを感じさせるものです。
枝はなお 影をやなせる
ここで歌われるふるさとって何でしょうか。
藤村の真意は分かりませんが、
私は「命の無垢な感覚」を思わされるのです。
とまあ歌いながら、つらつらと思い巡らせていると、娘が眠りに落ちてたりします。
忘れてたみたいでちょっと悪いことしたな、と思ったりするのです。
椰子の実・・♪懐かしい響きです。
返信削除優しさを思い出します。(^_^)
そうですね、優しい響きです。それに五、七のリズムがきれいにおさまってるんですよね。
返信削除たぶん ”ふるさと”を探しているんです。
返信削除アプローチの角度は違うけど。
先生は ”風の中で 追いかけて”いる何かをつかまえましたか?
なるほど!するどいですね。私はまだまだなんにも、つかまえてないですね。困ったもんです。
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