2019年8月14日水曜日

【本が好き】 断章 『リハビリの夜』 熊谷晋一郎

小児脳性麻痺の著者が自身の身体を通して、運動修得を分析。
当事者研究と名付けられた研究スタイルを、いかんなく発揮した一冊。
運動の修得あるいは是正、リハビリ、メンタリティの確立、といったことに興味のある人はご一読を奨める。

「脳性まひ」だとか「障害」という言葉を使った説明は、なんだかわかったような気にさせる力を持っているが、体験としての内実が伝わっているわけではない。もっと、私が体験していることをありありと再現してくれるような、そして読者がそれを読んだときに、うっすらとでも転倒する私を追体験してもらえるような、そんな説明が欲しいのだ。つまり、あなたを道連れに転倒したいのである。
p.22 より引用

運動を理解するには、内実を追体験、、、
こういう視点をはっきり持っている人はなかなかいないと思う。

文体が内容に応じて変幻自在。ときに文学的で、ときに科学的。その器用さに、驚かされる。そういう意味でも稀有なノンフィクション。
全体としては非常に分析的に書かれているので、概念切り分け、用語理解をしながらでないと読めない。
哲学的記述が苦手な人には面倒かもしれない。

“規範的”という用語が頻出する。 熊谷晋一郎
健常者を基準にした運動などといった場合に使われる。
その運動に体を合わせられない、向かわせられない麻痺という体。
そこにギャップがあるにも関わらず、無理に合わせようとしていた自分自身と周囲の人間。
その心模様と葛藤、行き詰まっていく人間模様まで描いている。

1977年生まれの著者の幼少期は、規範的な動きを修得させることが、小児麻痺リハビリの鉄則だった。
修得出来なさは、そのまま本人と家族の苦悩となり、リハビリ施術者のイラ立ちにもなった。

著者自身が肩をすくめるポーズがある。
規範的な肩をすくめるポーズをイメージしている。
しかしすくめているようには見えない。
それは著者自身も分かっている。
そして規範的な肩をすくめるポーズのイラストと対比させている。
非常に分かりやすい解説だ。


ここからは主に私の見解と感想

本書は小児麻痺の運動修得について語られているが、
本質的には健常者の運動修得プロセスも変わらないと思う。

健常者であっても、
規範的運動と自分の身体の間にはギャップがある。
そのギャップに気づいた時の対応は人によって分かれる。

・ギャップを無視する。
・自分には出来ないと判断し、諦める。
・ギャップの理解分析に務める。

ギャップが小さければ、無視しても許容範囲内の運動が現れる。
しかしギャップが大きくても、積極的に無視してすませてしまう人が多い。
その結果、雑な運動と映る。

手足を記号的には同じに動かしてるのに、なんだか別物に見えたことはあるでしょうか。
たとえば同じダンスをしていても、
片方には芸術性があり、
片方は体操にしか見えない、という場合。


大雑把に言って、赤ちゃんから思春期までは、運動を感覚的に理解する。
身体感覚そのままを修得しようとする。
思春期の途中から運動を可視化されたもの、表現された形を記号化して覚えようとする。
そうしてそのまま表現形のみが運動である、と解釈してしまう人がほとんどだ。
(一般的に、リハビリはやる方も受ける方も、記号のみに陥ることが多い)

フィギュアスケートの採点は、技の難易度と芸術性が分かれている。
表現形という記号と身体感覚は本来別物だ。
芸術性とは、内在する身体感覚の素晴らしさに他ならない。

ほとんどの健常者が、
自身の体とその感覚を見つめなくなっている中で、
麻痺ある著者が、
自身の感覚をつぶさに見つめて分析している点に敬意を表する。

足りないから分析するしかなかったのだ、
という見方もあるだろうが、
足りないからあきらめる、見ないことにすることの方が圧倒的に多いものだ。

現に健常者であっても“足りない状況”はいくらでも経験する。
そして“足りなさ”を無視することがほとんどであろう。

自分が雑に動いてる、と感じてる人も読んでみるとよい。


Wikipedia 熊谷晋一郎
Wikipedia 当事者研究
リハビリの夜 amazon.co.jp

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