2020年11月3日火曜日

四指と母指と整体と木村政彦

太平書林にて

いつものように柏の古本屋「太平書林へ」。。。
通いつめると蔵書が大変なことになるので、週一日だけと我慢して通ってます。

ほとんどワゴン品しか買わないのですが、我慢しきれず店内の棚もなんとなく物色していると、木村政彦『わが柔道』がありました。
この本は高校時代に本屋さんで再三立ち読みしたのですが、再会するとうれしいものです。古本屋にいく喜びのひとつですね。

10年くらい前に『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』という殺伐としたタイトルながら、一部の人には涙なくしては読めない感動の本がベストセラーとなりました。木村政彦に口惜しさを感じていた私なので、もちろん読みました。

この本の中で『わが柔道』も引用されているので、なんとなく再読したような気になっていましたが、あらためて読んでみると、興味深い記述がたくさん見つかりました。
なかでも四指と母指に対する言及は興味深く、気づけば何度も読み返していました。

木村政彦が母指も使って組むようにしていた、というのは二次情報、三次情報としては何度か見聞きしたことがあったのですが、そのときはサラリと流していたので、実は母指の習得に尽力されていたと知り、驚きました。なにしろ元が天才という頭があるので、思い立ってすぐにできたのだろうと、勝手に考えていたのです。

柔道では相手の襟、袖をつかむとき、親指を伸ばし、四指で握っている。しかし、ただつかんでいるだけでは力が入らない。相手を引くにしても押すにしても、親指に力が入らないと、四指だけでは充分でない。まずスピードが鈍る。それに、簡単に相手に振り切られてしまう。
 力というものは、手の四指の力が内側に向かってくれば、親指の力が逆の方向に向かう。つまり内側と外側から二重に向かってこそ、強靭な力となって引き、押し、そして相手からの振り切りを許さなくするのである。  だから親指を使わないというのは、力学に反することだと私は考えた。しかし、これが理論的に効果があると知ってはいても、なかなか身につけることができなかった。

木村政彦『わが柔道』ベースボール・マガジン社(1986)

木村政彦の手

何年か前に木村政彦の動画を観ていたところ、柔道家としては手が独特なことに気がつきました。
これは「整体の手」の参考になる、と思ったのです。
どこがどう、、、というと説明が困難なのですが、充ちた感じが素晴らしいのです。
そしてそれが鍛え抜かれている、と感じたのです。

勘違いかな、とも思い、何人かの柔道家の手を観察してみたのですが、多少似ている人はいても、鍛え抜かれている人はおりませんでした。
一応、弱いながらも高校時代に柔道をやっていたので、親指を使って組みたいけれど、それは難しい、という自覚が当時ありました。ただ単に親指を使った程度では、折れる危険のほうが怖くなりますし、力いっぱい握れば握力が切れてしまいます。人並み外れた力があれば、曲がりなりにも試みられたのでしょうが、そんな力もなかったので、諦めておりました。

そもそも親指をしっかり使わずに強い人がたくさんいたので、それが必須とは思えなかったのでした。握力のコツは小指である、と説く声も多いので、結局小指に頼り、四指に偏重していきました。
高校時代に『わが柔道』を読んだとき、親指への言及をどう思ったのか、まったく覚えておりません。おそらく適当に読み飛ばしてしまったのでしょう。もったいないことを、、、とも思いますが、私のほうが学べるものを持っていなかったということでしょう。
整体を学んで、四指と母指の使い方を日々考えるようになって、はじめて身にしみることとなりました。
ここにいたるまで三十余年。われながら凡庸だなと思います。

「四指と母指」は整体の基本

整体を習い始めてすぐに、「四指と母指」を習います。
「四指と母指」が基本、これができないと整体はできません、、、ということです。
その習得を主眼に、一つの技術練習に数時間を費やすこともありました。

最初に習えば習得できるかというと、実際には甘いものではなく、上手くなったという自信のあとに、下手だなあという反省が忍び寄ってくるのです。結局何度も立ち返らなくてはならない基本として、いつまでも目の前に立ちはだかる壁です。

そういう何度目かの壁にいたったときに、木村政彦の手に感動しました。
「四指と母指」その両方がある、という感じです。両方が同時にあるのです。
この同時にあるという手は、めったにないのです。

五指で握ることによって、より強い力が発揮できることを知りながら、実行できないのは、生まれついての練習の習慣がそうさせるのであって、できないのは、柔道に対する執念が足りないからにすぎない。何とか五指で握りたいと、私自身考えていたけれど、子どものときからの習慣というのは恐ろしいもので、気をつけている間は握れるが、ちょっと気を許すとすぐに戻ってしまう。

木村政彦『わが柔道』ベースボール・マガジン社(1986)

巻き込み投げ

多くの柔道家が、巻き込みながら投げます。
四指でしか組めないと、自然と巻き込み投げが主体になるのだと思います。

四指で襟を巻きつけるように組むので、その流れで「投げ」も巻き込みにならざるをえない、という解釈です。
また「投げ」を潜在的に「巻き込み」として認識するためか、背負うときにも前方に巻き込もうとし、大外などでも相手を自分の体に巻きつけようとしがちです。
それが間違った投げである、ということではないのですが、力が一方向にしか働かないので、技が単調になるのです。
本来の「投げ」とはどのような認識なのか、木村政彦のなかに見て取りたくなりました。

木村政彦の打ち込みをみてみると、巻き込まないのが基本に見えます。バリエーションとして巻き込みも使ってたようですが、あくまでも変化系のひとつだったようです。
釣り手の回内・回外が自由自在にみえるのも特長です。あの殴りつけるような大外刈りも、釣り手で目一杯引きつけておきながら次の瞬間には叩きつけるように押し倒しております。肩甲骨を含めた上肢全体が強力に連帯しているのでしょう。肘の動きとしては、屈曲から伸展へ滑らかに移行します。こうした釣り手の自在さが、極めて高いレベルで実現されているように見えます。その高いレベルをなし得たのが、母指の使い方を鍛えたところにあると思うのです。

四指の巻き込み

整体で四指が上手になってくると「もっともっと」とやりすぎてしまうことがあります。
途中までは上手くても、限度を超えると相手には響かず、四指の力が自分に戻ってきてしまう感覚があります。
あくまでも私の感覚なのですが、この限度が悩みの種でした。
このやりすぎてしまう四指は、柔道における過度の巻き込みに似ている気がします。

上手な四指で、限度のこない四指を考えたとき、母指の利かせ方がどうも追いついてないと気づきました。
四指も母指もどちらも利かせ、融通無碍に配分が変わり続けなくてはならない、と考えたのです。

木村政彦の手は、まさに融通無碍な手でした。
そして存分に鍛えられた感じに、うれしくなるのでした。
こういう手なら、組んだだけで相手の中に入っていけただろうと思うのです。

スピード

『鬼の柔道』も気になって読んでみました。
こちらにも親指に関する同様の言及がありました。
面白いことに、小見出しのタイトルが「柔道のスピード」となっております。

「釣上げる」「引上げる」「引下げる」場合にも力とスピードがくわわるし、せっかくつかんだ相手の柔道着をむざむざ切られることもない。

木村政彦『鬼の柔道』講談社(1969)

解釈がちょっと難しいのですが、変化に対応するスピードの話とも受け取れます。
といいますか、私はそのように受け取りました。

整体らしい四指で中を感じられるようになってくると、中の変化に即時対応できないことがもどかしくなってきます。
お腹に関しては、四指だけでもかなり上手くなれると思いますが、背中に関しては、四指だけでは限界が早くやってきます。
やはり四指と母指が一緒に働いていないと、呼吸をつかまえて動かすのは難しいのです。

おわり

誰が読むのかな、、、とは思いましたが、時を経て再会した本の喜びが一入(ひとしお)だったもので、書いてみました。
当時は読み物として以上の成果はありませんでしたが、今は多くを教えてもらえた気分です。
母指なんて誰でも動かせますが、高度に使い物になるように追求した先人がいて、言葉に残しておいてもらえたことに感謝です。

2020年5月30日土曜日

腕の挙上と腰椎1番の人間性

腰椎1番があるのは人間だけです。
サルの場合、そこは胸椎13番と呼ばれます。
分かるでしょうか?
13番めの胸椎が腰椎に変化したのが人間です。

何が変化したのでしょう?
運動が変化したのです。

何の運動が変化したのでしょう?
腕を上げる運動が変化したのです。

正確に言えば腕の挙上方法のバリエーションが増えたのです。


腕の挙上はサルでもできますが、サルの挙上は人間らしくありません。
人間らしい挙上は例えばバスケットボールでシュートを打つときに、クイッと背中を入れるような伸ばすような動作に見られます。バレーボールのトスもそうですね。背中をクイッとやります。
あのクイッのときに使っているのが腰椎1番です。ああいう動作は非常に人間らしいものです。人間にしかできません。サルはあんな風に腰椎1番で腕を上げることができません。

空中で腰椎1番を自由自在に使えると、バスケットボールでエアプレイと呼ばれる技術が可能になります。バレーボールのアタックも腰椎1番が自由でないと、格好良くはなりません。

また跳んでから打つまでの時間は、腰椎1番の緊張弛緩でコントロールされています。
跳んだあとのわずかな無風状態と、急激な緊張にわれわれは魅せられます。
波のうねりを思わせるあの感じは、ほとんどの人の日常生活に欠けているものであり、思い出したいものなのでしょう。

残念なことに文明社会の人間は、動物としては恥ずかしいレベルにまで運動が衰退しています。
人間の能力は本来どのくらいが標準なのか、もはや誰にも分からないと思います。
せめて思い出そうという努力は必要でしょう。
わたしももちろん衰退している一人なので、少しでも本来の姿に戻りたいと思っております。


肩の話に戻ります。
知らず知らずのうちに腰椎1番が衰え、腕の挙上が肩関節だけになっている人は珍しくありません。
肩関節だけで腕を挙上しても、体は融通をきかせてくれますが、年齢とともにそれも難しくなってきます。
年をとるほどに、うまく使わないと体が許してくれなくなります。

年功序列に優しくしてほしいと願っても、体は年とともに判定を厳しくしてきます。
なんだか不公平なようですが、自分の体の言うことですから聞くしかないですね。

「老いては子にしたがえ」と先人は諭しましたが、
現代は「老いては体にしたがえ」を知らねばなりません。なにしろ寿命が伸びているのです。

肩が上がらないのは、直接的には肩関節の問題ですが、その前に肋骨が硬くなっており、肋骨が硬くなる前に、腰椎1番が硬くなっております。人によって違いはありますが、たとえばこうした道のりを逆にたどることで、回復に向かいます。


背骨を指で確認していると、胸椎12番が腰椎のようになっている人がおります。
わたしは人間の方向性を感じます。
数百年後、そういう人が増えているかもしれません。

しかしもしかすると、胸椎13番が復活してしまうかもしれません。
その時、ヒトは腕の挙上はもちろんのこと、二足歩行もできなくなっているでしょう。

★★補足★★
分かりやすくするために腕の挙上を腰椎1番としましたが、厳密に言うと腰椎1番と胸椎12番の連携によるものです。

2020年3月15日日曜日

肺を強くする方法いくつか

コロナ騒ぎを踏まえ、肺を強くする方法をいくつかご紹介します。

■肘湯、蒸しタオル。

【肘湯】
肘から先を熱いお湯につける部分浴。
46度程度。測らなくてもよい。火傷しない程度に熱いと感じる温度が目安。
時間は6分前後。
途中で差し湯を一回して冷めすぎないようにする。

肘から先を入れる場所に困ることが多いと思います。
例えば、、、
シンクに蓋をする。百均に汎用の蓋がある。合わないこともある。シンクは冷めやすいのが難点。
台所用の洗い桶を使う。ジョセフジョセフというメーカーの洗い桶が結構大きい。ドレンがついてるので、ひっくり返さなくても水を捨てれる。

【蒸しタオル】
レンジでチンでOK。
あてる時間は5分くらい。

あてる場所いくつか、、、
鎖骨の間から胸骨にかけて。
肋骨の固いところ。
肩甲骨の間。

自分で固いところが自覚できるならば、そこにあてる。
よく分からなければ、いろいろ試して呼吸が楽になる、深くなるところを探す。

★いちどきに三回までは繰り返してもよい。
★8時間程度は間隔をあける。子供は6時間
★入浴の前後4時間は効果が弱い。
★肌が赤くならないところは働きの弱いところ。



そのほか、経験則など踏まえ参考まで。

【布団を干す】
湿っぽい布団は肺に負担となります。
陽に当てることで、雑菌の繁殖をおさえます。

【洗濯物も陽に当てる】
室内の乾燥対策には部屋干しも有効ですし、私も冬はそのように指導しておりますが、陽に当てたほうが雑菌の繁殖はおさえられます。

【洗剤より石鹸】
洗濯も石鹸の方がきれいになるように思えます。ただの経験則ですが、そのように言う人も少なくはありません。
手を洗うにももちろん石鹸のほうがいいように思えます。台所の洗い物を洗剤でするのと石鹸でするのでは、手の荒れ方も違います。ただし石鹸で洗うと洗い流すのに多少の技術がいります。黒いものを洗うと流しきれないものが見えるので、それを基準にすると分かってきます。

【手の洗い過ぎは感染に弱くなる】
体の表面にはくまなく微生物が住みついてます。住みついてることで生体バリアと言えるものを成り立たせています。
手を洗ったときには、そのバリアに隙間ができます。その隙間は周囲の微生物が増えることでまたバランスを取り戻します。しかしながら頻繁に洗っていると、もとのバランスへの回復が困難になることがあります。あいたところに何が入るかによっては、かえって感染症に弱くなります。
ほどほどが大事ということです。



最後に、、、

歴史を顧みれば、人の往来は感染症の往来でもありました。
それは現代でも変わらないことです。

感染症の往来によって、大きな打撃を受けた地域もありました。
その打撃は現代とは比較にならないレベルのものが沢山ありました。

悲劇的な歴史はありましたが、現在、世界の人々が行き来出来るのは、われわれがある程度適応してきたからです。

自分で工夫できることもありますので、これを期に取り組んでみてはいかがでしょうか。

2020年1月13日月曜日

上肢帯の背面の使い方 〜寺地拳四朗選手に寄せて〜

最近"上肢帯の背面"の使い方についていろいろ研究しておりました。これまでも何度も研究してますが、何周か回ってまた研究しております。

そんな時にボクサー寺地拳四朗選手の試合がちょうど参考になりました。
きれいに分かりやすく使っている人はそう多くないので、大変うれしいものです。

整体の技術の基本は、集めて捉えることにありますが、集めすぎて急処が隠れてしまったり、集めようとして過度な緊張を呼んでしまったりすることがあります。そんな時はいったん気を散らさないといけませんが、その時の体の使い方や質的な感覚を見つけるために、"上肢帯の背面"を鍵に探っているところです。

お断りしておきますが、、、
"上肢帯の背面"という言葉自体には一般性がありますが、解剖学や運動医学の用語ではありません。もちろん整体用語でもありません。動作を考えるときに私の頭の中で使われてきただけです。誰も考えてないことだ、というほどオリジナリティはありませんが、知らないうちに定義が確立されているような一般的な概念でもありませんので、あくまでも私が考えている、"上肢帯の背面"に関する話です。

↓WBCライトフライ級V7防衛戦 VSペタルコリン(YouTube動画)↓



上肢帯の背面はジャブを打つときに目立って使われてるのですが、拳四朗選手は非常に明瞭に背面を使います。個人的には「世界屈指のジャブ使い」と思っています。今回もジャブを見るのが楽しみでテレビをつけたのです。そして期待以上のものを見ることが出来ました。うれしいです。

内から外へ打ち上げるような軌跡、それが上肢帯の背面を広く使った時の特徴です。
相手のガードの隙間から外へ散らしていくような軌跡が、非常に分かりやすいです。

強いジャブを打とうとすると、おもに上肢帯の腹面を使うので、軌跡は外から内へ打ち下ろすような線を描きます。
相手はどこかに閉じ込められるようになっていきますが、ガードも固く閉ざされるようになります。
このあたり整体の時に集めすぎて急処が隠れてしまう感じによく似ています。

拳四朗選手は散らしたり集めたりしながら、いいように相手をコントロールするペースを作り出していたように見えました。
KOに導いた数発のボディブローも、上肢帯の背面を使って間合いを取りながら、突然に腹面にスイッチしているように見えます。背面の使い方が上手いので、感覚的には見た目よりもかなり外に振ってから内に落ちてきてるように見えます。軽量級としてはKOが多いのも、こうしたところが利いてるように思えます。


整体は相手をKOする技術ではありませんが、集める、散らす、そして緩急という点で、非常に面白く参考になる試合でした。

補足、、、
上肢帯背面で腕を上げるのがよく分からない、という方は、

うつ伏せになって、
両手を横に広げ、
手を上下(天地方向)させてみれば、背面を使っているのがすぐに分かります。
分かったら、立位で同じ感じを探してみて下さい。

2019年12月5日木曜日

磯谷整体 東京室物語 〜和可菜のころ〜 その6 最終回

和可菜の玄関には黒猫がいる。
神楽坂には理科大があり、そこに妻の曽祖父菱田為吉さんの木彫細工がある。
・・・・・

和可菜での整体は、井本整体福岡講座のFさんに始まり、Oさんによって立処をただされ、妻との縁まで知らされるような様相を呈しておりました。
人生の正解というのはわかりませんが、知らず知らずに縁に囲まれているこの状況を正解と感じ、感謝の念がわいてきます。

Fさんはその後も東京に来たときに和可菜を利用されておりました。
そんなある時、
「そういえば主人の実家が買った家は、昔大女優が住んでた家だって言ってた気がします…」
その家は下関。まさかそんなことが…。
「今度よく聞いておいてもらえますか?」
「帰ったら聞いておきます。」

それはそのまさかでした。
その家は和可菜の女将さんの生家であり、実姉の木暮実千代さんが育った家。女将さんは生まれる前からの約束で生まれてすぐに本家に引き取られて上京し、木暮さんは長じて上京し、妹と人生を重ねることとなりました。
思えばFさんの行動力にリードされてはじまった和可菜でした。そのFさんは実はわたしよりも先に和可菜との縁をもっていたのです。もう少しつけくわえますと、Fさんのお住いは山口県で、女将さんの生家の近く(下関市)と小野田で、親の代から整体をされております。もしかするともっともっと沢山の縁で結ばれているのかもしれません。

それにしても……、そんな偶然があるのだろうかと、不思議でなりませんでした。


そして数年…………。


2015年。和可菜での日々に終わりを告げるときがきました。
女将さんも九十を遠に過ぎ、年内閉館を知らされます。
ご年齢からすればお元気でしたが、整体を受けるために階段を昇り降りする姿に不安を覚えはじめて久しい頃でした。

さて、どうしたらよいか。
もう東京室は無理かもしれない…。
和可菜と同じモチベーションを保てるだろうか…。
和可菜への頼り根性に気づかされます。
それでも行動しないわけにはいきません。
和可菜から自立するためにも、
次をしっかり見据えなくてはなりません。

和可菜を探した頃のように、いくつかの旅館に問い合わせました。
そして交渉成立したのが、今の鳳明館です。
今度は東京大学の近く。
和可菜は理科大のそば、今度は東大のそば……。
再び菱田家に守られている気がしてきました。
(菱田唯蔵:妻の曽祖父菱田為吉の弟、東京帝国大学教授)


和可菜閉館予定を知らされてすぐのころ、日本画家さんが整体に訪れ、後々春草の話でひとしきり盛り上がることとなりました。
最後の月には小説を書く学生が訪れました。ここが和可菜だから、というのが理由のひとつだったようです。旧知の友のごとく感じられる学生で、その後よく飲みに行くことになります。
最後の二ヶ月に和可菜で整体をした、という証を二人からいただき、わたしは"おしまい"を噛み締めていました。


いよいよ本当に和可菜の時間が終わりの日。
女将さんと最後の挨拶を交わしました。
おそらくわたしが最後の常客だったと思います。最後の一、二年は訪れるたびに帰りは居間に通され、お茶をしながらしばし歓談させていただきました。
女将さんにはいくつか定番のお話があり、いつも楽しそうに話されておりました。戦争中、落ちてきた爆弾のとある場所を押さえて爆発を止めた、というお話もそのひとつでした。そんなことが本当に出来るのかどうかは知りません。不発弾が転がってきたのでしょうか。どちらでもいいのですが、女将さんの大胆さと自由さがよく表れているエピソードです。何度聞いても楽しいもので、わたしはよく誘い水を出しました。この日もそんな定番のお話のいくつかを話されておりました。

そして別れのとき、女将さんが涙を流されました。
たいへん身勝手で不謹慎ですが、わたしはそれをうれしく思ったのでした。
わたしは確かにここにいた。和可菜にいた。
女将さんもそう思って下っていたのがうれしかったのです。
なにしろここは"ホン書き旅館"。
作家先生こそが認められる場所。
そんな場所で、わたしの存在も女将さんの中に残されていることは光栄のいたりでした。
涙を流す女将さんを見つめながら、厳かな緊張に包まれている自分を知るのでした。


ーーーーーー後記ーーーーーー
九月頃から、この原稿を書いては捨て、書いては捨てを繰り返しておりました。
いろいろな縁が絡み合っているので、人に分かるように説明するのが大変だったのです。
自分の筆力では限界だな、と半ばあきらめて、一応分かるかな、というところでUPしました。
繰り返しが多かったり、無駄な話が多いですがご容赦下さい。
菱田家の話が多くて、和可菜の話や患者さんの話が意外と少なくなってしまいました。他人のことをたくさん書くのがためらわれたのと、菱田家の話は美術史上で周知の事実が多いので、書きやすかったのです。

とにかく書き上げよう、と思った理由はもう一つあります。
九月に女将(和田敏子)さんが亡くなりました。96歳でした。
昨年七月にお見舞いに伺ったのが最後となってしまいました。
伝え聞いたところによると、最後まで大きな病気もせず、まわりに大きな迷惑をかけることもなく亡くなられたそうです。

    謹んでお悔やみ申し上げます。
    和可菜で整体をさせていただき、本当にありがとうございました。

現在、磯谷整体 東京室は、文京区本郷の「旅館 鳳明館」となりました。
奇遇なことに、女将さんのお墓はここから歩いていけるところでした。
また女将さんが近くにいらっしゃる、心強く感ずる次第です。

鳳明館でも、もちろん柏室でも、沢山の方々の人生を感じられるよう、尽力してまいります。

2019年12月2日月曜日

磯谷整体 東京室物語 〜和可菜のころ〜 その5

神楽坂に通い始めて数ヶ月たったころ、近くに東京理科大があることを知りました。
そこに近代科学資料館なる建物があり、菱田為吉さん製作の多面体木彫細工が常設されていることを合わせて知ります。
妻の曽祖父の為吉さんは手先が器用だったようで、20センチ角くらいの木材から多面体を沢山彫り出されたのです。知る人は知っている代物のようで、ネット上で取り上げている方が少なからずおります。

ある日妻と娘と三人で訪ねました。お参りのような心境です。
小さな資料館にもかかわらず、多面体細工をはじめ、為吉さんの資料がたくさん展示されていることに驚かされます。
この近代科学資料館は理科大の前身である東京物理学校の外観を復元した建物であり、為吉さんが通い、講師をつとめた時代のものであったので、その時代の象徴として為吉さんを取り上げているのかもしれません。

妻によれば、菱田家は親戚はもちろん兄弟さえ付き合いが途絶えていたようですが、ひとつだけ父親が懇意にしていた親戚があり、妻もそこだけは訪ねたことがあったようです。
展示資料の中に縁側で多面体を彫り出している為吉さんの写真がありました。それは妻がわずかに記憶する親戚の家だったようです。じっと見入る妻の胸に去来するものはわかりませんが、記憶をたぐりながら思いを馳せているようでした。

菱田家は優秀な一族であったようですが、残念ながら妻には受け継がれなかったようです。本人が言ってますので書いても怒られないと思います(笑)。子供の頃に妻の成績を見たお母さんは、ちょっとびっくりしてたようです。お母さんの家系も優秀だったらしく、勉強しなくてもできるのが当然と思っていたのでしょう。

義父の死後、伯母(義父の妹)さんらと食事をしたときのことも印象的でした。
二歳にして器用に箸を使うわが娘を見て、伯母さんは本気で心配し始めました。なにがそんなに心配なのか?と妻を驚かせたその理由は、『菱田家は器用貧乏だ。この子もそうなってしまうのじゃないか。』というものでした。
そういえば義父は文系ですが、遺品に自作スピーカーがあったり、若い頃は真空管とブラウン管を買ってきてテレビを作ったと話しておりました。
そしてわが娘、箸と自転車は早くからこなしてましたが、それ以外に器用さを発揮することなく中学生になりました。一安心です(笑)。


妻の縁に導かれたような話をもうひとつ。
わたしは千葉県松戸市で育ち、門下生修了とともに実家の最寄り駅「南柏」の近くに戻りました。
このあたりは松戸市・柏市・流山市が入り組んでいるところで、一日の中でその三市を行き来する人も珍しくありません。ローカルな話をすれば、国道6号もしくは旧水戸街道を北小金あたりから南柏まで通れば三市にまたがります。総称して東葛飾と呼ばれる地域です。
戻って最初に住んだのが流山市、操法室を借りたのが柏市、その後実家が松戸市から流山市に引っ越しました。
実家が引っ越して後、流山と菱田春草の縁を知ることとなります。

流山市は東葛地域で一番ローカルな印象を持たれておりますが、じつはかつては栄えたところ。なんと最初の県庁所在地です。正確には葛飾県・印旛県の県庁。明治維新とともに下総国舟戸藩主の本多家屋敷が県役所として使用されました。
江戸時代から利根川と江戸川の舟運を活かして遠くは東北からの年貢米が揚げられ、流山周辺で作った醤油やみりんを江戸に運んで栄えておりました。その流れで、明治期のこの地域にはいくつかの富商がありました。しかしやがて舟運の時代は終わり、この地域は斜陽をむかえます。

流山電鉄という鉄道マニアに支持される単線のローカル鉄道がありました。いえ失礼、現在もあります。乗ってみればわかりますが、東京からほどない距離にもかかわらず、ちょっとした時間旅行気分を味わえます。終点で降りると「近藤勇終焉の地」とありますが、それを盛り上げる雰囲気が皆無なため、ローカル感を後押しします。

東京ー千葉ー茨城を結ぶ常磐線。これは流山に敷かれるはずでしたが、舟運業者たちの猛反対にあったようです。なんと愚かな(笑)。もしも流山に常磐線が通っていたなら、東葛地域のバランスは今とは全く違ったものになっていたでしょう。つくばエクスプレスは存在しない、あるいは松戸側を通っていたかもしれません。日本最初の団地「光ケ丘団地」も、柏市でなく流山に建設されていたかもしれません。しかし常磐線が通らなかったからこそ、流山には昔の面影が残されました。

秋元家は江戸時代に酒造業を興し、のちにみりん業でさらなる財を成しました。江戸期には小林一茶と親交を深めた秋元双樹がおり、文化・芸術へ支援を重ねてきた家系です。
隆盛期の最後をつとめた秋元洒汀も同様に文学をたしなみ、文化・芸術への支援をされておりました。その一人が菱田春草です。代表作となった『黒き猫』も『落葉』も完成と同時に洒汀が買い取ったため、どちらもはじめは流山市にあったのです。その後細川護立のもとへ引き取られ、管理団体の永青文庫に収蔵され、どちらも国の重要文化財となります。

和可菜で整体を始めて翌年あたり、秋元家で春草の手紙を公開しておりました。秋元家は現在秋元由美子(画家)さんに継がれ、建物の一部は市に寄贈されました。その寄贈された建物内で、ある年手紙が公開されており、家族三人で観に行きました。
秋元さんはわたしたち(正確には妻と娘でしょうね)の訪問を大変喜んでくださいました。そして妻と娘を見つめながら、そこに春草の面影を見出そうとされているようでした。人というのは、亡くなってからも誰かの中にありありと生き続けるものですね。妻とその一族は、わたしの中でますます存在感を増すのでした。
手紙の中に弟唯蔵さんのお礼状がありました。春草への支援を感謝する手紙です。ふつう弟が兄のことでお礼状を書かないだろうと思いますので、兄弟の愛情と信頼を感じさせるものとして、わたしの中にのこりました。

そういえば妻のお母さんが亡くなる数日前、病床から無理して起き上がるようにしながら、
「みんな仲良くね」と再三仰ってました。
その場にいたのは妻のお父さんと妻のお姉さん、妻、私。いろいろあったのだろうと思わされたのでした。

(その6につづく)

2019年11月28日木曜日

磯谷整体 東京室物語 〜和可菜のころ〜 その4

和可菜初日。
二人診ておしまい。
赤字ではないが黒字とは言えない。
そんなことより…、
自分はいま和可菜にいる。
心の中でなんどでもかみしめる。

すっかり陶酔してるところへ、
興味をもったお手伝いの方が整体を受けに来た。
整体が終わって帳場の奥に戻られた。
どんな感想を持たれたのかはわからない。
話を聞いた別の方がまた整体を受けに…
その話を聞いた方、たまたま女将さんを訪ねて来られた方が整体に…

こうして和可菜初日は、わたしの不安を忘れさせてくれるものとなったのでした。
しかし女将さんに会ってない。
女将さんに会えなければ、"和可菜に来た"のマイヒストリーは始まりません。


和可菜二日目。
女将さんが整体を受けに来られました。
「この間はうちのものがお世話になりました。」
最初に丁寧なご挨拶をいただき操法しました。

すでに八十も後半でしたが、呼吸に力がありました。幼少期は弱かったとのことですが、ていねいに体を使ってこられた跡がありました。
はっきりとした物言い、打てば響くような返事の早さ、なんとも爽快な方でした。
これ以降、和可菜閉館まで診させていただきました。
途中股関節を壊したときは時間がかかりましたが、しっかり回復されました。

「危ない」ということもありました。
わたしがそう感じただけですが、極端に力が衰えたことがあり、
「危ないです」と伝えたことがありました。
二日くらいは元気がなくなったようですが、その後また元気になりました。
「危ない」と言われたことで、いろいろ思い直しふっ切れたと仰ってました。
人の「生きる力」とは不思議なものです。


Oさんは和可菜で整体を始めて間もない頃にいらっしゃいました。
紹介なしでやってきた初めての患者さんです。
ホームページを読んで興味を持たれたとのこと。あまり話さないご婦人でしたが、よくホームページを読んで下さっているのがわかり、こちらもうれしくなりました。
きれいな背骨をしていて弾力もありましたが、少し過敏なものがありました。
上胸部の抜けたところに古い問題が感じられ、解消するのに数年かかりました。

Oさんがいらした次の和可菜の日、神楽坂に住むというOさんの妹さん夫婦が来室されました
妹さんの姓はFさん。そう、福岡講座のFさんと一緒。名が妻と一緒。ついでに言えば年がわたしと一緒でした。
和可菜への道筋をつけてくれた福岡のFさんと同姓。このことがわたしを勇気づけました。
名前が符合したからといって特別意味を感じない方ですが、不安を抱えて始めた東京室だったので、この始まりの時期にFさんの名前は特別な力を与えてくれるのでした。

引き続きOさんのお母さん、息子さんが来室され、和可菜で整体を始めたことに迷いが消えていきました。
えらく優秀な体の若者だな、と思ったら息子さんは東京大学で物理を学んでいる学生でした。大学で鳥人間コンテストの活動をしているとかで、その後設計を担当されたりしておりました。これは唯蔵さんのご縁かな、とあとで思ったものです。
(菱田唯蔵:東京帝国大学教授 航空工学博士 菱田春草の弟 妻の曽祖父菱田為吉の弟)


その後Oさんのお宅に何度か往診に伺いました。
驚いたことに、そこは目白の永青文庫のすぐ近くでした。
音羽で永青文庫を想った日々が思い返されます。往診の道々のぞいてみると、雑木林のなかに古びた建物がありました。その風情になおさら郷愁を掻き乱されます。大家さんが磯谷(いそや)さんだというOさんのマンションの前に立つと、ここでも懐かしさが湧いてきます。東京に住んでいる頃はバイクで移動していたこともあり、このあたりは数え切れないほど通りました。
何度目かの往診のとき、それにしてもなにか…………と、わたしはOさんのマンションの前で考え込みました。

「あ!」
思わず声が上がりそうになりました。いえ、声が上がりそうというか、全身がパッと爆ぜるような衝撃でした。通りの反対側にあるマンションは、かつてわたしが何度も訪ねた場所だったのです。二十代前半、公私にわたってお世話になった社長がおりました。そこはその社長のかつてのお住いだったのです。思い出して驚いたというか、あれほどの日々を忘れていた自分に驚きました。15年ほど経っているとはいえ、そこは何度も、いろいろな思いを抱えて訪ねた場所なのでした。
整体を学び、門下生生活という濃密な時間を過ごし、整体にかけた人生に入ったわたしには、その前の出来事の多くがはるか昔のことのようになっていました。そしてそのことが時に人生の齟齬のごとくわたしに迫っていた時期でした。自分の中で不協和音が鳴り止まない。昔の知人に会っても、わたし自身が変わってしまったせいか、昔のように噛み合わない。そんな時期です。

    目白通りの向こうで青春の残像が息を吹き返す。
    目白通りのこちらで整体指導者として背負ったものが脈打つ。

過去と現在の断絶を感じていたこの時期に、通りの向こうとこちらにそれを象徴する二つの建物が対峙しておりました。

    さらに背後には永青文庫。
    向かいのマンションを向こうに降りたところは、
    妻と出会った井本整体音羽道場があったところ。
    過去も現在も、今この場所で当たり前のように渦巻いておりました。

それがひとつの啓示となりました。
変わらない自分と、変わってきた自分と、今ひとしくあるという当たり前の事実です。
不確かになっていた自分に気づき、再び確かになっていく自分を得られた瞬間。それは救いでもありました。
こんな経験ある方、結構いらっしゃると思います。
Oさんが呼んでくださったのか、春草が呼んでくださったのか、いずれにせよ、得がたい瞬間に感謝するのでした。

(その5につづく)

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