2020年11月3日火曜日

四指と母指と整体と木村政彦

太平書林にて

いつものように柏の古本屋「太平書林へ」。。。
通いつめると蔵書が大変なことになるので、週一日だけと我慢して通ってます。

ほとんどワゴン品しか買わないのですが、我慢しきれず店内の棚もなんとなく物色していると、木村政彦『わが柔道』がありました。
この本は高校時代に本屋さんで再三立ち読みしたのですが、再会するとうれしいものです。古本屋にいく喜びのひとつですね。

10年くらい前に『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』という殺伐としたタイトルながら、一部の人には涙なくしては読めない感動の本がベストセラーとなりました。木村政彦に口惜しさを感じていた私なので、もちろん読みました。

この本の中で『わが柔道』も引用されているので、なんとなく再読したような気になっていましたが、あらためて読んでみると、興味深い記述がたくさん見つかりました。
なかでも四指と母指に対する言及は興味深く、気づけば何度も読み返していました。

木村政彦が母指も使って組むようにしていた、というのは二次情報、三次情報としては何度か見聞きしたことがあったのですが、そのときはサラリと流していたので、実は母指の習得に尽力されていたと知り、驚きました。なにしろ元が天才という頭があるので、思い立ってすぐにできたのだろうと、勝手に考えていたのです。

柔道では相手の襟、袖をつかむとき、親指を伸ばし、四指で握っている。しかし、ただつかんでいるだけでは力が入らない。相手を引くにしても押すにしても、親指に力が入らないと、四指だけでは充分でない。まずスピードが鈍る。それに、簡単に相手に振り切られてしまう。
 力というものは、手の四指の力が内側に向かってくれば、親指の力が逆の方向に向かう。つまり内側と外側から二重に向かってこそ、強靭な力となって引き、押し、そして相手からの振り切りを許さなくするのである。  だから親指を使わないというのは、力学に反することだと私は考えた。しかし、これが理論的に効果があると知ってはいても、なかなか身につけることができなかった。

木村政彦『わが柔道』ベースボール・マガジン社(1986)

木村政彦の手

何年か前に木村政彦の動画を観ていたところ、柔道家としては手が独特なことに気がつきました。
これは「整体の手」の参考になる、と思ったのです。
どこがどう、、、というと説明が困難なのですが、充ちた感じが素晴らしいのです。
そしてそれが鍛え抜かれている、と感じたのです。

勘違いかな、とも思い、何人かの柔道家の手を観察してみたのですが、多少似ている人はいても、鍛え抜かれている人はおりませんでした。
一応、弱いながらも高校時代に柔道をやっていたので、親指を使って組みたいけれど、それは難しい、という自覚が当時ありました。ただ単に親指を使った程度では、折れる危険のほうが怖くなりますし、力いっぱい握れば握力が切れてしまいます。人並み外れた力があれば、曲がりなりにも試みられたのでしょうが、そんな力もなかったので、諦めておりました。

そもそも親指をしっかり使わずに強い人がたくさんいたので、それが必須とは思えなかったのでした。握力のコツは小指である、と説く声も多いので、結局小指に頼り、四指に偏重していきました。
高校時代に『わが柔道』を読んだとき、親指への言及をどう思ったのか、まったく覚えておりません。おそらく適当に読み飛ばしてしまったのでしょう。もったいないことを、、、とも思いますが、私のほうが学べるものを持っていなかったということでしょう。
整体を学んで、四指と母指の使い方を日々考えるようになって、はじめて身にしみることとなりました。
ここにいたるまで三十余年。われながら凡庸だなと思います。

「四指と母指」は整体の基本

整体を習い始めてすぐに、「四指と母指」を習います。
「四指と母指」が基本、これができないと整体はできません、、、ということです。
その習得を主眼に、一つの技術練習に数時間を費やすこともありました。

最初に習えば習得できるかというと、実際には甘いものではなく、上手くなったという自信のあとに、下手だなあという反省が忍び寄ってくるのです。結局何度も立ち返らなくてはならない基本として、いつまでも目の前に立ちはだかる壁です。

そういう何度目かの壁にいたったときに、木村政彦の手に感動しました。
「四指と母指」その両方がある、という感じです。両方が同時にあるのです。
この同時にあるという手は、めったにないのです。

五指で握ることによって、より強い力が発揮できることを知りながら、実行できないのは、生まれついての練習の習慣がそうさせるのであって、できないのは、柔道に対する執念が足りないからにすぎない。何とか五指で握りたいと、私自身考えていたけれど、子どものときからの習慣というのは恐ろしいもので、気をつけている間は握れるが、ちょっと気を許すとすぐに戻ってしまう。

木村政彦『わが柔道』ベースボール・マガジン社(1986)

巻き込み投げ

多くの柔道家が、巻き込みながら投げます。
四指でしか組めないと、自然と巻き込み投げが主体になるのだと思います。

四指で襟を巻きつけるように組むので、その流れで「投げ」も巻き込みにならざるをえない、という解釈です。
また「投げ」を潜在的に「巻き込み」として認識するためか、背負うときにも前方に巻き込もうとし、大外などでも相手を自分の体に巻きつけようとしがちです。
それが間違った投げである、ということではないのですが、力が一方向にしか働かないので、技が単調になるのです。
本来の「投げ」とはどのような認識なのか、木村政彦のなかに見て取りたくなりました。

木村政彦の打ち込みをみてみると、巻き込まないのが基本に見えます。バリエーションとして巻き込みも使ってたようですが、あくまでも変化系のひとつだったようです。
釣り手の回内・回外が自由自在にみえるのも特長です。あの殴りつけるような大外刈りも、釣り手で目一杯引きつけておきながら次の瞬間には叩きつけるように押し倒しております。肩甲骨を含めた上肢全体が強力に連帯しているのでしょう。肘の動きとしては、屈曲から伸展へ滑らかに移行します。こうした釣り手の自在さが、極めて高いレベルで実現されているように見えます。その高いレベルをなし得たのが、母指の使い方を鍛えたところにあると思うのです。

四指の巻き込み

整体で四指が上手になってくると「もっともっと」とやりすぎてしまうことがあります。
途中までは上手くても、限度を超えると相手には響かず、四指の力が自分に戻ってきてしまう感覚があります。
あくまでも私の感覚なのですが、この限度が悩みの種でした。
このやりすぎてしまう四指は、柔道における過度の巻き込みに似ている気がします。

上手な四指で、限度のこない四指を考えたとき、母指の利かせ方がどうも追いついてないと気づきました。
四指も母指もどちらも利かせ、融通無碍に配分が変わり続けなくてはならない、と考えたのです。

木村政彦の手は、まさに融通無碍な手でした。
そして存分に鍛えられた感じに、うれしくなるのでした。
こういう手なら、組んだだけで相手の中に入っていけただろうと思うのです。

スピード

『鬼の柔道』も気になって読んでみました。
こちらにも親指に関する同様の言及がありました。
面白いことに、小見出しのタイトルが「柔道のスピード」となっております。

「釣上げる」「引上げる」「引下げる」場合にも力とスピードがくわわるし、せっかくつかんだ相手の柔道着をむざむざ切られることもない。

木村政彦『鬼の柔道』講談社(1969)

解釈がちょっと難しいのですが、変化に対応するスピードの話とも受け取れます。
といいますか、私はそのように受け取りました。

整体らしい四指で中を感じられるようになってくると、中の変化に即時対応できないことがもどかしくなってきます。
お腹に関しては、四指だけでもかなり上手くなれると思いますが、背中に関しては、四指だけでは限界が早くやってきます。
やはり四指と母指が一緒に働いていないと、呼吸をつかまえて動かすのは難しいのです。

おわり

誰が読むのかな、、、とは思いましたが、時を経て再会した本の喜びが一入(ひとしお)だったもので、書いてみました。
当時は読み物として以上の成果はありませんでしたが、今は多くを教えてもらえた気分です。
母指なんて誰でも動かせますが、高度に使い物になるように追求した先人がいて、言葉に残しておいてもらえたことに感謝です。

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