2019年8月14日水曜日

【本が好き】 断章 『リハビリの夜』 熊谷晋一郎

小児脳性麻痺の著者が自身の身体を通して、運動修得を分析。
当事者研究と名付けられた研究スタイルを、いかんなく発揮した一冊。
運動の修得あるいは是正、リハビリ、メンタリティの確立、といったことに興味のある人はご一読を奨める。

「脳性まひ」だとか「障害」という言葉を使った説明は、なんだかわかったような気にさせる力を持っているが、体験としての内実が伝わっているわけではない。もっと、私が体験していることをありありと再現してくれるような、そして読者がそれを読んだときに、うっすらとでも転倒する私を追体験してもらえるような、そんな説明が欲しいのだ。つまり、あなたを道連れに転倒したいのである。
p.22 より引用

運動を理解するには、内実を追体験、、、
こういう視点をはっきり持っている人はなかなかいないと思う。

文体が内容に応じて変幻自在。ときに文学的で、ときに科学的。その器用さに、驚かされる。そういう意味でも稀有なノンフィクション。
全体としては非常に分析的に書かれているので、概念切り分け、用語理解をしながらでないと読めない。
哲学的記述が苦手な人には面倒かもしれない。

“規範的”という用語が頻出する。 熊谷晋一郎
健常者を基準にした運動などといった場合に使われる。
その運動に体を合わせられない、向かわせられない麻痺という体。
そこにギャップがあるにも関わらず、無理に合わせようとしていた自分自身と周囲の人間。
その心模様と葛藤、行き詰まっていく人間模様まで描いている。

1977年生まれの著者の幼少期は、規範的な動きを修得させることが、小児麻痺リハビリの鉄則だった。
修得出来なさは、そのまま本人と家族の苦悩となり、リハビリ施術者のイラ立ちにもなった。

著者自身が肩をすくめるポーズがある。
規範的な肩をすくめるポーズをイメージしている。
しかしすくめているようには見えない。
それは著者自身も分かっている。
そして規範的な肩をすくめるポーズのイラストと対比させている。
非常に分かりやすい解説だ。


ここからは主に私の見解と感想

本書は小児麻痺の運動修得について語られているが、
本質的には健常者の運動修得プロセスも変わらないと思う。

健常者であっても、
規範的運動と自分の身体の間にはギャップがある。
そのギャップに気づいた時の対応は人によって分かれる。

・ギャップを無視する。
・自分には出来ないと判断し、諦める。
・ギャップの理解分析に務める。

ギャップが小さければ、無視しても許容範囲内の運動が現れる。
しかしギャップが大きくても、積極的に無視してすませてしまう人が多い。
その結果、雑な運動と映る。

手足を記号的には同じに動かしてるのに、なんだか別物に見えたことはあるでしょうか。
たとえば同じダンスをしていても、
片方には芸術性があり、
片方は体操にしか見えない、という場合。


大雑把に言って、赤ちゃんから思春期までは、運動を感覚的に理解する。
身体感覚そのままを修得しようとする。
思春期の途中から運動を可視化されたもの、表現された形を記号化して覚えようとする。
そうしてそのまま表現形のみが運動である、と解釈してしまう人がほとんどだ。
(一般的に、リハビリはやる方も受ける方も、記号のみに陥ることが多い)

フィギュアスケートの採点は、技の難易度と芸術性が分かれている。
表現形という記号と身体感覚は本来別物だ。
芸術性とは、内在する身体感覚の素晴らしさに他ならない。

ほとんどの健常者が、
自身の体とその感覚を見つめなくなっている中で、
麻痺ある著者が、
自身の感覚をつぶさに見つめて分析している点に敬意を表する。

足りないから分析するしかなかったのだ、
という見方もあるだろうが、
足りないからあきらめる、見ないことにすることの方が圧倒的に多いものだ。

現に健常者であっても“足りない状況”はいくらでも経験する。
そして“足りなさ”を無視することがほとんどであろう。

自分が雑に動いてる、と感じてる人も読んでみるとよい。


Wikipedia 熊谷晋一郎
Wikipedia 当事者研究
リハビリの夜 amazon.co.jp

2019年8月7日水曜日

山梨紀行 その2 薮内正幸美術館

薮内正幸の名前は知らなくとも、その動物画を見たことがない人はいないでしょう。
絵本から専門書まで幅広く活躍された方です。

薮内正幸 at DuckDuckGo

薮内さんの絵は、学問的な正確さを持ちながら、生命力を感じさせるところがすごいのです。
活躍の舞台が多岐に及ぶのはそうしたところからもきてるのでしょう。


さて美術館。
見覚えのある「動物の親子」の作品がだだだっと並んでおりました。
母親が子どもをくわえていたり、子どもが後ろをついていったり、、、
母と子の情景に、人間と変わらないものを感じます。

おぉ!と思ったのは、薮内氏が中学時代に模写した鳥類図鑑。
しっかりとした基礎力のあるイラストでした。

薮内氏の魅力のひとつとして、叩き上げ感と縁に導かれた人生があります。
膨大な作品数を誇りますが、絵を専門に学ばれたことなしに業界に入り、周囲の人々の支持と応援を受けながら大成された方なのです。
そんな薮内氏の黎明期を模写から感じ、しばし感慨にふけりました。


業界入り。
その始まりは13歳の頃にはじまる今泉吉典との文通にある。
(今泉吉典は有名な動物学者一族の初代)
薮内はイラスト入りの手紙を今泉に送り、今泉はそのイラストが着実に上達していることを見逃せなかった。
そんな折、福音館編集長が無名の動物画の描き手を探しており、薮内の高校卒業時期に重なったことから、今泉の推薦を受け福音館入りした。
薮内は研究者を望んでいたようであるが、編集者の熱心な説得に最後は応じたかたちとなった。
福音館に入り、最初の一年は今泉が館長を務める国立科学博物館に日参し、骨と剥製のデッサンに明け暮れた。。。


美術館には、今泉氏が薮内氏を福音館に誘う手紙も展示されています。
人生の分岐点を思わざるをえません。

私はつねづね思うのですが、興味のあること、好きなことがあるのなら、とりあえずその方向に行動し、生きればいいと思います。縁があれば色々とつながっていくものでしょう。それが充実した、その人の人生と思います。
達成度だけにとらわれると、誰の人生を生きてるのか分からなくなってしまいます。
薮内正幸の人生に触れて、あらためてそんなことを思いました。


面白い展示物、、、
ウラヤブ通信なるものがありました。
薮内氏が原稿とともにシャレの利いたイラストを編集者に渡していたそうです。
身内だけの楽しみとして、“ウラヤブ通信”と名付けられていたようです。
グッズ売り場に、ポストカード化して売られてました。ちょっと迷いましたが、買ってません。

グッズ売り場は個人の美術館としてはかなり充実してます。
点数がすごいのです。ファンの方はぜひ足を運んで見て下さい。

【参考】
薮内正幸美術館
WikiPedia 薮内正幸
WikiPedia 今泉吉典


追記、、、

美術館を出て、国道20号を南下。
数キロ行くと、左側に「ドライブインやまびこ」
一瞬廃屋にも見えましたが、入り口に営業中の看板。
そこでお昼ご飯。
ふつうに作ったふつうのものが食べたい方にはおすすめします。
アジフライとお味噌汁が美味しかったです。
うどんは味が濃いめですが、夏にはちょうどいいですね。

食事処が豊富にある地域ではないので、遠方からくる人はある程度候補を見つけておくのがベターです。

2019年8月2日金曜日

信玄堤、行ってきた。いにしえの治水事業。

古(いにしえ)の治水技術にそこはかとなく惹かれるものがあり、親戚を訪ねた折に立ち寄ってきました。

【ざっくり解説】
山梨県甲斐市竜王町。釜無川と御勅使川の合流地点。
古代から氾濫原であり、定住には適さない。
武田信玄(1521-1573)の指揮で治水事業が行われた。

いくつかの治水技術が併用された。
・川の流れを変えて勢いを弱めるー将棋頭
・川の流れを岩にぶつけ、勢いを弱めるー高岩
・川岸から少し飛び出すように丸太を三角錘に組み、勢いを弱めるー聖牛
・堤防に切れ目をつけて、水を逃がすー信玄堤(霞堤)
など


信玄堤に惹かれたのは、洪水を起こさないことよりも、洪水をある程度許し、導くことで肥沃な土壌を確保する点です。
化学肥料生産技術が発達して、川が運ぶ肥沃な土壌などというものは過去のものに感じるわけですが、化学肥料に負う割合が増えすぎて、野菜の栄養価は確実に下がってきているという現実があります。
かといって洪水は怖いですから、人間の営みと折り合いのつくところはないのだろうか?とたまに考えておりました。

ちょうど水道事業にたずさわっている方が整体に来られていたので、洪水を許す治水設計は可能か?などと話しておりました。それから数カ月、新聞で霞堤(かすみてい)の存在を知り、信玄堤(しんげんづつみ)という名で山梨に現存することを知りました。
感激でした。今も機能しているのですから。

ご無沙汰しているイトコに会いたくもあり、足を運んだしだいです。
さて、古の知恵を感じられるでしょうか、、、

駐車場から土手に上がり、周囲を見渡す。
川の流れを感じ、水の暴れ方を想う。
流れの治め方が浮かんでくるだろうか、、、

古の人々の感性ってどんなものなのか。
ぼーっと突っ立って眺めたり、散策してみたり、、
その場所に、なにかすこし、馴染んでいけるだろうか、、
と試みました。

結論から言うと、うまく行かず。
朝の9時からたくさんの蚊に刺されて終わりました。
家族と一緒だったこともあり、滞在時間は30分程度。
流域全体を俯瞰的に散策すると、おそらく3時間はかかるでしょう。
また機会があったら、散策してみます。

治水技術を学ぶだけであればネットで足りるのですが、現地まで行く機会があったのですこし深いところまで学べるかな、などと考えてしまいます。


整体の技術もそうなのですが、身になるように学ぶのが難関です。

こうすれば、ああなる、ということが最初は刺激的なのですが、
それだけを繰り返していても、一向に身につく感触はやってきません。
要素をあつめても総体にはたどり着かないわけです。

それでも多くの人の学習、、、これはなにも整体に限ったことではないですが、、、
こうすれば、ああなる、を覚えることで正解にしていきます。
才能のある人は最初からそんなふうに学んでいないだろう、
と凡人の私ですが思うのです。

治水技術も、こうすれば、ああなる、を見て楽しみましたが、
この地で水を治めようとした人は、何をどう見たのだろう?どう感じたのだろう?
というところをちょっと感じてみたいですね。
あいにくよく分かりませんでしたが、ひとまず今回は満たされました。
今後、川を見て、見えることが増えてきたなら成果あり、ということになります。


【観光案内として】
信玄堤公園に無料駐車場があります。
信玄堤公園トイレのあるところです。
あずま屋もあります。

【参考サイト】
過去に学ぶ~甲府盆地の治水システム(スマートフォン版)|JFS ジャパン・フォー・サステナビリティ
甲府市/甲府にもあった「信玄堤」
信玄堤 - Wikipedia
霞堤 - Wikipedia

2019年7月19日金曜日

【本が好き】流山市 木の図書館へ

毎週図書館に行きます。
十年来通っています。

今回はちょっとヘビーです。
相互(県内取り寄せ)がいっぺんに六冊来まして、ありがたいやらしんどいやら。
ほとんどの本は一週間で返しますが、今回は二日で一冊のペースが増えそう。
ここにある本を全部知ってる人はさすがにいないはずですが、
全ての本が心の琴線に引っかかる人もまれでしょう。いるとしたらかなり変わり者ですね。

どうして借りたのか、あるいは読む前の思い入れ、、、

『私は見た!昭和の超怪物』黒崎健時
とある人が教えてくれました。
“怪力法”を創始した若木竹丸と対談してるとのこと。
ふつうの人から見れば黒崎健時も超怪物なので、読む前からヒリヒリします。
表紙は黒崎健時、、、『必死の力・必死の心』を踏襲したんでしょうか。『必死の力・必死の心』は高校生のときに五回、成人してからも五回は読みました。読むと生理的限界を超えたくなる本。そういう本が減りました。

『東洋の神秘 〜ザ・グレート・カブキ自伝』ザ・グレート・カブキ
名著です。
発売当時、本屋で何度も立ち読みしたけれど、結局買ってません。ちょっと申し訳なく思います。
「プロレスは立ち位置なんだ」という教訓はそのまま人生訓として読めます。
題材がプロレスでなければ、ベストセラーになってもおかしくないほど箴言に満ちた本。
カブキさんは現在居酒屋を営まれています。
お店は飯田橋なので、神楽坂で整体をやってる頃に何度も行こうと思ったのですが、結局行かないまま春日に移ってしまいました。
しかしなんとビックリ、春日に移転されてました。今度行こうと思います。

『魂の錬金術 エリック・ホッファー 〜全アフォリズム集〜』
ちょっと前にエリック・ホッファー全部読もう!と思い立って、これが最後の一冊。
考え抜いた人、鍛えられた思考力、人間の、人間らしい力を感じさせる人です。
日本で、ホッファーが文化人の中でホットな存在になったのはいつなのだろう?
知ったのが数年前なので、そのあたりリアルタイムな感触はないのですが、今読んでも色褪せるものはないですね。
肉体労働者も当たり前に思索するわけですが、老齢まで肉体労働にこだわった点で稀有な人。憧れますね。

『作業歌 労働とリズム』カール・ビュヒャー
この題材で書かれてる本はおそらくないと思います。
何年か前にいろいろ調べたのですが、この本くらいしか見当たりません。
あえて言えば小泉文夫。民族の歌を蒐集して仕事や作業との関係を論じております。
1970年発行。県内に一冊だけありました。借りたのは私で何人目だろう?
除籍されて廃棄になったらどうしよう、、、心配になります。

『リハビリの夜』熊谷晋一郎
「ケアをひらく」シリーズの一冊です。このシリーズは秀作が期待できます。
ラインナップに読みたいものがたくさんあるのですが、まだ数冊しか読んでません。

『なぜシマウマは胃潰瘍にならないか 〜ストレスと上手につきあう方法〜』R・M・サポルスキー
「シュプリンガー・フェアラーク東京」というすごく長い出版社名。
シマウマの生態が書かれていることを期待している。
それはおそらくないとは思っているけれど、シマウマについて少しくらい触れてないだろうか、と期待がある。
ウマについて書かれたものは多いのですが、シマウマはありません。シマウマは気性が荒く、家畜化できなかったウマです。人間との関わり、その歴史など、知りたいと思っています。

『新選組の哲学』福田定良
自分のコトバさがしをするということは、自分の生活体験から離れずに考えられるようなコトバを見つけるということです。
朝日新聞の「折々のことば」にありました。引用元は『堅気の哲学』福田定良、だそうです。どんな人物なのか気になり、ちょっと前に新選組の出てくる本を読んだので、キーワードが都合二つとなり借りた次第。
この本だけは相互ではないので、読めなければ延長するつもり。

以上

2019年7月10日水曜日

樹木希林 オフィーリア 存在感

樹木希林さんの本が売れてるようですね。
死して尚、というよりも、
いなくなったことが存在感を倍増させている、という感があります。

絵画「オフィーリア」をモチーフにしたあの装丁のインパクトはすごいですね。

誰が考えたのだろう、と感嘆せざるをえません。
このモチーフはCDジャケットなど、数え切れないほど利用されているので、どこかで見たことがあると思われた人も多いでしょう。
しかしこれほどインパクトある形で世に出たものはないのでは。

元ネタの絵画「オフィーリア」は、ミレイ作。川に溺れて死にゆくオフィーリア(シェークスピアの「ハムレット」)を描いたものだ。清流に浮かぶ美しく、生きてるような死んでるようなオフィーリアと、周囲に生気あふれる草花、崩れ落ちたかのような樹木から半分枯れたような枝、生と死の狭間を浮かび上がらせている作品。
装丁もほぼ同じですね。
出版された頃の希林さんの存在感を表現されたのでしょう。


死んだ人間の存在感が大きくなるのは、おそらく人間だけと思う。
“存在感”とは概念上のものであり、物理的存在とは別個の抽象概念であるからだ。
こうした抽象概念は人間においてかなり自由に創造されるものになった、と私は思っている。
ゾウなども仲間の死を悼むようだが、死んだ仲間の存在感が増していくことはないように思える。

われわれ人間はそもそも、生きている時でも個々の存在感に敏感であり創造的だ。
存在の大きさ、濃さ、特別さ、存在感が薄いこと自体が存在感として膨れ上がることさえある。
なにゆえにこれほど敏感かというと、人間は個体差が大きいからだと思う。
外見はもとより、内面の個体差も大きい。人間は個性抜きには語れない。

個人が一生かかって確立したものに、他人は憧れを抱いたり、嫌悪を抱いたりする。
死んだ人間への敬意が増すこともあるし、
死んだ人間への嫌悪が増すこともある。
こと人間に限って言えば、死んだら全部お終い、というものでもない。

希林さんが話題になっているのは、役者としての功績もあるが、その人間性によるものが多いようだ。
「こんな人がいた」「こんな人だった」
それぞれがそれぞれに、そうした存在感を自らの中に描こうとする。


魂というものがあるのかどうか分からないが、人間の存在感というものは、亡くなったあとも生きてる人たちの中で生き続ける。生き続け、なにかしら受け継がれる。受け継いだ人の中で発酵してきたり、人を成熟に導いてくれたりする。
人間の“命の重さ”とは、そういうところにあると私はつねに思っているが、いかがだろうか。

ある人が生まれ、生き、亡くなる。
その道程で創られた人間性のようなもの、
その道程で創られた存在感、
その道程で周囲に与えたもの、
そういうものを感じたとき、“命の重さ”を誰しも思わされるのではないでしょうか。


老醜をさらしたり、目一杯生きて「あとは野となれ、山となれ」と潔く散ったり。
生き様、死に様はさまざま。

それがどんな有り様でも、必ず後世に影響を及ぼす。
それなりによいものを遺す努力は必要であろう。
誰かが生きるとは、どこかの誰かA、B、Cという不特定ではない。
誰かが死ぬのも同様だ。
その人という個性があるのなら、それ相応の責任があると思う。

世の中の仕組み上、社会に及ぼす影響は大小ある。
政治家であるとか、成功者であるとか、有名人であれば、多くの人々の中に遺るが、
それがどのくらいの強さ、濃さで遺るかは、名声とは別のところにある。

グローバル社会であり、情報の流通はリアルタイムで世界に伝えることもできる。
名のある人の情報はかつてないほどあふれかえる。
ほとんどの人、一般の人は、これまで以上にその他大勢になっていく。

しかしながら、とるに足らない小さな存在と思う必要はない。
人が生き、その人がいる、そのことが誰かの中で必ず生きている。
生きていないはずはないのです。

その人がその人らしく生きる、
その人という存在感を確かなものに高めていく、
それが誰にとっても大切で、人間という存在だと思うのです。

2019年6月3日月曜日

早いけど熱中症について

まだ少し早いのですが、、、

本格的な暑さはまだ来てませんが、
時々ひどく暑い日もあるので、熱中症の話。
今回は「塩」がテーマです。
いつものように独断が含まれてます。


■塩くばってます。

注意喚起を含めて、整体に来た人に塩を配っております。
弁当用の小袋です。

テレビでもネットでも熱中症への注意喚起や対策が行われているので、
ほとんどの人はそれなりに認識してるとは思うのですが、
個人的には塩の重要性について注意喚起が足りてないと思っております。
ちょうど高血圧の基準値が下がったこともあり、心配になってきました。


大量の汗をかいた時には、相応の塩が必要となります。
それくらい誰でも分かっていることではありますが、
現実問題としては、適量の塩を摂る準備をしてる人はほとんどおりません。
塩飴やスポーツドリンクでこと足りると思っている人が大半ではないでしょうか。

水筒やペットボトルを持ち歩く人でも、
塩と一緒に持ち歩いてる人は聞いたことがありません。
コンビニや自販機で買う飲み物にも、
塩が含まれているものはごくわずかです。

スポーツドリンクにはある程度ふくまれてますが、
糖分が多すぎて、スポーツや肉体労働でもしてないかぎり、
適さないと思っています。

外回りの営業など、肉体疲労としては軽度、しかし汗は大量、といった場合はなおさらです。
こうした場合、スポーツドリンクはかえって疲労を招くという実感があります。
おそらく高血糖による疲労感だと思います。
この点は塩飴でも同じと考えています。


■適量の塩

多くの場合、水分と塩分を適量にとれば、疲労感が軽減されます。
暑さそのものにはもちろん効きませんが、体力的には回復します。
塩が抜けると力が入りませんが、足りると体に力が戻ってきます。
精神的にも同様の効果があります。

熱中症の原因はもちろん暑さですが、
判断能力の欠如もあると知ってください。
限度を超える頃には、頭も働かず、体に力も入らない状態になっているから怖いのです。
その原因のひとつに塩分不足があると思っています。


しかし摂ればいいというものでもありません。
大切なことは適量を摂ることです。
塩が入った飲み物よりも、
塩そのものをなめたほうが適量を調整できます。
美味しいうちは適量で、塩辛く感じたら過剰という判断です。
大雑把なようですが、その方が信頼できます。
医学的な規定値よりも、本人の状況を反映しているのですから。


■食生活における塩

高血圧のために塩分控えめのご家庭は多いと思います。
一日の摂取量のガイドラインはありますが、
冬と夏では事情がことなることを考慮されてません。
その日の活動に見合った塩分量も考慮されていません。

邪推と思われるでしょうが、
私は高齢者の熱中症の一因に、塩分控えめの食事があると疑っています。
判断能力と体の力が早い段階で欠如する、という推測です。

同様に心配になるのは、
子どもたちの摂取塩分量です。
塩分控えめの家庭で同じ食事をしてる子どもたちです。
運動部などに属していなくても、通常は子どものほうが汗をかいてるはずです。
しょっぱいお菓子などに執着するようなら、塩分不足の可能性大です。

医学的なガイドラインを参照しながらも、
個別に考えて対処してほしいと思っています。


■他の栄養素は必要じゃないの?

食事でとれば十分です。
出先で、あるいは食間に摂取する必要はありません。
アスリートならまだしも、通常の生活レベルでは塩と水で足ります。
それでも足りないと感じたときに、栄養を考慮してください。

糖分は肝臓の蓄えでなんとかなりますが、
水分塩分は補給と排泄を繰り返さないと保てません。
さらに言えば、水分は脂肪を分解してある程度つくれますが、
塩分は短期的な必要量しか体にとどまりません。


■結論

塩を持ち歩こう!
お守りがわりに小袋に入れよう!
手のひらにのせてぺろっとなめて適量を判断しよう!

子どもに持たすときは、いきなり口の中にザラッと放り込まないよう、言って聞かせましょう。
過剰になめたらもちろん体に悪いです。ぺろっとなめるから適量を判断できるのです。
とくに小学生男子、なにやるか予測不能です。
塩の匂いを嗅いでみて鼻の中が塩だらけになるとか普通にやります。
私がそういう子どもでした。


■余談

3.11の震災以降、夏は塩を持ち歩いてます。
帰れなくなったときのためです。
荷物が多いので水は二の次にしてます。
水は500mlくらいならなんとか調達できそうですが、
塩は意外と難しい気がします。
コンビニに行けば食卓塩はありますが、帰宅難民の数には足らないでしょう。


今年ふと思いついて、、、
いや今まで思いつかなかったのがどうかしてますが、
ゆで卵についてくるような弁当用の塩なら人に渡せる、
と思い立ちました。

近所のスーパーでは見つかりませんでしたが、
アマゾンで売ってました。
お守り代わりに持ち歩く人、
人に配りたい人は買ってみるといいです。

ちなみに塩をアルミホイルに包んでるとそのうちアルミが劣化してきます。
サランラップも日数によっては同様にラップの水分を引っ張るんじゃないかと思います。
そうしたわけで、日々使うレベルでないなら、個包装されたもののほうが安全と判断してます。


2019年5月24日金曜日

大哺乳類展2 棘突起から分かること

上野の科学博物館の特別展に行って来ました。
前回、、の記憶が大分薄らいでますが、
今回は、、かなり力が入ってたように思います。


■私的見どころ指南

背骨を見て、哺乳類の運動を感じ取ろう、
という見どころです。
個人的興味から、骨の感じと動作の感覚を自分の中に落とし込むようにしています。

複数種の骨格が並んでいると差異が明確になってくるため、
あっちの骨格の感じと、
こっちの骨格の感じに個性を感じ、
何となく自分の中で感触が肉迫してきます。

おそらくこうした観点で骨格を観る人はまれなので、
知ってる限りではガイドとなるようなものはありません。
どこかの誰かが面白がってくれるかもしれないので、書いてみます。

テーマは
棘突起から感じる哺乳類」、、、


■背骨の差異

入り口を入ると、右の壁側に
「サンショウウオ」「イリオモテヤマネコ」「オオトカゲ」がおります。
まずは背骨の形に注目して下さい。

両生類のオオサンショウウオの背骨は変化に乏しく、
頚椎(首の背骨)と胸椎(胸の背骨)の違いもほとんどありません。
復元するときに順番を間違えても、たいした問題にならないレベルです。

爬虫類のオオトカゲの背骨も変化に乏しいですが、
頚椎だけははっきりとした特徴を持っています。

哺乳類のイリオモテヤマネコの背骨はどうでしょう?
先に二種をよく見ておくと、
イリオモテヤマネコの背骨が変化に飛んでいることがよく分かります。

ここから推測されるのは、
・同じ形の背骨は、同じ動きをするだろう。
・違う形の背骨は、違う動きをするだろう。
ということです。

オオサンショウウオは顔を上げることができず、
体全体を左右にくねらせることしかできません。

オオトカゲは体全体を左右にくねらせますが、
首の動きに一定の独立があります。

そしてイリオモテヤマネコ。
頚椎、胸椎、腰椎、それぞれ特徴が違います。
哺乳類以降、顕著になるのは胸椎と腰椎の差異です。
ここで注目してほしいのが、棘突起です。
背骨に生えている「棘状」の突起の向き、、、
胸椎と腰椎では逆方向を向いています。
その境い目は正確には下部胸椎にあります。

どうやらそこを境に動作が反対なのだろう、
という推測が成り立ちます。


■棘突起の差異

哺乳類は胴体を2つに折ることが出来る唯一の脊椎動物です。
背中を丸められる、という言い方もできます。
2つに折ってバネの力をため、
それを開放することで背骨から高い瞬発力を発揮します。

ヒトにいたっても同様ですが、
哺乳類は垂直跳びも、水平跳びも、背中を丸めることで腱や靭帯に張力をためます。
短距離走でもクラウチングスタートの姿勢で丸まって、一気に開放する手法が取られます。
しかし近年は、スタートから猫背をゆっくり開放することで安定した走力につなげています。

話は戻って、、、
イリオモテヤマネコを見たあとで近くのイヌを見ます。
極端な違いはありませんが、
よく見ると胸椎腰椎の棘突起の向きの変わり目がちょっとだけ大人しいです。
イヌはネコほど背骨の曲げ伸ばしをしないからです。

次はライオンの骨格。
こちらもイリオモテヤマネコほど棘突起の変わり目を感じません。
背骨の曲げ伸ばし、瞬発力はいかばかりかと、体に迫って来ませんか?

次はパンダ、ちょっと戻るとあります。
パンダの棘突起は、驚いたことに腰椎も、胸椎同様に尾の方に倒れています。
この傾向はクマにも見られます。
両種とも、哺乳類の特長である背骨の瞬発力を活かした跳躍が見られません。

次はウマ
ネコやイヌよりもパンダやクマに近いことが分かります。
イリオモテヤマネコの骨格をジロジロ見て、
何となくその跳躍力を体の中に感じていると、
ウマの棘突起に違和感を覚えます。

中部胸椎くらいからみんな腰椎みたいなので、
走りたくても走れない感覚におちいります。
そういう感触が得られると、
ちょっとウマを理解した、ウマに肉迫した気がしてきます。

さてさて、みんなの大好きなチーターに向かいます。
体格のわりに棘突起が細い。
棘突起の向きがそれぞれ個性的。
胸椎よりも、さらに腰椎はそれぞれの棘突起の差異が大きく個性的。

イヌやネコの瞬発力は主に後肢側にあり、
背骨で言うと腰椎側にあります。
瞬発力を追求した結果、チーターは今の骨格にいたったのでしょう。

チーターの下部胸椎付近の棘突起の小ささと倒れ込み方、
こうしたところにも背骨を大きく曲げる性能と感性が見て取れます。

背骨を大きく曲げ伸ばしする走法には大きな欠点があります。
内臓の揺れが前後に大きいので、
胸腔を押しつぶしてしまいます。
結果的に呼吸がままならなくなるため、
持久力を発揮することができません。

呼吸の確保と走力の確保。
こうした視点をもって、今度は蹄のある動物を観ていきます。
さっきまでほど親切に解説しませんので、
適当に読み飛ばして下さい(笑)


■蹄のある動物

ウマ、ウシ、シカ、、、
蹄のある動物はたいてい植物食です。
肉よりも消化時間がかかるため、
内蔵は長い時間中身が満たされたままとなります。
つまり背骨を曲げ伸ばしすると、肉食動物よりもはるかに苦しいのです。

背骨を大きく動かさない走法を選んだため、
動きのダイナミズムは減少し、
棘突起の胸椎腰椎の差異が少なくなります。
また棘突起同士がぶつからないので、隣同士が近接します。
扁平な板状になったのです。


■蹄のある動物には項靭帯が発達

有蹄類のほとんどは上部胸椎が非常に長くなります。
頭からつながる項靭帯が発達するからです。

多くの有蹄類は頭を振りながら、胴体を牽引します。
項靭帯を使って曲突起経由で背骨を牽引するのです。

頭が大きいほど、項靭帯が強力なほど、上部胸椎も長くなります。
頭の振り方は、そのまま種の特徴となります。
会場には映像も流れているので、よく観察してみて下さい。


■ヒトにも項靭帯

項靭帯はヒトにも特徴的に発達します。
ご存知ですか?
われわれも頭を積極的に運動に使ってきたのです。

項靭帯を強く使うときは、顔を前に出すのが定番です。
整体的に言う「肺の力が抜けた状態」でもそうなりますが、
項靭帯を使った状態は、それとは少し違って高い運動性を発揮します。

スポーツでは卓球選手によく見られます。
格闘技ではボクシングです。
おそらくボクシングが一番多用かつ応用されてると思います。

頭の重さを利用して項靭帯に張力を保つことで胸椎に力を保持し、
それを肩甲骨につないでおくことで腕を支え、
頭の動きと連動させて腕を動かすという理屈です。
よく分からないかもしれませんが、この解説はここまでにして、、、


ウマは走るとき頭を横に振ります。
棘突起におけるテンションは上部胸椎に集中するため、
上部胸椎の棘突起に大きな高まりがあります。


ウシの仲間はたいていうつむくように頭を振ります。
バイソンにおいて究極形が見られますが、
棘突起の高まりはなだらかな稜線を描きながら仙骨に届きます。
頭の動きがそのまま全身を引っ張ってる感じが分かります。
ちなみにうつむいた時に一番力が集中するところにツノがあります。
あの運動性がツノを生んだと考えています。


ブラックバックというウシの仲間はウシらしくない走りをします。
会場で詳細な映像が見られます。
背骨を少々曲げ伸ばしするせいか、腰椎の棘突起が少し頭の方に向いてます。
ネコほど背骨は曲げたくない、
でももっと速く走りたい、
そんな思考を感じます。


レイヨウ、アンテロープなどの上に跳ねながら走るグループは、
ツノが直線的で長くなります。
これも選んだ運動が導いた形態と思っています。
もちろん、誰もそんなことは言ってません。
私が思ってるだけです。長いこと思ってたので、今はもう確信しています。


いかがでしょう、
観る楽しみが生まれたでしょうか?
このへんにしますので、興味のある方は会場に行かれて下さい。



私は博物館に行くと、こんな感じでどこか一箇所を見て回ったりします。
なにか見いだせないだろうか、
なにか分かってこないだろうか、
なにか感じ取れないだろうか、
そういう平凡な作業です。

行きつ戻りつしないと差異が見いだせないので、
混んでると、はかどらないのですが、
今回はおそらくたまたま空いてたのでラッキーでした。


哺乳類はわれわれの隣人であり、
かつてわれわれも持っていた運動の感性があるかもしれず、
あるいは身につけようとした感性だったかもしれず、
いずれかの時代に感性の方向が二分した仲間かもしれず、
骨格から、その中身を感じ取ろうとするのは個人的には興味深いです。

同様に、
脊椎動物として、
爬虫類の感性を見出すことも興味深いものです。

歴史を掘り起こしてるような、
自分を掘り起こしているような、、
そんな楽しみですね。


■あらためて概要

大哺乳類展2
6/16まで
上野、国立科学博物館
大人 1,600円 当日は常設展も入れます。

<リピーターズパスの宣伝>
1,500円で常設展一年間入れます。
先に常設展側でリピーターズパスを買って、特別展に行って下さい。
特別展は大体+980円で入れます。

常設展の料金は600円です。
一年以内に3回来れば元が取れます。
元が取れなくても、1,500円なら科博に出資しよう、という考えもありだと思います。

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