『ノアノア』ゴーギャン
私は蘇った。或いは私の裡に純な力強い人間が生まれて来たと云う方が好いかもしれない。この力強い打撃は、文明並びに悪への最上の訣別の辞としてふさわしいものだった。
ゴーギャン『ノアノア』岩波文庫
木村伊量『私たちはどこから来たのか 私たちは何者か 私たちはどこへ行くのか 〜三酔人文明究極問答』ミネルヴァ書房 2021
伊豆の山荘に集まった知性あふれる酔人が文明に対する“問い”を立てて鼎談する。
丁々発止のやり取りというものではなく、いくつもの角度を提示されるというかたち。
司会は山荘の主人「散木庵亭主ハヤブサ」。モデルは著者自身であろう。
著者は朝日新聞社元社長。東日本大震災当時就任していたとのこと。
文明に影響を与えた数多の人物・事件・概念が足早に過ぎ去る。
その早さは同ジャンルの本にはあり得ないほどのスピードだ。
全編に渡ってついていける人はほとんどいないだろう。
目次をさらって、興味のあるところを読むのがいいと思う。
尚、鼎談は架空である。
発行はミネルヴァ書房。著者はもちろんのこと、編集者の力量に驚嘆する。
ちょっと前にたまたまゴーギャン(1848〜1903)の『ノアノア』を読んでいたので、ゴーギャンの「文明からの離脱要求」が私の中に強くのこっていた。
『ノアノア』はゴーギャンがタヒチに滞在していた時の紀行文であり、内的探求の記録だ。芸術家による内的世界の探求は興味深いところだが、あえて一冊の本にするほどの熱量を持っている人はあまりいない。それだけゴーギャンは文明生活に浸かりながら葛藤し、文明離脱の要求が圧縮されていた証だと思う。
いくつか引いてみる。
文明は、次第に私から消えて行った。私は物事を単純に考え始めた。近隣の人々に対しても、なるべく嫌悪を感じないよう、ーーそれよりももっとよく愛しかけて行こうと考え始めた。私は動物的な、同時に人間的な自由な生活から来るあらゆる喜びを亨(原文ママ)んだ。そして、不自然から遠ざかって、自然に入り込んで行ったーー今日の日が、自由で美しいように、明日も亦こんなであろうと思う確信をもって。平和は、私に落ちかかって来た。私は、順調に啓発されて行った。そして、もう徒らな心配はしなくなった。
文明化というのは、見た目上は物があふれて便利になるとか、通貨が流通して有象無象のやり取りが簡略化されるといった分かりやすいものだ。
しかしながら文明化による精神性への侵略は、気をはらう者には存在するが、気づかない者には存在しない。そういった厄介なものと言える。
文明化されていない精神の者が使う文明の利器と、文明化された精神の者が使う文明の利器。
表在するものは同じであるが、内在するものはまるで違う。
戦の終わった江戸時代に刀の扱いを追求した武士と、扱える刀を追求した刀鍛冶。
茶を飲むだけのことを追求した千利休。
文明の中でも精神が失われないようにする流れが日本にはあった。
とくに江戸時代はそういった意味で世界的にも稀有な時代とする声が多い。
皮肉なことに、江戸時代を捨てた日本が文明化に猛然と突き進んでいる頃、ゴーギャンは文明を脱ぎ捨てることに挑戦していた。
こういった流れがいつからヨーロッパに出来ていったのか分からないのだが、18世紀にはルソーが「自然に還れ」と唱えているので、もっとずっと以前から文明に危機感を覚える流れがあったのだろう。
ヨーロッパ型の文明化は、まずはヨーロッパで疑問視され、アメリカに場所を移して再構築されてまた疑問視され、少し時をずらして日本でも疑問視されている。
文明化の全てを失敗とは言わないが、無くした精神を取り戻すには、学んで行くしかない。無くした精神に気づいてる人なら道は他にもあるが、気づけないなら学ぶほかない。
私の心は平静に帰った。そして、小川の冷たい水の中へ飛び込んだ時には、精神的にも、肉体的にも、限りない喜びを感じた。
「冷たいだろう」と彼は云った。
「いいや、ちっとも!」私は答えた。
この叫び声は、今私が、私自身の裡に、あらゆる腐敗した文明と戦って、断然勝利を占めた争いの終結を告げるように思われた。それは、山々の向うへ、響きの好い木精となって反響した。「自然」は私をよく理解してくれたのだ。
文明の力、それは強大であり、人間の精神の中でほとんど常に勝利をおさめる。
便利な物を使ってはならない。そういう単純な問題ではない。
便利な物の中に人間の精神を削るものがあるということだ。
ゴーギャンにその自覚がいつ目覚めたのか分からないが、これまで断然勝利をおさめ、タヒチの地で戦いの終結に至ったようだ。
この私の呼吸している清純な空気と、廃頽的な魂の中にひそんでいる堕落した本能とが、その対照と驚異とから、私の今すでに修得した聖なる単純な生命に不思議な魅力を与えた。この内部的経験は、換言すれば征服を経験したことであった。私はもう他の人間になって了ったのだ。
(ちょっと翻訳がギクシャクしているが・・・)
精神の克服は、一般的に苦しみに耐えることのみが強調されてしまうが、それだけでは人間は苦しいことだらけになってしまう。内部的な経験が掘り下げられ、新たな輝きにいたらなければ、誰でも浮世の苦しみに溺れ死んでしまう。
心がどうしようもなく行き詰まっている人は、苦しみに耐えることしか考えられなくなっていないか、あらためて心に聞いてみるといい。
「断然勝利をおさめてきた」というゴーギャンでもタヒチが必要だった。
あなたが行き詰まっているのなら、文明に侵された精神をどこで克服できるのか、求めてほしい。
『私たちはどこから来たのか 私たちは何者か 私たちはどこへ行くのか』
話はもどって『私たちはどこから来たのか・・・』
このタイトルはゴーギャンの一番有名な作品からとったそうです。
作品のことは知りませんでしたが、私の中に『ノアノア』がのこっていたので、ゴーギャンの“問い”がやけにしみてきます。
私たちはまったく、どこへ向かっているのでしょう?
コロナ騒動の中、なおさらその思いが強くなります。
私たちは何者なのでしょう?
ウィルスを前に、考えるべきでしょう。
命の有る無しは重要ですが、命の有り様はもっと重要です。
コロナ騒動は文明転換期の始まりに過ぎません。
ここをやり過ごしてもすぐに次がやってくると思っておいたほうがいいでしょう。
なにも考えずにいるうちに世界が様変わりしていたら、口惜しいことです。
人間の精神はこの程度の疫病で侵されるものではありません。
われわれは今、疫病に侵されているのではなく、コロナ禍という共同幻想に侵されているのです。
医療的解決よりも、思考力による解決の方が今は優先であり、試されているのです。
ゴーギャンが脱ぎ捨てようとした文明は、文明の利器などの物質ではありません。
文明によって、自分という命が見えなくなっていることに危機感を覚えたのです。
これはコロナ禍にあるわれわれにも当てはまることです。
『私たちはどこから来たのか 私たちは何者か・・・』はコロナも取り上げてますがそれは少しで、ほか次々と考える材料を提供してくれる力作です。
しかし突っ込みが浅くスピードが早すぎて物足りなくなるかもしれません。その時はあらためて自分で勉強してみるといいでしょう。
たぶんそれこそが本書の狙い。よろこんで罠にはまりましょう。
【参考】
我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか - Wikipedia
D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ? at DuckDuckGo画像検索
【追記】
実は似たような本が同時期に発行されております。
福岡伸一、伊藤亜紗、藤原辰史『ポストコロナの生命哲学』集英社新書
コロナ後の生命哲学を構築する必要を、これもまた三人で鼎談しております。
新書なのでライトですが、誰にでも読める本となっております。
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