2014年6月15日日曜日

子どもの成長。体の発見。

娘が走って喜んでいる。
体を感じて楽しんでいる。

成長の中にはこういう楽しみがいく回かある。



大人の感覚では“運動の修得は意識的な学習”を求められます。
例えばスクールや教室、サークルといった学習の場と機会が求められるのです。

子どもの運動修得も習い事などを通じて行われることがしばしばですが、“体の成長”いわば“発育”といったものは、いつでもどこでも起こり得る自由なものです。
それをうらやましく思う、あるいは郷愁を混じえた憧れを覚える方には、これから綴ることがよく分かるかと思います。


誰もが知る運動の修得は、赤ちゃんのハイハイであり、つかまり立ちであり、歩き出しだと思います。
こうした成長はほとんどの場合、意図的な教育を必要としません。

時期が来るとハイハイを始め、立ち上がります。
では時期とは何でしょうか?

それは筋肉・骨格の発達であり、外界へアプローチしたいという要求と言えます。

私個人は、ここに体の発見が伴っていると見ています。

初めて立ち上げる時、
ていねいに脚を伸ばすそのさまは
上手に骨を並べる行為であり、
自らの体を内観的に発見する瞬間である。

と私には映るのです。
娘の例では、背骨のバネの発見と言えます。
それまでの走り方とは明らかに違う動きでした。
きっと何かの時に、そのバネを発見したのでしょう。

もちろんそれまでも背骨は存在し、バネもあるのですが、重心の掛け方を工夫して、それまで感じていたものよりも強いバネを発揮する方法を発見したわけです。
ですから娘は走ってはいるのですが、バネが出力するタイミングを測ることに集中していました。それは速く走ることと同じとは限りませんが、発見した運動を確かなものにする過程なのです。

どうでしょう?忘れていたものを思い出されたでしょうか?

“体の発見”は子どもにとって強い喜びと好奇心を誘います。
体を鍛えるなら、こういう時に感じるままに体を動かすのが一番です。
こういう時の動作は、喜びに満ちた伸びのある運動となるため、ムダのない良い動きを身につける事ができます。
またムダがないので、長時間動き続けたりします。

意味もなく飛び跳ねている子ども。
高いところから飛び降りては喜んでいる子ども。
後ろ向きに歩いている子ども。
大声を上げる、なんていうのもありますね。

大人の目線では意味の見えない子供の遊びの中に、
当人の発見や喜びを見て取れるなら、
少しずつ、子どもへの理解が深まることと思います。

2 件のコメント:

  1. こんなころが懐かしいな~と思って拝読させて頂きました。
    モッテッソーリーの思想でいう「敏感期」というものでしょうか?
    最初は何をしてるんだ?と思いながら見ていましたが、同じことを何度も何度も失敗しながら繰り返し、ある時、「できた!」嬉しそうに言う顔は可愛かったです。親は答えを知っているけど、あえて教えず眺めていました・・・。懐かしい光景です。でも、それが子どもの心身の発達には大切なことで、中学生や大学生になっても、未だに、「親からみれば変なこと」を時折やっています。いくつになっても無意識の探究心はあるものですね!子どもって楽しい生き物ですね!いえ、ひょっとして私達親もでしょうか?

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  2. 続けざまのコメントありがとうございます。
    体の使い方を工夫している人なら、大人になっても同じようなことをしています。子どもほど無心に、自分の感じたままに続けられるかには違いがありますね。
    知識が邪魔するんでしょうね。

    返信削除

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